第26話『風のホールの試練』
霧の中を、きらめく橋がまっすぐに伸びていた。
踏みしめるたび、足元の光が波紋のように広がり、背後の闇を遠ざけていく。
やがて――最後の一歩を踏み出した瞬間、霧がぱっと割れた。
視界の下方に広がったのは、大小さまざまな島々。それらは海ではなく、空に浮かんでいた。
島と島の間には、底の見えない青と白の虚空が広がり、風が低く唸りを上げている。
フェアウェイは各島に断続的に敷かれ、間を渡るためには、この気まぐれな風を味方にするしかないのが一目でわかった。
「……すげぇ景色だな」
ザラドが思わず口笛を吹く。
そのとき、頭上の雲が裂け、半透明の翼を持つ存在が舞い降りた。
長い銀糸のような髪を揺らし、淡い翠の瞳がこちらを見下ろす――風の精霊だ。
声は直接、胸の奥に響いた。
「我が領域を渡る者よ――心の選択が、風を導く」
その言葉と同時に、島々の間を駆け抜ける風が一層強く吹き荒れた。
コーデリアはクラブを握り直し、小さく息を吸う。
このホールもまた、ただのゴルフでは終わらない予感がした。
最初の島に降り立ったザラドは、鼻先をかすめる生温い突風に眉をひそめた。
旗は真横になびき、ボールは置いたそばから転がりそうになる。
「こりゃ……まともに打てねぇな」
彼は耳と尻尾を立て、風の匂いを探る。
嗅覚は獣人族だけに受け継がれる秘技――風の流れを匂で読むことができる。
だがその瞬間、またも胸の奥に精霊の声が響いた。
「獣人よ。種族の秘技を他者に明かせば、お前は誇りを失う。それでも教えるか?」
ザラドは言葉を失い、コーデリアたちを見る。
誇りは、彼にとって生きる証だ。軽々しく手放せるものじゃない。
だが――このホールを突破しなければ、みんなの旅は終わる。
しばしの沈黙の後、彼は低く笑った。
「……俺の誇りより、お前らと勝つ方が大事だ」
ザラドは風の匂いを読み切り、耳元でコーデリアに囁く。
「今だ。七度鐘の音がした瞬間、風は右から左に変わる」
次の瞬間、荒れ狂っていた突風が嘘のように凪ぎ、やがて温かな追い風へと変わった。
精霊の笑みが風に溶け、フェアウェイの先が光に包まれる。
エミリアはティーの前に立ち、風を読む。
計算は完璧。クラブの角度も、スイングの速度も、誤差は一切許さない。
彼女にとってゴルフとは、精密機械のような正確さで打ち抜く芸術だった。
だが、その瞬間――耳元を抜ける風が、低く囁いた。
「ここでは完璧な軌道は、逆に奈落へ落ちる風を呼ぶ」
「……そんな馬鹿な」
エミリアは唇をかみ、もう一度計算を重ねる。
だが風は、まるで意地悪な子どものように彼女の理論を笑う。
完璧を崩せ――それは、彼女にとって己の存在を否定するも同然だった。
握る手に汗が滲む。だが、コーデリアたちの視線が背中を押した。
「……わかったわよ。じゃあ、やってやるわ」
彼女はわざとクラブを数ミリ短く握り、体重移動も崩す。
インパクトの瞬間、軌道は揺らぎ、ボールはふらふらと宙を漂った。
ところが――その不規則な回転を、風が優しく拾い上げる。
大きく弧を描き、ボールは見事にグリーン手前へ着地。
風の精霊が、微笑を含んだ声で告げた。
「不完全こそ、時に完全を超える」
エミリアは軽くため息をつき、笑った。
「……皮肉ね。でも、悪くないわ」
ランバルトはティーの前で胸を張った。
「よぉし、見てろよ!このランバルト様の一撃で、風ごとぶっ飛ばしてやる!」
彼の愛用クラブは、ドワーフ鍛冶師が作った特注の超重量モデル。
握るたびに“ドスン”と地面が沈むような代物だ。
豪快にテイクバック――そして全力のフルスイング!
だが、次の瞬間。
ゴォォォッッ!!!
猛烈な逆風が彼を迎え撃ち、ボールどころかランバルト本人をもろとも持ち上げた。
「う、うわああああっ!?」
体もクラブも一体化して、彼は空中をバタバタ回転しながら遠ざかっていく。
風の精霊が額に手を当て、ため息交じりに呟いた。
「そのクラブ重すぎ!風をなめるな!」
数秒後、フェアウェイ脇のバンカーにずぼっと突き刺さるランバルト。
砂まみれの顔で「……い、今のは作戦だ!」と強がるも、仲間たちは腹を抱えて笑い転げた。
芝の上で、未熟だったコーデリアがふっと笑みを浮かべた。
「……ありがとう、私」
その声は風に溶けるようにかすれ、輪郭が淡く光へと変わっていく。
やがてその姿は霧のように消え、静寂の中に一本のクラブだけが残った。
クラブの精霊がそれを手に取り、厳かに告げる。
「初心を忘れぬ者よ――次のホールへ進む資格を得た」
地面がやわらかく震え、前方に光の橋がすっと伸びる。
橋は虹色の輝きを帯び、どこか遠く、次の試練へと続いていた。
コーデリアは仲間たちを振り返り、にかっと笑う。
「行こう。まだ始まったばかりだ」
その言葉に、全員が頷き、光の中へと歩みを進めた。




