水精姫とフーラース
大演習場の闘技祭に現れた魔王ユーバフとアミアン。
その未曾有の危機から一週間が経過した王都は、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
事件の後処理と負傷者の対応に追われていた学園や騎士団も、徐々に通常の業務へと戻り始めている。
そんな中、大教会の奥深くにある教皇個人の執務室。
そこには、三人の人影があった。
「ふむ。このお茶は美味しいですね」
白い髭を撫でながら上質な革張りのソファで寛いでいるのは、神界の神人長フーラースである。
彼は闘技場に降臨した後、自らが責任を持って神界の事後処理を行うため、一度天へと戻っていた。
そして今日、下界の代表者である教皇と、渦中の人物であるマリエルに事の顛末を説明するために、再びこの大教会の執務室を訪れていたのである。
「そう言っていただけると私としても喜ばしい限りです。マリエルさんも、いかがですか」
向かいのソファに座るアシュトルフ教皇が、穏やかな笑みを浮かべてティーポットを傾ける。
教会の最高指導者である彼は、天上の存在である神人が直接この部屋を訪れてくれたことに「天からのお客様が二人も!」と、心底嬉しそうにノリノリで歓待の準備を整えていた。
「あ、いただきます……」
マリエルは恐縮しながらティーカップを両手で受け取り、紅茶をすする。
華やかな香りが鼻を抜け、緊張で強張っていた神経が少しだけほぐれるのを感じた。
恩師である神人長と教皇という、二つの世界のトップと同席してお茶を飲むなど、一介の学生の身分では本来あり得ないことだ。
フーラースは紅茶のカップをソーサーに置き、厳かな声音で直近の神界での大きな出来事を語り始めた。
「まず結論から申し上げましょう。神界法における『下界追放処分』は、正式に廃止となりました」
「あ、そうなんですね」
マリエルは少し驚きながらも、安堵の声を漏らした。
罪人を下界へ堕とすという傲慢な刑罰が、魔王という災厄を生み出していた。
その根本的な原因が断たれたということは、この世界にとって何よりの朗報だ。
「ええ。今回の一件で、追放した神人が下界でどれほどの憎悪を溜め込み、脅威となるか……神界の上層部もようやく事の重大さを理解しましたのでね」
フーラースは深く息を吐き出す。
「もう下界に魔王は出ない……とは断言はできませんが、まあ今後新たな魔王が生まれる確率は大きく減るでしょう」
「これからも何らかの理由で下界に降りる神人様もいらっしゃるでしょうしねえ……。我々教会としても、警戒を解くわけにはまいりませんな」
教皇が思案顔で頷く。
「元々は下界の厳しい環境で罪人に反省を促すための処分だったのです。いずれ心を入れ替え、再び天へ登る努力をしてくれるものと期待して」
フーラースが追放刑の本来の意図を語る。
「しかし、下界から天へ登る手段が、いつしか完全に失われていたとは……我々も予想しておりませんでした。2000年前までは確かに下界と神界を行き来する術があった気がするんですけどねえ。記録が散逸しておりまして」
その言葉に、マリエルは思わず口を挟んだ。
「あの、神人長。……一体いつから生きてるんですか?」
2000年前の記憶があるということは、神人の寿命は人間の想像を絶する長さなのだろう。
一体何歳なのか。
「さて、忘れましたな。長く生きすぎると細かい数字はどうでもよくなるものです」
フーラースは白い髭をいじりながら、お茶を濁すように笑った。
「……でも、それなら一つ疑問があります」
マリエルは、ずっと胸に抱えていた疑問を口にする。
「お父さんは天へ登る手段が失われていたはずなのに、人間でありながら天に登ったって聞いてるんですけど。あれはどういうことだったんですか?」
父である先代勇者は150年前に魔王と戦い、その功績を認められて生きたまま神界へと迎え入れられた。
それが事実なら、手段は失われていなかったことになる。
フーラースはマリエルの顔を真っ直ぐに見据え、静かに答えた。
「私が彼に同道して神界への扉を開いたからですね」
「えっ」
マリエルの思考が停止する。
父が天へ登ったのは自力ではなく、神人長の導きによるものだったというのか。
「実は150年前に追放を決定したある神人は、かなりの重罪人でしてね。法の裁きを受ける直前『天輪』と『光翼』の剥奪前に結界を破ってそのまま下界へ逃げ出したのです」
フーラースは過去の忌まわしい記憶を語るように目を細めた。
「その足跡を追って私も密かに下界に降りていたのですよ。その際、追跡の過程で偶然出会ったのが、あなたの父親となる人間でした」
マリエルは息を呑んで聞き入る。
「彼は人間でありながら強い魔力と高潔な魂を持っており、見所のある方だったので、しばらく行動を共にし、魔法の術理などを教えて弟子にしていました。……マリエルくん。君はつまり私の弟子の娘となりますね」
「神人長がやたらと私に良くしてくださった理由が、やっとわかった気がします……」
神界で孤立し「混ざりもの」と蔑まれていた自分を、なぜこの老神人だけが特別扱いし、庇護しようとしてくれたのか。
それは、かつての愛弟子の娘だからという深い縁があったからなのだ。
「なるほど、そういうことでしたか」
話を聞いていた教皇が思わず頷く。
「マリエルさんから大教会の地下にあった魔王の手記に、あなたの名が残っていたと聞きましたが……。これで合点がいきました」
「ええ。私が追っている罪人ならば私に対する憎しみの言葉や名前のひとつふたつは残すでしょうねえ。その手記が具体的に何を書いたものなのかは、私も知り得ませんが」
フーラースが納得したように頷く。
150年前の魔王の正体は、フーラース自身が追跡していた神界の逃亡犯だったのだ。
「お父さんがどうやって魔王の拠点を突き止めたのかも、なんだかわかった気がしますね……」
マリエルが呟く。
神界の追跡者であるフーラースが同行し、さらに神人特有の魔力波長を追っていたのであれば、当時の人間には不可能だった魔王の拠点の特定も容易だったはずだ。
「当時は、その逃亡した罪人が下界で強い力を持っているから民衆から『魔王』と呼ばれているのだと思っていました。まさか過去に追放処分にした神人たちまでが何度も魔王と呼ばれて厄災を引き起こしていたとは……」
フーラースは深々と頭を下げた。
「神界の管理不足により下界に大変なご迷惑をおかけしたようだ。改めて謝罪いたします、教皇殿」
「いえいえ、頭をお上げください。こうして原因を突き止め、追放刑の廃止という形で対処してくださるだけで、我々としては充分ですとも」
教皇は寛大な態度で、神人長の謝罪を受け入れた。
マリエルはそのやり取りを見ながら、内心で激しくツッコミを入れていた。
(でも、魔王が過去の追放者だって話は、教会の中枢に接触すればすぐにわかったはずだよね……)
歴代の教皇の中に魔王の血を引く者がおり、その事実を秘密裏に記録していたのだ。
(あー、そういえば……。当時、教会が権力闘争で腐ってて、お父さんたち勇者一行をロクに支援しなかったんだっけ。それで神人長は教会から距離を置いてて、教会で管理してる事情を知る機会が無かったと)
マリエルは当時の状況を推察し、呆れ顔になる。
自分たちの権力争いのせいで神界と情報を共有する機会を失い、結果的に魔王の謎を150年も放置する羽目になったのだ。
つくづく、あの暗黒時代は人類史の大きな足枷になっているらしい。
「ところで、マリエルくん」
フーラースが、真剣な眼差しでマリエルに向き直った。
「君は神界に戻りますか?」
「え?」
突然の提案に、マリエルは驚いて問い返す。
自分は一度、罪人として下界に落とされた身だ。
戻ることなどできないと思っていた。
「君が追放されたのは、ユーバフたちの捏造による冤罪でしたし、すでに無実は証明されています。今回の一件で純血主義を振りかざす者たちへの牽制にもなるでしょう」
フーラースは、マリエルの不安を払拭するように優しく語りかける。
「以前のように君を『混ざりもの』と呼んで蔑むような針の筵にはなりません。私が保証します。高位神人の資格も与え、私の直属の部下の席も空けてありますが……どうですか」
それは、かつてマリエルが神界で喉から手が出るほど欲しかった、正当な評価と安息の居場所の提示。
亡き両親の愛した世界で胸を張って生きていく。
その夢が今、目の前に差し出されている。
マリエルは手元の紅茶のカップに視線を落とし、しばらくの間、静かに考え込んだ。
カップの水面に映る自分の顔を見る。
神界にいた頃の感情を押し殺した無表情な自分はもういない。
やがてマリエルはゆっくりと顔を上げ、フーラースに真っ直ぐに向き直った。
「私は……下界に残ります」
迷いのない、はっきりとした声だった。
フーラースは理由を促すように短く相槌を打つ。
「ふむ」
「私には、ここ下界に……大事な友達も、こ、恋人もできましたし……」
マリエルは、ルカの顔を思い浮かべて少しだけ頬を赤らめながら言葉を紡ぐ。
「辺境の街で拾ってくれた恩人や、一緒に戦ってくれる先輩たちもいる。……皆を置いて、私一人だけ神界へ行くことはできません」
彼女にとって、ここはもう「見知らぬ下界」ではない。
温かく、騒がしく、そして自分が自分らしくいられる大切な居場所になっていた。
フーラースが、長命な種族特有の残酷な現実を指摘する。
「人間と君の寿命は違う。神人の血を引く君は、彼らよりも長く生きる可能性が高い。いずれ彼らを先に見送るという、つらい別れがあるかもしれませんよ?」
「わかっています。でも……」
マリエルは、それでも力強く首を振った。
「いつか必ず来るつらい別れを恐れて、今ここで、彼らとつらい別れをする方が嫌です」
マリエルの瞳に、確かな光が宿る。
「限りある時間だからこそ、今を精一杯生きて。彼らといっぱい思い出を作って、それから最期の時に『楽しかったね』って笑って、お別れしたいんです。それが私の選んだ道です」
神界の永遠のような退屈な時間よりも、下界の限られた輝かしい時間を生きる。
それが人間と神人の間に生まれた彼女が見つけた、彼女自身の生き方だった。
「……そうですか」
フーラースはマリエルの決意の固さを感じ取り、静かに目を閉じた。
「少々残念ですが、仕方ありませんね。弟子の娘の成長を、もう少し近くで見ていたかったのですが」
「目をかけていただいたのに、ご期待に添えず申し訳ありません」
マリエルが深く頭を下げる。
「構いませんよ。君の好きにすると良い。君の選んだ道が光り輝くものであることを遠い空から祈っていますよ」
フーラースは心からの祝福を込めて、優しく微笑んだ。
「では、少ししんみりとした話の決着がついたところで、お茶請けのケーキはいかがですかな」
教皇が絶妙なタイミングで場の空気を変えようと、サイドテーブルから色鮮やかなケーキの乗った皿を勧める。
「けーき、ですか?」
フーラースが見慣れない食べ物に不思議そうに首を傾げる。
神界の食事は効率化の極致であり、甘味という概念が存在しない。
「神人長、ケーキ知らないでしょう? 下界の食事は神界のドロップなんかよりずっと美味しいんですよ」
ケーキの味を知るマリエルが少し得意げに解説する。
「ほほう。マリエルくんがそこまで言うならば少しいただきますか。ではでは……」
フーラースがフォークを手に取り、イチゴのショートケーキを一口、パクリと口に運ぶ。
その瞬間。
老神人の目が、これまでにないほどに見開かれた。
余談ではあるが。
この時のケーキの味に激しい衝撃を受け、甘味の虜となってしまったフーラース神人長がその後、王都の有名なケーキ屋の行列に並んでいる姿が、たびたび目撃されるようになるのだが。
これは神界の威厳を守るため、マリエルと彼の存在を知る数名の関係者だけの秘密となっている――。
かつての下界での追跡はめっちゃストイックに旅してたんでしょうね。




