水精姫と昔の自分
深い闇の中に沈んでいくような感覚。
それは水の中に落ちていくような不思議な浮遊感を伴っていた。
音も光もない無音の世界。
やがて視界が少しずつ明るくなり、マリエルはハッと目を開いた。
そこは足元も天井もない、ただ見渡す限り真っ白な空間だった。
上下左右の感覚すら曖昧になるような無機質な場所。
「どこ、ここ」
マリエルは自分の声が不自然に反響しない空間で、ぽつりと呟いた。
神界の『裁定の間』の白さとも違う。
生命の気配が全く感じられない。
『深層意識ってやつかな。夢でもいいけどね』
背後からひどく聞き慣れた、それでいてどこか刺々しい声が響いた。
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
自分と同じ銀色の髪、同じ背丈、同じ顔立ち。
だが彼女は魔法学園の制服ではなく、煤と油で薄汚れた革のエプロンを身に着け、手には重そうなハンマーを握りしめている。
辺境の街モーリスの鍛冶屋で、夜な夜な鉄に呪詛を叩き込んでいた頃の、かつての『マリエル』の姿だった。
ただ違うのは、その瞳の色だ。
今のマリエルが持つ凪いだ湖面のような穏やかさはない。
冷たく昏い、周囲の全てを拒絶し憎悪しているような、底知れぬ暗い炎が宿っている。
その目はどこか荒んでいるように見えた。
「……昔の私って、こんな目してたっけ……?」
マリエルは、目の前に立つかつての自分の姿を見て、思わず引きつったような声を漏らした。
客観的に見ると、かなり近寄りがたいヤバい奴である。
『それはこっちの台詞だよ。随分悩みのなさそうな表情してさ』
昔のマリエルは、ハンマーを肩に担ぎながら鼻で笑った。
『学園で友達作って、ケーキ食べて、イケメンとイチャイチャして。復讐のことなんてすっかり忘れたみたいな顔しちゃってさ』
皮肉めいた言葉が、棘のようにチクリと胸に刺さる。
図星だったからだ。
「悪かったね」
マリエルはバツが悪そうに視線を逸らし、そして真っ直ぐにかつての自分を見据え直した。
「……それで、何の用?」
まさか復讐を忘れかけていた自分を恨んで、精神世界で殺し合いでもするつもりだろうか。
それならそれで受けて立つしかない。
だが、昔のマリエルはハンマーを足元にゴトリと落とし、敵意のない顔でフッと息を吐いた。
『いやさ、一応しっかり伝えておこうと思って』
彼女は憑き物が落ちたような、どこかスッキリとした表情で言った。
『ありがとね。……おかげで、以前の恨みを晴らせた。あいつらをこの手で斬り裂いて、スッキリしたよ』
ユーバフとアミアン。
あの日、自分から全てを奪った憎き元凶たち。
その二人を、この呪詛の剣――かつての自分自身の怨念で打ち倒すことができたのだ。
それは彼女にとって、何よりも確かな救済だったのだろう。
「どういたしまして。同じ私のよしみだしね」
マリエルもまた、少しだけ意地を張っていた力を抜き、柔らかく微笑んだ。
自分自身の過去の感情と、こうして向かい合って和解できる日が来るなんて思ってもみなかった。
『まあ、最近まで復讐も忘れて、私をただの危険物扱いして結界に閉じ込めてたのは忘れないけど』
「それは悪かったって……! だって、あんな禍々しい剣が急に出てきたら誰だってビビるでしょ!」
マリエルが慌てて弁明すると、昔のマリエルは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、やがて声を上げて笑い出した。
『あはは……! ああ、そっか。楽しくて笑うって、こういう感じだったっけ』
彼女は自分のお腹を抱えるようにして笑い、その表情からは先ほどまでの荒んだ気配が嘘のように消え去っていた。
神界から堕とされて以来、ずっと封じ込めていた感情。
それを思い出すことができたのは、今のマリエルが下界で手に入れた温かい時間のおかげなのだ。
「……これから、どうするの」
マリエルが静かに尋ねる。
復讐という存在意義を果たした呪詛の塊は、これからどこへ行くのか。
『別に、どうもしないよ』
昔のマリエルは、事も無げに答えた。
『復讐は終わったんだから消えるだけ。復讐果たしたのに恨みがまだ残るとか、ただの危険物でしょ。私、そんなに執念深い性格じゃないし』
彼女の言葉と共に足元から少しずつ、彼女の身体が光の粒子となって塵のように崩れ始めていた。
役目を終え、魂が解放されていくように。
『恨みつらみは私が全部持って行くから。そっちは復讐の事はもう忘れて、下界で楽しく生きると良いよ。可愛い親友も世話焼きの恋人もいるんでしょ』
昔のマリエルが少しだけ羨ましそうに、しかし心からの祝福を込めて笑う。
「そうだね。……ありがとう」
マリエルは、消えゆくかつての自分に向かって、深く頭を下げた。
『なんでお礼言うのさ』
「あんなに『絶対忘れない』と誓った復讐を、私は忘れて置いていくところだった。……あなたが追いかけてきてくれなかったら、私は中途半端なままあいつらを倒して、過去を清算できなかったと思う。ありがとう」
マリエルの言葉は嘘偽りのない本心だ。
あの剣が空間を越えて部室から現れた時。
彼女は自分の過去から逃げてはいけないと、はっきりと自覚できたのだから。
『ふふ……変なの』
昔のマリエルは照れ隠しのように笑い、その身体は胸のあたりまで光の塵となって消えかけていた。
『どういたしまして。じゃあね。せいぜい、お幸せに。あと――』
彼女の姿が完全に光に包まれ、視界が白く染まっていく。
そして、最後に頭の中に響いた声。
その悪戯っぽい声と同時に、マリエルの意識は急速に浮上していく。
白い空間が反転し、現実の光と音が一気に流れ込んできた。
「マリエル!」
「ルカ君……」
マリエルがゆっくりと目を開けると、そこには心配そうに顔を覗き込むルカの端正な顔があった。
彼の漆黒の瞳には安堵の色が濃く滲んでいる。
「マリエル~。起きてよかった~。あの魔王倒してすぐぶっ倒れたから心配したよぉ~」
横からセリアが涙目で飛びついてきて、マリエルの身体をギュッと抱きしめた。
その腕の力強さと温かさに、マリエルは自分が現実世界に戻ってきたことを確かに実感した。
マリエルはルカに支えられながら上体を起こし、周囲を見渡す。
そこはまだ、大演習場の闘技場の上だった。
崩壊した土の壁の残骸や、光と炎の魔法の焦げ跡が生々しく残っている。
どうやらユーバフを倒して気を失ってから、それほど時間は経っていないらしい。
遠くの方で、クリストフやアランたちが、聖堂騎士団や魔術師団の事後処理の指示を出しているのが見える。
観客たちは避難したのか、客席は閑散としていた。
「……剣は?」
マリエルは自分の手に握られていたはずの漆黒の剣がないことに気づき、ルカに尋ねた。
「ユーバフとかいう男が塵になってから、すぐ塵になって消えたが……それがどうかしたか?」
ルカが不思議そうに答える。
あの禍々しい呪詛の塊が跡形もなく消滅したことは喜ばしいことのはずだ。
「そっか」
マリエルは短く応え、自身の胸にそっと手を当てた。
もう、あのドス黒い怒りも、世界を呪うような恨みもそこにはない。
あるのはただ、これから生きていく未来への静かな希望だけだ。
マリエルは夢の中で最後に言われた言葉を思い出した。
『あと――彼氏にも、そろそろ素直になって良いタイミングなんじゃない?』
過去の自分が背中を押してくれたのだ。
いつまでも曖昧な関係に逃げている場合ではない。
もう、復讐という言い訳は使えないのだから。
「最後まで世話になっちゃったなあ」
マリエルがぽつりと漏らした言葉に、ルカが首を傾げる。
「マリエル?」
「ルカ君」
マリエルはルカの服の袖を軽く引き、彼に顔を近づけるよう促した。
ルカが何事かと顔を寄せた、その瞬間。
マリエルは彼の耳元に唇を近づけ、周囲の誰にも聞こえないように、しかしはっきりとした声で囁いた。
「好きだよ、ルカ君。……私と、お試しじゃなくて、改めて本当の恋人になってくれる?」
「なっ……」
ルカの身体がビクッと跳ね、その端正な顔が一瞬にして耳の先まで真っ赤に染まり上がった。
彼がこれほどまでに分かりやすく動揺する姿は、二日酔いの朝以来だ。
「え、なに? マリエル、ルカ君になんて言ったの?」
セリアが不思議そうに二人を交互に見比べるが、マリエルはただ悪戯っぽく笑って口元に人差し指を立てるだけだった。
夕暮れの空から、一陣の心地よい風が闘技場を吹き抜ける。
それはまるで過去を乗り越え、新しい一歩を踏み出した二人を祝福するかのように優しく、そして暖かく彼らの髪を揺らしたのであった――。




