水精姫と無力感
崩れ落ちた土の防壁の隙間から、這い出るようにして現れた異形の群れ。
それはかつての高位神人ユーバフとアミアンの内に渦巻く憎しみと怨念の魔力が泥のように凝固し、実体を持った獣の姿をとったものであった。
形は狼や猟犬に似ているが眼窩はなく、ただ周囲の生命を食らい尽くさんとする飢餓感だけが伝わってくるようだ。
「いけ! 叩き潰せ!」
アランが自身の魔力を振り絞り、闘技場の残骸から三体の巨大な岩のゴーレムを錬成した。
ズシンッ、という重い足音と共に、ゴーレムたちが前線へと躍り出る。
その丸太のような巨腕を振り下ろし、迫り来る黒い獣の群れを次々と押し潰していく。
石の砕ける鈍い音と獣たちが霧散する嫌な音が入り混じった。
「よし!」
アランが勝利を確信したのも束の間。
叩き潰されたはずの獣たちは霧散することなく、泥のように形を変えてゴーレムの岩の腕や脚にまとわりついた。
さらに側面や背後から迫った別の獣たちが、ゴーレムの装甲に容赦なくその牙を突き立てる。
獣に噛みつかれた箇所から、ゴーレムの石の身体が急速に黒く染まっていく。
そして、その黒い染みはゴーレムの崩壊を引き起こした。
アランの声が驚愕に裏返る。
「なっ……! 嘘だろ」
ガラガラと音を立てて、強固なはずの土のゴーレムたちが、ただの砂と瓦礫に還って崩れ去ったのだ。
「相当硬度を上げていたはずなのに……」
「なら、私の竜巻で……!」
リーズリットが素早く強風の術式を編み上げる。
闘技場の中央に巨大な竜巻が発生し、強烈な突風が闘技場を駆け抜け、這い寄ってくる黒い獣たちを次々と空高く巻き上げていく。
だが、風に巻き込まれた獣たちはもがくこともなく、自らの身体を構成する呪詛のオーラを風の中に溶け込ませていった。
獣たちの持つ呪詛が風魔法の魔力そのものに混ざり込み、術式を内側から蝕んでいるのだ。
獣を飲み込んでいく度に、透明だったはずの竜巻が少しずつ黒く濁り始めていく。
やがて完全に黒く染まり切った竜巻は、まるで意志を失ったかのように、フッとほどけるようにして空中で霧散して消えた。
「……! 魔法の強制解除……?」
リーズリットが扇子を持つ手を震わせる。
自身の防壁であり攻撃手段でもある竜巻が、いとも容易く無力化された事実に彼女の顔から血の気が引いた。
ルカが負傷した衛兵たちの治療を続けながらも現状を分析する。
「……闇には侵食する、という性質がある。それで魔法を強制的に塵にしたりできるということか……?」
対象の物質的な強度に関わらず構成する魔力そのものに干渉、侵食して書き換える。
神界の魔法理論を悪意を持って行使した、魔王の呪詛の恐るべき力。
その時、絶望的な空気を切り裂くように天から眩い光の剣が何本も降り注いだ。
「グオォォォッ!!」
光の剣に貫かれた獣たちが浄化の光に焼かれ、苦痛の声を上げながら次々と霧散していく。
「……なるほど、光は多少なりとも効果があるようだね」
クリストフが自身の手から光魔法を放ちながら、少しだけ安堵したように息を吐く。
光魔法の持つ浄化の属性は、闇の呪詛と相反する性質を持っている。
ある程度は相殺することは可能なようだ。
「とはいえ、喜んでばかりもいられない。この数では私一人では手に余る」
クリストフの額には、早くも脂汗が浮かんでいた。
次から次へと際限なく生み出される獣の群れ。
光魔法は魔力消費が激しく、彼一人で全てを殲滅し切るには限界がある。
「ルカの闇魔法ならどうだ?」
クリストフがルカに視線を向ける。
マリエルとの戦いで使用した数々の闇魔法があれば、戦況が覆るかもしれないと踏んでのことだ。
しかし、クリストフの期待にルカは苦渋の判断を下し、首を横に振った。
「俺の魔法は……撃たない方がいい。万一にでも俺の魔法の主導権をあいつらに握られるわけにはいかない」
同じ属性であるルカの魔法をぶつければ侵食されて主導権を握られ、逆にルカの術式を利用されて巨大な災厄を引き起こしかねない。
同属性ゆえのリスクが高すぎる。
「そうか、そうだね。ルカは引き続き負傷者の手当てに専念してくれ。マリエル嬢は援護を……」
クリストフが、唯一残された戦力であるマリエルに希望を託すように視線を向けた。
彼女の水魔法なら、この状況を打破できるかもしれないと。
だがマリエルは唇を噛み締め、悔しそうに首を振った。
「……たぶん、お役に立てません」
「え?」
「さっき、私の放った水球が一瞬で侵食されて塵になりました。おそらく、アランさんのゴーレムやリーズリットさんの竜巻のように、術式の構造が複雑で魔力密度が高い魔法ほど、侵食されるまでに時間がかかるんでしょう。でも……」
マリエルは自身の握りしめた拳を見つめながら、沈痛な声で答えた。
「でも、私の使える魔法は『アクアボール』。初級の基礎術式だけなんです」
『天輪』と『光翼』を奪われた今の彼女は、複雑な中級以上の術式を制御することができない。
どれだけ術式の制御能力で内容を編集して応用力を出そうとも、ベースとなっている術式の構造自体は最も単純で脆いものだ。
「基本の術式構造が単純すぎて、あいつらの呪詛に触れた瞬間、抵抗する間もなく一瞬で侵食されて塵になる。あの獣相手には私の魔法は効果が薄いと思います」
神界の技術の粋を集めた彼女の魔法運用が、皮肉にもここに来て最大の弱点となってしまっていた。
「……そうか。仕方ない、マリエル嬢はルカと共に後方へ下がってくれ。ここは我々でなんとかしてみる」
クリストフはマリエルの言葉を重く受け止め、彼女を安全な場所へ退避させるよう指示を出す。
アランとリーズリットも、マリエルを庇うようにして彼女の前に立った。
マリエルは何も言い返せず、悔しさに唇を噛む。
こんな時に、何もできない。
五天星という地位にまで上り詰め、闘技祭でも優勝したはずなのに。
肝心なところで大切な人たちを守るための力が通じない。
己の無力感を、これほどまでに痛感したことはなかった。
その時。
闘技場を分断するように、二本の巨大な炎の壁が一直線に走り抜けた。
「なんだ!?」
「炎!?」
アランとリーズリットが驚いて声を上げる。
炎の壁は獣の群れを焼き焦がし、彼らの前進を一時的に押し留める。
そして、その炎の壁が作り出した安全な通路の中を通って、誰かが猛烈な勢いで駆け抜けてきたのだ。
「オラァ走れや平民女ァ! この炎の壁なら、あいつらも近寄れねえ!」
「やかましいっつうの、イジケ根暗男! あんたもっぺん殴るわよ!」
「イジケ根暗男!?」
聞き覚えのある、喧嘩腰の男女の怒声。
炎の壁の中から飛び出してきたのは息を切らしたセリアと、その後ろから杖を構えて炎を放ち続けているローランド・ベルディアであった。
マリエルが、信じられないものを見るように親友の名前を呼ぶ。
「セリア!?」
「マリエル! よかった、無事だった!」
セリアが、息を切らしながらも、満面の笑顔でマリエルの元へと駆け寄ってきた。
「セリア、どうしてここに……! バーバラさんとエドガーさんは!?」
「バーバラさんとエドガーさんを展望室から安全な避難ルートまで送って、戻ってきたんだよ!」
セリアは、額の汗を拭いながら、胸を張って答える。
「あの獣がいっぱいいる中で、どうやって……」
マリエルが炎の壁に阻まれて近寄れない獣たちを見やりながら尋ねる。
いくらセリアの身体能力が強化されていても、あの呪詛の塊の群れを一人で突破してくるのは不可能に近いはずだ。
「うーん、あのいけすかないイジケ根暗男のおかげなんだよねえ……」
「ローランドの?」
ローランドは、マリエルや五天星たちの驚愕の視線を一身に浴びながら高笑いを上げて次々と炎の槍を放っている。
「ハッハァ! 来たぜ俺の時代ィ! 全部燃えて消えちまえェ!!」
クリストフが、ローランドの炎によって黒い獣たちが悲鳴を上げて消滅していくのを見て理解したように頷いた。
「……そうか、炎は光を発するから光魔法ほどじゃないにしても呪詛に対して効果があるのか! 助かるよローランド!」
クリストフが思わぬ援軍の到着を喜び、アランもまたローランドの活躍に触発されたように再び土のゴーレムを生成し始める。
「現役の五天星が、元五天星に後れを取るわけにはいかないよねえ……!」
「私の竜巻も、完全に消えるまでには少しだけ時間がありますわ。炎の勢いを増すために援護します!」
リーズリットが扇子を振るい、ローランドの炎を巻き込んで巨大な炎の竜巻を生み出す。
それは獣の群れを次々と飲み込み、燃え盛る火柱となって闘技場を焦がしていく。
ローランドの強力な炎の加勢と、セリアが無事に戻ってきたことで停滞していた空気が一変し、さらに有効な攻撃手段が見つかったことで五天星たちの士気が目に見えて上がり始めた。
「マリエル。これ」
セリアが制服のポケットから小さな箱を取り出し、マリエルへと手渡した。
「これは……」
マリエルは受け取ったものを見て息を呑む。
それはバーバラに預けていたはずの、神界の通信機『天声の雫』が入った防護ケース。
「バーバラさんから預かったの。あれ、魔王で元神人なんでしょ? 何かの役に立つと思うから、持って行ってくれって」
「バーバラさん……」
マリエルの胸が熱くなる。
避難の混乱の中で、バーバラはこれがマリエルにとってどれほど重要なものかを理解し、セリアに託してくれたのだ。
「んじゃ、私も行ってくるかな!」
セリアは小さく深呼吸をして、再び戦場へと向き直る。
身体能力強化の魔力を全身に巡らせ、両拳を軽く打ち合わせて戦闘態勢に入る。
「え……」
マリエルはセリアの言葉にハッとして、彼女の腕を掴んだ。
「ダメだよセリア! あの獣たちに直接触れちゃダメ! あいつらに噛まれたり、呪詛の魔力を直接浴びたりしたら、呪いが身体に回って死んじゃうんだよ!」
魔法による遠距離攻撃を持たないセリアにとって、呪詛を纏った獣との戦闘は死地へ飛び込むのと同じだ。
いくらローランドの炎の援護があるとはいえ、危険すぎる。
「でもさ、私にできるのは、それくらいだから」
セリアはマリエルの手を優しく握り返し、少しだけ困ったように笑った。
よく見れば彼女の手と足は、恐怖で微かに震えている。
強がってはいるが死の恐怖がないわけがない。
得体の知れない化け物の群れに、生身で立ち向かう恐怖。
それでも。
親友に対して彼女は気丈に笑うのだ。
「マリエルも、みんなも頑張ってる。私だけ安全な場所で見てるなんてできないよ。それに……」
セリアはマリエルの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「私はマリエルの友達だからね。友達がピンチの時に逃げるわけないじゃん」
その言葉にマリエルの胸が締め付けられる。
何の契約も縛りもない、ただお互いを大切に思うだけの繋がり。
それが、これほどまでに強くて、温かいものだったなんて。
「頑張ってくるよ、マリエル。私の背中、見ててね」
セリアはマリエルの手を離し、迷いのない足取りで死地へと飛び込んでいった。
「セリア!!」
マリエルが悲痛な声を上げる。
「援護して! イジケ根暗男!」
「誰がイジケ根暗男だコラァ! お前これ終わったらマジで丸焦げにして焼くぞ!」
ローランドは悪態をつきながらも杖を振るい、セリアの進行方向にいる獣たちを正確に炎の槍で焼き払っていく。
彼の炎の援護を受けながら、セリアは獣の群れの隙間を縫うようにして駆け抜け、ユーバフとアミアンへと肉薄していく。
「俺の援護を受けられることを光栄に思えや平民女ァ!」
悪態をつきながらもローランドの炎は決してセリアを傷つけることなく、彼女の道を切り開く頼もしい矛となっていた。
かつてはセリアをいたぶるために使われた炎が今は彼女を守り、共に戦うための力となっている。
セリアは炎の道を駆け抜け、炎で弱った獣たちの懐に潜り込んでは、強烈な打撃を叩き込んで粉砕していく。
アランの土の壁が獣の進行を阻み、リーズリットの風が獣の動きを乱し、クリストフの光とローランドの炎が呪詛を焼き払い、セリアの拳が道を拓く。
そしてルカが後方で傷ついた者たちを癒し、戦線を支える。
誰一人欠けても成立しない奇跡のような連携。
彼らの懸命な戦いぶりにマリエルの胸の奥で、何かが熱く、激しく込み上げてくるのを感じた。
それと同時に観客席からも、地鳴りのような歓声が上がった。
マリエルが視線を向けると崩壊した大演習場の入り口から、続々と新たな戦力が入場してくるのが見えた。
魔王襲来の急報を受けて王都全域から駆けつけてきた精鋭たち。
銀の鎧に身を包んだ、王城騎士団。
ローブを纏った、宮廷魔術師団。
そして少数ながらも大教会の聖堂騎士団が整然と立ち並んでいた。
王国の最高戦力たちが生徒たちを救うべく、闘技場の各ゲートから一斉に雪崩れ込んできたのである。
人類の叡智と武力が集結し、魔王に対する一大反攻作戦が始まろうとしている。
マリエルは、その頼もしい光景を見つめながら。
手の中の『天声の雫』を、きゅっと強く握りしめたのであった――。




