ワタシの好きなアナタの好きな人
ある春の日の昼休み。東京具留米学園の廊下を、一人の少女が歩いていた。黒く長い髪。整った顔立ち。真面目そうな表情。
一年B組、柊木なでしこ。
和食コースで、和菓子作りが得意な女子生徒だ。なでしこは廊下の先に、見慣れた姿を見つけた。
(……あ。)
そこにいたのは、藤咲聖羅だった。
(聖羅さん…!)
その名前を心の中で呼んだだけで、なでしこの胸がほんの少しだけ高鳴った。他人には気づかれないほど小さな変化だったが、その表情には確かな喜びが浮かんでいた。
聖羅は、なでしこにとって憧れの存在だった。声をかけようと、足を速める。しかし――。
「清永くん、それでね――」
「へぇ……。それは知らなかったな。」
聖羅の隣には、航平がいた。二人は楽しそうに話している。聖羅は、笑っている。なでしこが知る以上に。優しくて、柔らかくて――。とても幸せそうな笑顔だった。
「…………。」
聖羅と航平の楽しげな様子を見て、なでしこは足を止めて、離れたところで二人を見つめる。
(……聖羅さん。)
胸の奥がざわつくのを感じる。ずっと聖羅を見てきたからわかる。
(……聖羅さん、その人のことが、好きなんですね…?)
そのときだった。
「……柊木なでしこ。」
「……?」
突然、背後から声がした。なでしこが振り返る。
そこには、黒い影が立っていた。
なでしこは目を見開く。しかし、その人物は周囲を気にする様子もなく、静かに口を開いた。
「清永航平…。それが、彼の名前だ。」
なでしこは黙って聞いている。
「気になるか?彼が。」
「……!」
なでしこの瞳が、わずかに揺れる。
「彼がどんな人間なのか。聖羅の隣に相応しい人物なのか。」
影の人物は、なでしこを見つめる。
「自分の目で、見極めてみるといい。」
影の人物が立ち去ると、なでしこは再び聖羅たちに視線を戻す。二人はまだ楽しそうに話していた。こちらに気づく様子もない。
「…………。」
しばらく二人を見つめたあと、なでしこは、ゆっくりと背を向け、そして、その場から立ち去っていく。
「……?」
その後ろ姿に聖羅が気が付く。
「あれ……?」
「どうした?知り合いか?」
二人は廊下の先のなでしこの後ろ姿を目で追った。
「あ、うん。中学校の後輩で、よく懐いてくれていた子なの。」
(……なでしこちゃん?)
柊木なでしこは、物静かで、真面目。人と話すことが少なく、感情を表に出すことも得意ではない。そのため、初対面の相手からは「無口で大人しい子」と思われることが多い。だが、そんな彼女にも、憧れの人がいた。
藤咲聖羅。
現在は東京具留米学園高校の二年生。フレンチコースに席を置き、将来は一流のパティシエを目指している。なでしこが聖羅のことを知ったのは、中学生の頃だった。
名門グランメゾン、『ラ・グリシーヌ』のオーナーシェフの愛娘。当時から、聖羅は料理人として非凡な才能を見せていた。特に洋菓子の腕は、すでに大人顔負け。華やかな見た目だけではない。
料理に向き合う姿勢。人への優しさ。そして、食べる人を笑顔にする力…。
なでしこは、そんな聖羅に強く惹かれた。そして、自分も料理人になると決めた。
ただし、なでしこは聖羅とは違う道を選んだ。
なでしこが選んだのは、和食。そして、和菓子だった。
(私も……聖羅さんみたいになりたい。和食の世界で……聖羅さんみたいに…!)
それが、なでしこの夢だった。だからこそ、聖羅が誰かを好きだという事実は、なでしこの胸に言葉にできない複雑な感情を残した。
その日の帰り道。なでしこは、昼間の出来事を思い出していた。
(清永先輩……。)
そして、あの影の人物の言葉も。
『彼がどんな人間か。』
『聖羅に相応しい人物か。』
『自分の目で、見極めてみるといい。』
「…………。」
なでしこは、静かに頷いた。
翌朝、2-Cの教室を廊下から、一人の少女が覗いていた。その視線の先には、机に突っ伏す航平の姿があった。
「…………もう無理だ……。」
「清永くん! ほら、授業始まるよ!」
「……あと五分……。」
「もう始まるってば!ほら!がんばれー!がんばれー!」
航平の頭からは、なぜか煙が上がっている。なでしこは、じっとその様子を見つめていた。
(……この人が。)
聖羅が好きだという男、清永航平。
(…………。)
しばらく観察したあと――。なでしこは、小さく首を傾げた。
(……どうして?)
聖羅は、こんな人を……?
ここから、なでしこの「清永航平観察」が始まった。
またその翌朝。なでしこは再び航平の観察を始めていた。廊下の柱の陰から、なでしこが教室の中を覗いている。視線の先には、昨日と変わらない姿があった。
「…………眠い。」
航平は相変わらず机に突っ伏している。
「清永くん、朝だよー!がんばれー!」
瑠衣が一生懸命に航平に声をかけている。
「…………。」
なでしこはじっと観察する。
(……起きない。)
しばらく待って、なでしこは真面目な顔で手帳を取り出した。そして、何かを書き込む。
【朝 起きない】
「…………。」
観察対象の評価が、また一つ下がった。
昼休み。なでしこは再び観察に向かっていた。航平は、英人、神司、大群、貫戸と5人で購買に向かっているようだ。
「航平早くしろ!学園カレーパンなくなっちまう!」
「おう!急げ!!」
「明太ポテトパンは俺のものだーッ!!」
5人が騒がしく購買へ向かう。なんとか後を追い、購買にたどり着くと、5人はすでにパンを持って、何やら輪になって話している。
「いくぞ…!」
「おぉ!!」
「「「「「最初はグー!ジャンケンホイ!!」」」」」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁあぁぁあ!!」
悲鳴をあげて、大群が膝から崩れ落ちた。
なでしこは、うっすらと半眼の冷たい視線を5人に送ってから、また手帳を開いた。
【昼 バカ騒ぎ】
「また俺かよぉ!?破産しちまうよぉ…」
英人に泣きつく大群をみんなで笑いながら、航平は視線を感じて、その方向を振り向く。その先にはなでしこの姿があったが、なでしこはまたくるりと背中を向けて立ち去っていった。
「アイツ…昨日の藤咲の後輩…だよな?」
その日の午後、なでしこたち一年生は、これから頻繁に使用する事になる調理実習室を見学するため、上級生の実習を見学する事になっていた。訪れた調理実習室では、2-Cが実習を行なっており、なでしこはそこでも航平を観察することができた。そして、調理実習が始まると、航平の印象は少しだけ変わった。
「…………。」
なでしこは、調理室の隅から航平を見ていた。さっきまでとは、明らかに違う。包丁を握る手。食材を見る目。火加減を調整する繊細な動き。
普段の気だるそうな姿からは想像できないほど、無駄がない。なでしこは、思わず見入ってしまう。
(……すごい。……料理が、上手。)
料理をしている航平の表情は、真剣そのもので、普段とはまるで別人だった。なでしこは、しばらくその姿を見つめていた。
そして、手帳を開く。
【料理 すごい】
少し考える。
【……かなり】
さらに一行。
【でも、"普段は" だらしない】
「…………。」
どうやら、評価はプラスマイナスゼロらしい。
放課後、なでしこは一人で学校を出た。今日は、一日航平を観察し、とても疲れを感じていた。帰りに、大好きな和菓子屋に寄って帰ろう。そう決めていた。
駅前にある老舗の和菓子店の大福が、なでしこの大好物だった。赤ちゃんの肌のようにきめ細かい白い生地、小豆の旨味を引き立てる上品で絶妙な甘さ、とろけるように柔らかな餅、粒立ちの良い餡子…。思い出すだけで、条件反射のように口内が潤んだ。
店の目の前まで来て、なでしこは足を止めた。店の中から、見覚えのある人物が大福の袋を抱えて出てくる。
「…………。」
航平だ。二人の目が合う。
「…………。」
「あ。……お前。」
「…………。」
「藤咲の後輩…だよな…?」
「…………。」
「……なんだよ、なんか俺の顔についてるか?」
「…………。」
なでしこは、表情を変えることなく、じっと航平を見る。昨日からの観察対象。学校ではだらしなく、常に眠そう。しかし料理になると、別人のような腕と表情を見せる男。
「…………。」
なでしこは、無言で航平を見つめ続ける。
「あのー……。」
「…………。」
航平は困惑する。
「……俺、なんかした?」
なでしこは黙ったまま、小さく首を横に振る。
「じゃあ……あのー…一体これはどういう…?」
「…………。」
なでしこは何も話さない。
「…………。」
しばらく沈黙が続く。やがて航平が、手に持っていた袋を見る。
「あー……。」
航平は袋から大福を一つ取り出した。
「……食うか?」
「…………。」
なでしこの目が、大福に向き、ほんの少しだけ、目が輝いたが、航平は気付いていないようだ。
なでしこは小さく頷いた。
二人は店先のベンチに座り、二人で並んで大福を食べ始めた。
「…………。」
表情は変わらないが、一口食べただけで、なでしこの口と胸が幸せでいっぱいになる。
航平も大福を頬張る。
「んー!うまいよな、これ。」
なでしこが小さく頷く。
「餡子が甘すぎないし、餅も柔らかくて。」
コクコクと、またなでしこが頷く。
なでしこは、大福を食べる航平の顔を見た。その表情は、とても幸せそうだった。
「…………。」
なでしこは、もう一度大福を見るて、そしてまた、航平を見る。
(…………。)
航平と話していた、聖羅の笑顔が頭に浮かんだ。楽しそうだった。それに、とても幸せそうだった。
(……あ。)
なでしこの胸の奥で、何かが繋がった。
(そういう……ことなんだ。)
聖羅さんは、この人が美味しいものを食べて、こんな顔で笑うところが、好きなんだ。きっと、聖羅の料理をこんな風に食べたんだろう。そして、料理をしているときの真剣な顔。普段はだらしなくても、不器用でも、この人には、きっとこの人にしかないものがあるんだろう。
「…………。」
なでしこの頬が、ほんのり赤くなる。
「ん?」
航平が振り向く。
「どうした?」
「…………。」
なでしこはフルフルと首を横に振る。
「そうか。」
「…………。」
なでしこは、もう一度大福を口に運ぶ。そして、誰にもわからないくらい、小さく笑った。
その夜、なでしこは自室で、今日のことを思い出していた。
(清永航平……。)
最初は、聖羅がなぜこの人を好きなのか分からなかった。でも、今なら少しだけ分かる気がした。
(……聖羅さん。)
なでしこは胸に手を当てる。
(聖羅さんが好きになる人なら……。)
そこまで考えて――。
「…………。」
なでしこは、また少しだけ頬を赤くした。
なでしこは目を閉じる。
自分にとって聖羅は、憧れの人。大切な先輩。大好きな人。
だから――。
(……聖羅さんが幸せなら、それでいい。)
そう思った。聖羅のことを想って、そして航平のことを思い出して、顔が少し熱くなるのを感じた。
この気持ちが何なのか。それはなでしこ自身にも、まだ分からなかった。
翌日。
「…………。」
なでしこは放課後の実習室で、黙々と和菓子を作っていた。
「柊木さん、何作ってるの?」
「…………。」
なでしこは何も言わなかったが、自分の手元をクラスメイトの女子に見せる。
「…………大福?」
なでしこはコクリと頷く。
「おいしそう!」
「…………。」
なでしこはまた、誰にも気づかれないくらいにちょっぴり頬を赤くして、コクコクと頷く。その様子を見て、クラスメイトが、苦笑する。
賑やかな東京具留米学園の、静かな少女の学園生活が始まった。




