水精姫と魔王
時は少しばかり遡る。
神界に位置する『裁定の間』。
普段は神界の秩序を保つための法案決定や、風紀を乱す者の弾劾に用いられる白亜の神聖な場所。
かつてマリエルが理不尽な罪を着せられ、見せしめとして翼と天輪を毟り取られたのと同じ裁定台。
だが、あの時と決定的に違う点が二つある。
一つは、中央の裁定台に立っているのが、威厳と優しさを併せ持つ深い瞳の老神人長フーラースであること。
そしてもう一つは。
彼の眼下、白亜の床に罪人として引きずり出され、魔力の枷で自由を奪われているのが、かつてマリエルを見下して嘲笑っていた高位神人の男女――ユーバフとアミアンであることだ。
周囲の観客席には無数の神人たちが詰めかけている。
しかし彼らの視線は、マリエルの時のような好奇と嘲笑に満ちたものではない。
権力を笠に着て横暴に振舞っていた特権階級の二人が、一体どのような裁きを受けるのか、固唾を飲んで見守っているのだ。
「――判決を下す」
フーラースの静かな、だが重く響く声が裁定の間にこだまする。
「罪のない神人を冤罪を理由に不当な追放刑を押し付けたその所業。神界にて世界法則を管理する者にあるまじき行為なり」
フーラースの視線が、足元で魔力の枷に繋がれ、無様に這いつくばっている二人の神人へと向けられた。
かつて煌びやかな法衣を身に纏い、傲慢な笑みを浮かべていた神人の男ユーバフ。
そして豪奢な扇子で口元を隠し、他人を嘲笑っていた神人の女アミアン。
彼らは今、信じられないものを見るような顔で、震えながらフーラースを見上げていた。
「よって高位神人ユーバフ、ならびにアミアン。両名の『天輪』と『光翼』剥奪後に下界追放処分とする」
「ば、バカな! 高位神人たる俺が下界追放処分だと!?」
ユーバフが血相を変えて叫び、鎖を引きちぎらんばかりに暴れる。
その顔には特権階級としての余裕は欠片もなく、見苦しいまでの恐怖と焦燥が浮かんでいた。
アミアンもまた、美しい顔を醜く歪ませて金切り声を上げる。
「嘘よ、嘘よ! ありえないわ! 私が下界の泥にまみれるなんて!」
彼らにとって下界の人間など、あっという間に死に絶える短命で愚かな下等生物だ。
そんな連中と同じ地べたを這いずり回る生活など、想像するだけで発狂しそうになる。
「ふ、フーラース神人長! これは不当だ! 冤罪だ! どうかお慈悲を……!」
ユーバフがなりふり構わず床に額をこすりつけ、命乞いをする。
彼がマリエルを陥れるためにフーラースの不在を狙ったように、フーラースもまた、彼らの罪を暴き立てるための証拠を周到に集めていたのだ。
「――そう言ったマリエルくんを、あなたはどうしましたか?」
フーラースの冷たく静かな問いかけに、ユーバフの動きがピタリと止まる。
「な……」
「自分の行いは、必ず自分に返ってくるものです。神人としての誇りも慈愛も忘れたあなたたちに、もはやこの天に居場所はありません」
あの日。
マリエルは「でっち上げだ」「誰か証言してくれ」と必死に叫び、無実を訴えた。
だがユーバフはそれを鼻で笑い、一方的に判決を下して彼女の全てを奪ったのだ。
因果は巡り今、彼自身が全く同じ絶望の淵に立たされている。
「刑の執行を」
フーラースが短く命じると裁定台の背後から筋骨隆々の執行官たちが現れ、ユーバフとアミアンを取り囲んだ。
「おのれ……おのれおのれおのれェ!!」
「やめて! 触らないで! 汚らわしい!」
ユーバフが執行官の手から逃れようと必死に抵抗し、アミアンもまた美しい顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら泣き叫ぶ。
だが執行官たちは容赦なく二人の頭上に手を翳し、神人の存在証明である純白の『天輪』を鷲掴みにした。
甲高い破砕音と共に、天輪が強引に引き剥がされる。
「あ、が……ッ!」
「嫌ぁぁぁっ!!」
脳髄を直接えぐられるような激痛に、二人の絶叫が裁定の間に響き渡る。
続いて背中の『光翼』の根元に手が食い込み、魔力の結びつきが物理的に引きちぎられる。
「あああああああああああああああああああっ!!!」
力を奪われ、神界の住人としての尊厳を破壊されたユーバフの口から、血を吐くような絶叫が迸った。
「フーラース! マリエル! 恨むぞ……呪われろ!!」
執行官に襟首を掴まれ、奈落の門へと引きずられていくユーバフ。
彼は薄れゆく意識の中で血の滲むほど強く奥歯を噛み締めながら、落下していく風圧の中で、ユーバフは天に向かって魂の底からの呪詛を叩きつけた。
それは自分たちを裁いた者への、そして憎悪の元凶と勝手に定めた少女への恨み言。
「絶対に許さんぞ……絶対にだ!! 地獄に落ちるがいい!!」
その絶叫は厚い雲海に飲み込まれ、やがて誰の耳にも届かなくなった。
呪いの言葉を吐くユーバフと泣き叫ぶアミアンはこうして下界追放処分となり。
今その数奇な運命により、マリエルの前に立っているのである。
◆◆◆◆
王都の魔法学園、大演習場。
闘技場の石の床に、不気味なほどの静寂が降り下りていた。
何千人という観客のざわめきすらも、その異様な二人の乱入者が発するどす黒い魔力によって、押し潰されてしまったかのようだ。
「なんでお前らがここに……」
マリエルの口から、震える声が漏れた。
ボロボロのローブを纏い、落ち窪んだ目と痩せこけた頬。
だがその面影は紛れもなく神界でマリエルを迫害し、下界へと突き落とした張本人たち。
高位神人ユーバフとアミアンであった。
彼らの全身からは、かつての純白の光翼の面影は微塵もなく、ただ周囲の空気を腐らせるような、ドス黒く禍々しい『呪詛』が立ち上っている。
「許さん……」
ユーバフが、ひび割れた声で呻くように言った。
その瞳孔の開いた瞳が、マリエルを憎悪の炎で射抜く。
「俺たちがこんな目に逢っているのに……路地裏で泥水を啜り、ゴミを漁って生き長らえているというのに……。お前は、ここで『楽しそう』だと……?」
「許せないわ……」
アミアンもまた、美しい顔を醜く歪ませて金切り声を上げる。
「お前だけなんで……こんな華やかな場所で、チヤホヤされてるのよ……! お前も不幸せになればいい……! 私たちと同じように、地べたを這いずり回ればいいのよ……!」
理不尽な逆恨み。
自分たちが悪事を働いて裁かれたという自覚など微塵もない。
ただ自分たちが不幸であるという事実を、全て他者のせいにして憎悪を膨らませているのだ。
その理不尽極まりない八つ当たりに、マリエルの中で凍りついていた感情が一気に沸点へと達した。
「……ッ!! あんたたちが私を下界に堕としたんでしょうが!!」
マリエルが声を張り上げる。
自分がどれほど絶望し、下界の泥にまみれて生きてきたか。
バーバラやセリアたちに出会えなければ、自分も彼らと同じように狂気に飲まれていたかもしれない。
それを味わわせた奴らが被害者面をして逆恨みしてくるなど、到底許せるものではない。
「黙れ……黙れ黙れ黙れェッ!」
ユーバフが獣のように咆哮し、足元の石の床を踏み砕く。
「『混ざりもの』の分際で俺たちに指図するなァッ!! お前さえいなければ、俺の経歴に傷がつくこともなかった! フーラースに目をつけられることもなかったんだ!」
「あんたさえいなければ……あんたさえいなければァッ!! 私の美しい羽が奪われることもなかったのにィ!」
アミアンも狂乱したように髪を振り乱して叫ぶ。
二人の感情が極限まで高ぶり、その全身から噴き出す呪詛の魔力が爆発的に膨れ上がった。
それはマリエルがかつて鍛冶屋で無意識に放出したものとは比べ物にならない、殺意と破壊衝動を持った黒い嵐。
バリィィィィンッ!!!
闘技場を覆っていた、あらゆる魔法の衝撃に耐えるはずの特殊な防護結界が、二人の呪詛によって内側からガラスのように粉々に砕け散った。
さらにその黒い嵐は上空へと吹き荒れ、五天星たちが観戦していた展望室の防護ガラスをも無残に打ち砕いた。
「きゃあっ!」
「うおっ!」
展望室から悲鳴が上がる。
『ま、魔王!! 魔王です!! 魔王が闘技場内に出現しました!!』
実況のロッタがパニックに陥りながらも拡声魔道具で叫び声を上げる。
歴史の授業でしか聞いたことのない、災厄の象徴。
その姿と周囲の空気を黒く染め上げる呪詛のオーラを見れば、誰もが直感で理解できた。
『観客の皆様は慌てず、衛兵の指示に従って速やかに脱出してください!!』
だがそんな警告で冷静になれるはずがない。
観客席は阿鼻叫喚の地獄絵図と化し、人々は我先にと出口へ向かって殺到してパニックに陥る。
悲鳴を上げて逃げ惑う人々、押し合う群衆、そして泣き叫ぶ子供たちの声が会場中に響き渡る。
「逃がさんぞ……! ここにいる奴ら全員、俺たちの恨みの礎にしてくれる……!」
ユーバフが両手を広げ、呪詛の魔力を会場全体へと撒き散らそうとする。
「させるか!」
会場警備にあたっていた衛兵たちが、恐怖に顔を引きつらせながらも武器を構え、ユーバフとアミアンに向かって突撃していく。
彼らは魔王という災厄から市民を守るため、必死に剣や槍を振るおうとした。
「ダメだ! 逃げて!」
マリエルが制止の声を張り上げるが、遅かった。
「邪魔を……するなァッ!」
ユーバフの一喝と共に、彼の全身からどす黒い呪詛の波動が全方位へと放たれた。
「ぐわぁっ……!」
「な、なんだこれは!?」
「ああっ……痛い、熱い……!」
波動をまともに浴びた衛兵たちが、次々と苦痛に身をよじって石の床に倒れ込む。
彼らの肌の魔力に触れた部分が、まるでインクが滲むようにして黒く染まり始めている。
「やめろ!」
これ以上被害を広げさせるわけにはいかない。
マリエルは右手の指先を弾き、自身が制御できる最大圧縮の水球を二人の魔王に向けて射出した。
だが、ユーバフとアミアンを覆う呪詛のバリアに触れた瞬間。
水球は対象に到達する前に呪詛によって真っ黒に染まり、瞬時に蒸発して黒い塵となって消え去ってしまった。
(私の水球が、呪詛に侵食されて分解された!?)
水という物質の構造そのものを、呪いの魔力が強制的に書き換えて破壊したのだ。
物理的な硬度や温度変化では対抗できない概念干渉。
復讐と絶望によって歪められ、凝縮された神人の魔力は初級魔法の応用では突破できない。
(くそっ……! 私にはまだ、大規模な魔法を制御して放つ出力器官がないのに……!)
マリエルが焦燥に唇を噛んだ、その時。
天空から目も眩むような黄金の光の剣が何十本も降り注いだ。。
「グアァァァァッ!?」
「ああっ、眩しい……! 痛いィッ!」
光の剣から放たれる波動に、魔王と化した二人が初めて苦痛の声を上げて顔を覆った。
彼らの纏う呪詛の靄が、光に焼かれてジュウジュウと嫌な音を立てて消滅していく。
「……なるほど、光属性の魔法は多少なりとも効果があるようだ。闇の対極である光が魔王の闇を相殺してくれるとは、神話の伝承もあながち嘘ではないな」
上空の展望室から、冷静な声が響く。
五天星の序列第一位『光の御子』クリストフ・フォン・ロンヴェルである。
彼がエキシビジョンマッチのために温存していた光の魔力が、二人の魔王の動きを一時的に止めたのだ。
「クリストフ殿下!」
マリエルが安堵の声を上げる。
そして休む間もなくユーバフとアミアンの周囲の石の床が隆起し、分厚く強固な土の壁がドーム状に二人をすっぽりと囲い込んだ。
「土の壁で囲えば、あの黒い魔力も外に漏れださないかな? これで少しは観客への被害も防げるはずだ」
彼は展望室から見下ろしながら、飄々とした声で土の壁を補強していく。
「物理的に壊す手段があるかもしれないわね。気を抜かず、注意しましょう」
リーズリットが扇子を振りかざし、五天星の面々が彼女の風魔法によって展望室から闘技場へとふわりと舞い降りてくる。
各々の得意魔法を駆使した、見事な連携プレイだ。
マリエルが駆けつけてくれた頼もしい仲間たちの姿を見て、少しだけ張り詰めていた肩の力を抜く。
「みんな……」
「衛兵たちの治療をしたい! 全員、俺のところへ持ってきてくれ!」
ルカは油断することなく、倒れている衛兵たちに視線を向けて鋭く指示を出す。
「了解!」
「よくてよ!」
アランが土のゴーレムを生成し、リーズリットが風魔法の気流を操って、黒い呪いに侵された衛兵たちを次々とルカの元へと運んでくる。
ルカは運ばれてくる衛兵たちの肌に手をかざし、呪詛と逆位相の闇魔力を流し込んで、次々と黒い染みを浄化していく。
額に汗を浮かべながらも、その手際は的確で迷いがない。
「マリエル」
ルカは治療を続けながら、マリエルに静かに疑問をぶつける。
「あの魔王らしき人物たちは……君の知り合いなのか」
「……私を下界に堕とした人たち、だね」
マリエルは土のドームを見つめながら、ぽつりと答えた。
「高位神人のユーバフとアミアン。私の天輪と光翼を奪った張本人たち」
「何故、彼らが下界に? マリエルは何か知っているか?」
ルカの問いにマリエルは首を横に振る。
「わかんないけど……彼らにも『天輪』と『光翼』が無い。私の時と同じように、追放刑を受けたのかもしれない」
あの傲慢な連中が、自ら下界に降りてくるとは考えにくい。
おそらく、フーラース神人長が動いたのだろう。
だが、その結果として彼らが魔王となり、この下界に災厄をもたらしているという事実は、マリエルにとって皮肉としか言いようがなかった。
ルカが少し言い淀みながら提案する。
「……では『天声の雫』で、一度神界に呼びかけてみたらどうだ? 何かわかるかもしれない。彼らを倒す手段や、弱点など……」
「でも……」
マリエルは躊躇した。
神界に繋がったとして、誰が応じるというのか。
あの傲慢な神人たちが下界の呼びかけに耳を傾け、答えてくれるだろうか。
それどころか、また自分が「混ざりもの」として嘲笑されるだけではないのか。
その恐れが、マリエルの足を止める。
(それに通信機は今ここにはないし……)
『天声の雫』は修復が終わって届けに来たバーバラにまだ預けたままだ。
セリアがここにいないという事は、彼女がバーバラを避難させているのかもしれない。
マリエルがそう考えた、その時。
アランの構築した強固な土のドームが、内側からの凄まじい衝撃によって爆発四散した。
「なっ……!?」
土煙の中から現れたのは、ユーバフとアミアンだけではなかった。
彼らの足元の影がドロドロに溶け出し、そこから這い出てくる無数の異形の存在。
四つん這いの獣のような形をした、真っ黒な影の塊。
目も鼻もなく、ただ巨大な顎だけが裂けるように開き、そこから呪詛の靄を吐き出している。
魔王となった二人の憎しみと恨みの魔力から生み出されたであろう、おぞましい使い魔たち。
「……あれは、まさか」
ルカが治療の手を止め、戦慄の声を漏らす。
「俺の使った『黒き竜の顎』と同じ理論か……。自身の影に呪詛の魔力を流し込み、疑似的な生命体として形作っている……!」
「そんなことまでできるの!?」
「お前たち……全員、俺たちの恨みの糧となれェッ!!」
ユーバフの絶叫と共に、無数の黒い獣たちが一斉に五天星の面々に向かって襲い掛かってきたのであった――。




