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それから、ルルは来なくなった。最初の数日は、「まあ、そのうち来るでしょ」と思っていた。もともと不定期だったし、向こうの時間の流れも違う。数日空くことなんて、珍しくもない。
「……今日も来ないか」
冷蔵庫の扉を開ける。冷気が、ただ流れてくるだけだった。草の匂いも、しゃらんという音も、何もない。
「……だよね」
自分に言い聞かせるように呟いて、缶ビールを一本取り出す。プシュ、と軽い音。それだけで、部屋がやけに静かに感じた。
仕事は相変わらず忙しい。電車に揺られて、パソコンに向かって、同僚と軽口を叩いて。いつも通りの毎日。
「遥さん、最近ちょっと元気ないです?」
「え、そう?」
「うん。前はもうちょっと楽しそうだった気がします」
「気のせい気のせい」
笑って誤魔化す。——前は。
その言葉に、胸がひっかかった。
(前って、いつ?)
考えなくても、わかる。あの、やかましくて、図々しくて、妙に素直な少年が、頻繁に現れていた頃だ。
真夏の夜。帰宅する。
「ただいまー……」
返事はない。当たり前だ。それでも、少しだけ間を置いてしまう自分がいる。
「……いるわけないか」
苦笑して、靴を脱ぐ。冷蔵庫に向かう足取りが、少しだけ速くなる。——しゃらん。鳴らない。わかっているのに、毎回、ほんの少しだけ期待してしまう。
扉を開ける。整然と並んだ食材と、缶ビール。それだけ。
「……なんか、つまんないな」
ぽつりと零れた本音に、自分で驚いた。あの日のことを、何度も思い出す。元カレと話していた時のこと。ルルの顔。あの声。
——もう子供じゃない、と怒鳴ったあの子。胸の奥が、じくりと痛む。
誰もいない部屋で、独り言。
「そもそも、あんた……子供じゃん」
言ってから、違和感が残る。あの時のルルは、もう“子供”じゃなかった。押さえつけられた腕の感触。近すぎた距離。息遣い。全部、思い出してしまう。
「……なに考えてんの、私」
頭を振って、ビールを一口。苦味が、やけに強く感じた。
数日が過ぎて、一週間が過ぎて。それでも、ルルは来ない。冷蔵庫は、ただの冷蔵庫のままだ。それがこんなにも、物足りないなんて思わなかった。
ある日、スーパーで見慣れない魚を見つけた。
「……これ、ルル好きそう」
手に取ってから、はっとする。買っても、意味がない。食べる相手が、いない。少し迷って、結局カゴに入れた。
「……別に、私が食べるし」
言い訳みたいに呟く。
夜。その魚を使って料理を作る。
「……こんな感じでいいのかな」
皿に盛り付けて、テーブルに置く。向かいの席が、やけに空いて見える。
「いただきます」
一口食べる。
「うん、普通に美味しい」
でも。
「つまんない」
箸を置いた。前は、隣で「うまっ!」って騒ぐ声があったのに。変な感想言って、こっちがツッコんで。くだらないやり取りして。それが、当たり前みたいになっていた。
「いつの間に、こんな」
ぽつりと呟く。喉の奥が、少しだけ苦い。
その夜。寝る前に、ふと冷蔵庫の前に立った。
「ねえ」
返事なんて、あるはずないのに。
「まだ、怒ってんの?」
静まり返ったキッチン。手を伸ばして、扉に触れる。冷たい。ただ、それだけ。
「ごめん、って言ったら、来る?」
小さく、笑う。でも、手は離せなかった。
「会いたい、な」
ぽろりと零れた言葉に、自分で目を見開く。
——ああ、そっか。
私。会いたいんだ。あの勝手に来て、勝手に心をかき乱していくあの子に。
「ルル」
名前を呼ぶ。当然、返事はない。それでも——
少しだけ、冷蔵庫の向こう側に、手を伸ばすみたいに。
扉に額を軽く預けた。静かな部屋に、自分の呼吸だけが響く。その静けさが、やけに寂しくて。遥は目を閉じた。




