「慎」が開く「花」。
中間試験まで、残り数日。東京具留米学園二年C組では、実技試験に向けた練習が続いていた。
「よし!今日も朝練するぞ!」
「おー!」
朝早くから実習室に集まり、包丁を握る生徒たち。授業が終われば、また実習室へ戻る。
「もう一回やってみよう。」
「ここ、どうしても上手くいかないんだよなぁ……。」
「俺もそこ苦手。」
互いに教え合い、何度も繰り返す。授業が終わればまた練習。航平と瑠衣も夕方まで実習室で練習し、夜は泰龍軒の二階の瑠衣の部屋で勉強をする日々が続いていた。
「清永くん。ここ、昨日やったところだよ。」
「……ん?」
「もう寝ないでよ?」
「わかってるよ……。二年生って……やっぱ大変だな。」
「一年生のときより難しいもんね。」
「クソ……試験なんて大ッ嫌いだ。」
そんな日々が続き、そしてついに、試験当日を迎えた。
まずは筆記試験。試験は4日間かけて行われ、様々な教科の試験が順番に行われていく。
「…………。」
全ての筆記試験が終わると、航平は机に突っ伏して、その頭からはモクモクと煙が上がっていた。
「…………。」
航平の前の席では、気絶寸前の大群の頭からも同様に煙が上がる。
「…………終わった……。」
二人の頭から立ち上る煙を見て、英人が呆れた顔をする。
「お前ら、まだ実技試験残ってんだぞ?」
「うるせぇ……。」
「もう何も考えたくねぇ……。」
「やれやれ……。」
そして、その日の午後。いよいよ実技試験が始まる。実習室には、二年C組の生徒全員が集まっていた。教壇の前には、今回の課題となる食材が並べられている。渡邉先生が教室を見渡した。
「それでは、これより実技試験を開始する。」
教室が静まり返る。
「課題は花刀。みんなしっかり練習してきたかな?制限時間は30分。」
生徒たちが息を呑む。
「それでは……始め!」
渡邉先生の合図で、生徒たちが一斉に包丁を手にとる。教室中から包丁の音が響き始めた。
その中でも、玲司の動きは群を抜いていた。まるで迷いがない。包丁を入れる角度、力加減、食材を押さえる手……。すべてが正確だった。繊細でありながら、速い。まるで包丁そのものが手の一部になっているかのようだった。
玲司は黙々と作業を進め、そして、ほんの一瞬だけ横目で航平を見た。
「……。」
航平もまた、黙々と包丁を動かしていた。
(清永……。)
玲司は思う。
(もう以前のアイツとは別人だ。)
一年前とは明らかに違う、包丁を握る姿。
(そして、あの包丁……。)
玲司の視線が、航平の手元へ向けられる。
(もし、清永があの包丁を……。『神谷慎』の包丁を使いこなせるようになっているのなら……。)
玲司は再び自分の作業へ集中する。
――負けるつもりはない。
自分もまた、この一年間で積み重ねてきたのだ。
そして航平も――。
「……。」
航平は集中していた。周囲の音が、少しずつ遠くなっていく。ふと、あの店主の言葉が頭をよぎった。
『お前は、この包丁で何を切る?』
『なんのために料理をする?』
「……。」
航平は包丁を見つめる。
(なんのために……。)
父親の顔が浮かんだ。幼い頃から一緒に料理をしてきた父。反発して、逃げるように東京へ来た。
次に浮かんだのは、龍彦や百田、泰龍軒。料理をする場所。今の自分が帰る場所。
そして玲司。何度も競い合った、ライバル。
それから、これまで一緒に過ごしてきた学校のみんな。様々な顔が、航平の頭をよぎっていく。
そして――。
(俺は……!)
航平の目に、光が灯る。包丁を握る手が、自然と動いた。もう迷いはない。航平自身も気づかないうちに、その手は驚くほど滑らかに動いていた。まるで今まで身体に積み重ねてきたものが、一気に繋がったかのようだった。
航平の心の中を覆っていた霧が、ほんの少しだけ晴れていくような気がした。
――そして。
「そこまで。」
渡邉先生の声が実習室に響いた。生徒たちが一斉に包丁を置く。そして皆が大きく息を吐いた。
「終わったぁ……!」
「疲れた……。」
「やっと終わった……。」
生徒たちは一斉に緊張を解いた。
「これで試験全部終了だな!」
「よっしゃー!」
「今日は打ち上げだね!」
「飯行こうぜ!」
「賛成ー!」
「アッツいです!」
「腹減ったー!!」
教室に一気に笑い声が戻る。
「じゃあ行こうぜ!」
クラスメイトたちが次々と実習室を出ていく。
「清永くん!早く!」
瑠衣に声をかけられ、思わず瑠衣の顔を見つめてしまう。
「……?どうしたの?私の顔になんかついてる?」
「ああ、いや!なんでもねぇよ!行こうぜ!」
航平は慌てて誤魔化して、瑠衣とともに教室を出ていった。
誰もいなくなった実習室に、玲司は、一人だけ残っていた。
「……。」
静寂の中、玲司は、航平の作品の前に立っていた。しばらく黙って作品を見つめる。
(……なるほど。)
玲司の目が細くなる。
(本当に……おもしろい男だ。)
技術だけなら、まだ自分の方が上だ。だが、この作品には、以前の航平にはなかった何かがある。迷いながら、悩みながら、それでも自分の答えを探して、包丁を握った者にしか出せないもの。
(認めるよ、清永。お前は――。)
玲司は静かに笑った。
(俺の真のライバルだ……!)
こうして、長い中間試験は終わり、その数日後、試験結果が発表された。
「それでは、実技試験の結果を発表する。」
二年C組の生徒たちが固唾を呑んで見守る。
「第一位――斎浦玲司。」
玲司は静かに前を向いていた。
「第二位――清永航平。」
「……!…俺、二位か。」
航平は少しだけ悔しそうに笑った。あと一歩。玲司には届かなかった。航平は、自分の手を見る。
(けど……前とは違う。何かが変わった気がする。)
技術だけじゃない。料理に対する気持ちも。自分自身のことも。前よりも少しだけ、わかったような気がした。
放課後、航平は玲司の席へ向かった。
「さすがだな。包丁はまだお前に敵わねぇ。」
「当たり前だ。」
航平はへへっと笑って続ける。
「けど、次は負けねぇ。」
「望むところだ。」
東京具留米学園での日々と、繰り返される航平との勝負を経て、玲司自身もまた、一回り大きくなっていた。
そして、彼らのことを静かに見守る黒い影がいることに、航平も玲司も、まだ気がついてはいなかった。




