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「ほにゃー」と成人女性にあるまじき声をあげて異世界人の女性、ーー遥は眠ってしまった。

「男の前で、無防備すぎる…」

 夏とはいえ夜半は冷える。毛布をかけてやりながらルルは独りごちた。あの〝冷蔵庫〟なる箱から遥の世界に通うことになって早数年。少年は片思いを拗らせていた。

 可愛い、可憐な遥。ルルの中では遥はまさに恋焦がれる女性だった。一族の術式を使って辿り着いた先にいた、ルルの女神。初めは、幕越しに彼女の姿を眺めるしかできなくて。衣類をなんとか紛れ込ませ、世界の接点を少しずつ侵していったのだ。

 ルルの使った術式は妻を探すもの。過疎化が進むルルの一族にとって、嫁探しは死活問題だった。

 ルルの一族は運命の番以外、娶ることができない。そういう質に生まれついているのである。そしてルルの運命、座標の術式が繋がった先は、この異世界だった。

「遥。愛おしすぎて、おかしくなりそう…」

 初めは何かの間違いだと思った。相性の良い相手を探して隣の集落あたりに着地するはずだった自分が、世界を跨いでしまったのだから。

 だけど、遥と関わるうちに、自分の運命の人が誰なのかいやが応にもわかってしまった。早くなる心拍。回らない頭。遥の前ではちっとも格好つけれない己。

 彼女にかつて恋人がいたと聞いた時、どんなに頭が沸騰したか。顔も知らない相手に殺意が湧くほど嫉妬してしまった。彼女が己以外と話していることすら許せない。心の狭い自分が嫌になる。

「やっと見つけたのにーー。オレの女神」

 年の差のせいか、ちっとも相手にされない。自分より背の低い男は嫌なのだろうか。子供っぽい嫉妬は見苦しい?不安ばかりが積もる。

 もう時間がないのに。

「本当に困った女だ」

 眠る遙の髪に触れかけてやめる。代わりにその手をぎゅっと握りしめた。

ーー他の誰にも、渡したくない。




 金曜の夜、スーパーの袋を片手にアパートの階段を上がっていると、踊り場で見覚えのある背中があった。

「……あれ」

 呼ぶより先に、相手が振り向いた。

「遥」

 一瞬、時間が止まった気がした。

「……久しぶり」

「久しぶり。元気そうだな」

 相変わらず、整った顔で、ばっちり決まったスーツ姿。誰が見ても100点の男。それが遙の元彼氏だった。ああ、少しだけ髪が短くなっている、なんてことを、どうでもいいみたいに思う。

「うん、まあね。そっちは?」

「忙しいけどな。……あのさ、ちょっとだけいいか」

 少しだけ視線を泳がせてから、彼は言った。

「この近くで仕事あって。たまたま通ったら、見覚えあるアパートだったから」

「そっか。よく覚えてたね」

「忘れるわけないだろ」

 沈黙が落ちる。なんでこの人と付き合えていたんだっけ?告白は彼からだった。私なんて彼に比べて地味で取り柄もなくて、だけど彼は「君と結婚したい」と言ってくれたのだった。

 前は、この彼の好意が苦手だった。ちゃんと返さなきゃ、埋めなきゃって思ってた。でも今は、ただ、そういう溝もあったよね、で済ませられる。

「……遥さ」

「ん?」

「今も、一人?」

「うん。まあ、気楽でいいよ」

 軽く笑って答えると、彼は少しだけ目を細めた。

「お前らしいな」

「でしょ」

 くすっと笑う。

「でもさ」

 彼は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。

「前より、柔らかくなった気がする」

「え?」

「前はもっと、こう……壁あっただろ」

 図星で、思わず視線を逸らす。

「……そうかな」

「うん。なんか、柔らかくて優しくなった感じ。なんかあった?」

 どきり、とした。その原因が、頭に浮かんでしまったから。冷蔵庫の向こうから来る、金色の瞳の少年。最近はもう、少年なんて呼べないくらいの。

「……まあ、色々あるよ」

 ごまかすように笑うと、彼はそれ以上踏み込まなかった。

「そっか」

 少しだけ、安心したような顔。

「なら、よかった」

 その言い方が、やっぱりこの人だなと思う。ちゃんと大人で、優しくて、完璧でーーそこが私には苦しかったのだけど。

「じゃあ、俺そろそろ行くわ」

「うん。気をつけてね」

「ああ。遥も」

 すれ違う瞬間、ほんの一瞬だけ、昔の距離感が戻りそうになって——でも、何も起こらないまま、それはすり抜けていった。

 ドアを開けて、部屋に入る。

「ただいまー……って、いる?」

 返事はない。少しだけ、暗いままのリビングに違和感を覚えつつ、靴を脱いで、キッチンへ向かう。扉に手をかけた、その時。

 ——しゃらん。

 小さな音。次の瞬間、ぐい、と腕を引かれた。

「ちょっ……!」

 視界が揺れて、気づけば、目の前にルルの顔があった。

「……今の、誰」

 低い声。前に聞いたことのない温度だった。

「え……?」

「さっき、外で話してた男」

 金色の瞳が、まっすぐ射抜いてくる。

「……元カレ」

 言った瞬間、空気が変わった。

「……は?」

 短い、押し殺した声。

「偶然会っただけだよ。別に——」

「楽しそうだった」

 遮るように、ルルが言う。

「笑ってた」

「そりゃ、普通に話してただけだし……」

「オレの前では、あんな顔、しないくせに」

 息が詰まる。

「……してるでしょ」

「違う」

 即答だった。

「全然、違う」

 一歩、距離が詰まる。逃げ場がなくなる。

「……あんたさ」

 低く、抑えた声。

「なんで、あいつとあんな距離で話せるの」

「いや、普通でしょ。元カレだし」

「普通?あれが?」

 その言い方は、怒りというより、理解できないものに対する苛立ちだった。

「こっちじゃ、一度選んだら終わりなんて、ありえない」

「……それは、そっちの話でしょ」

 少しだけ、強く言い返す。

「あのね子供が大人の関係に首を突っ込まな…」

「もう子供じゃない!」

 ルルの手が、遥の腕を掴んだ。床にそのまま押し倒されて心臓が跳ねる。

「あんた、油断しすぎ。もう力はオレの方が強いんだぞ」

 近い。近すぎる。だけどルルの拘束が強すぎて逃げ場がない。

「……ルル」

「なあ」

 額が触れそうな距離で、囁く。

「オレは、あんたをいくらだって好きに——」

 言いかけて、止まる。歯を食いしばるように、視線を逸らした。

「……くそ」

 ぽつりと落ちた声は、ひどく苦しそうだった。同時に腕の拘束が緩まった。

「……なんで、あんなやつに、笑うんだよ」

 その一言に、胸がきゅっと締め付けられる。元彼にはなかった、怒りの入り混じった、ドロドロの、ただの、どうしようもない感情。

「……ルル」

「……触んな」

 伸ばしかけた手を、軽く払われる。ルルは冷蔵庫の方へ視線を向けた。帰るつもりだ。

「ちょ、待ってよ」

「待たない」

「なんでよ!」

「……あんたは〝子供〟のルルが可愛いんだろ」

 低く、吐き捨てるように。

「そういう顔してるあんた。餌付けみたいにオレのこと〝可愛がって〟楽しかったかよ」

 そのまま、冷蔵庫の奥へ消えていく。風だけが残った。しん、と静まり返った部屋で、遥は立ち尽くす。

 さっきまで、ただの懐かしい再会だったはずなのに。どうして、今はこんなにもルルで胸がざわつくのか。

 ーーあんたは子供のルルが可愛いんだろ。

 ルルの言葉が、頭の中で何度も反響する。ゆっくりと、冷蔵庫の扉に触れた。冷たいはずのそれが、妙に遠く感じた。


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