71話 同情なんて、いらない!
二宮が打席に入る。
相手投手はすでに疲労が嵩んでいる。
同点・逆転が理想だが、最低でも1点は返さなくてはならない。
……それは、相手投手にしては珍しい失投だった。
球威もなければ変化もしない、棒球がインコースに投じられる。
―――好球必打。
打球は、一・二塁間を真っ二つに割っていった。
「ニノちゃんナイスバッティング」
「いやぁ、ようやくヒットが出たよぉ」
二宮はそうはにかみながらも、足へ意識を向ける。
監督のサインを見ると、盗塁だった。
二宮は息をのみ、覚悟を決めて了解の合図を返す。
相手は盗塁を予想しているだろうが、かといって決めきれないとは思えない。
投手は疲労困憊のせいか球速もコントロールも落ちている。
牽制をやり過ごし、初球を見る。
牽制も、クイックの精度も落ちている。
2球目、二宮は完璧なスタートを切った。
9割の力で、十分間に合う。
足のけがを意識しながらも、余裕の盗塁成功だ。
二宮がそう確信し、スライディングしようと怪我した左足で地面を蹴った瞬間。
ブチッ、と何かが切れる音がした。
二宮以外には聞こえない、だが、切れてはいけないものが切れてしまったような。
「セーフ!」
審判の判定に歓声をあげた相模南のベンチだったが、当の二宮は顔を引きつらせることしかできなかった。
違和感、というレベルではない。
激痛が電気信号のように、一定の間隔で脳へ迸る。
無心、無表情を心掛けていたが。
斡木クラブの監督、友希の母親はその不穏な動きを見逃しはしなかった。
監督が高峰に指示を送り、不穏な動作の原因を特定する。
「みゃーみゃー。……あなた、左足を怪我しているわね」
こういう時、白を切るのは二宮も得意のはずだった。
激痛が邪魔をしなければ。
「……さあ、どうだろうねぇ。リンリンはどっちに賭けるかなぁ」
どう言葉で見繕っても、表情が正解を物語っている。
「悪いけれど、あたくしは同情はしても手抜きはしなくてよ」
「同情してくれるなんて優しいなぁ。ま、手抜いてくれないなら、同情なんていらないけどねぇ」
すでに2ボールになっている一ノ瀬には四球を出し、ここで斡木クラブの監督がベンチから出てくる。
投手交代。
2番手は、先の練習試合でも登板した柴谷だった。
先発ピッチャーと比べて投球は見劣りするが、スピードだけは10km/h弱速くなっていることが伺える。
「プレイ!」
審判が声を上げ、プレイが再開させれる。
事前に監督から受け取っていたサインは、強行。
友希はバントをしたかったが、無理がある。
二宮の怪我の深刻さは、相模南のベンチも把握できた。
斡木クラブの守備を相手に、二宮の足では成功するとは思えない。
友希の鼓動が、ドクン、ドクンと大きくなる。
集中力を削ぐ、耳障りな音。
「ふぅー……」
一度大きく深呼吸をしてバットを構える。
友希の母親が相手の監督である以上、友希が逆境に弱いことは周知されている。
無死一二塁のチャンスとはいえ、8回の裏で2点ビハインドを逆境と言わずしてなんと言うだろう。
「それでも、ニノさんが怪我をしながら手にしたチャンス、無駄にはしない!」
自分自身に喝を入れ、睨むように相手投手を見る。
投手の柴谷の顔は、マスクで半分ほど隠れていたが、それでも目だけで雄弁に語っていた。
気迫なんかでは打てやしない、と。
初球、インコースのストレート。
見逃して1ストライク。
見送ったわけではない。手が出なかったのだ。
ただでさえ前の投手より球が速くなっているのに、逆境というだけでさらに速く見える。
日本人の女子最速、125km/hさえ凌駕しているかのように。
2球目はインコースのカーブ。
デッドボールかと思って仰け反ったその球は、ストライクゾーンまで切り込んできた。
「くっ……」
練習試合でたまたまヒットを打ったからと言って、簡単にトラウマは克服できていなかった。
しかもそれが公式戦となれば、圧し掛かる重圧も違う。
でも。……それでも。
女子最速の125km/hだろうが、男子最速の160km/hだろうが。
「諦めちゃいけない……。諦められるわけがない!」
ごつんと右手で額を叩く。
どれだけ確率が低かろうと、諦めては全てが0になる。
3球目はアウトコースのストレート。
完全に振り遅れはしたが。
ごん、と鈍い音がバットから伝わってくる。
「あ、当たった……」
一塁よりのセカンドゴロ。
進塁打としては完璧の当たり。
二宮は足を引き摺るそぶりを見せながらも三塁へ到着する。
柴谷と高峰ならともかく、2番手のセカンドではファーストでアウト1つ取るのが精一杯だった。
「友希、完璧な進塁打じゃったな」
「本当はヒット、打ちたかったけどね」
「じゃが、これで同点のランナーが得点圏じゃ」
逆にピンチとなった斡木クラブは一つ間を取った。
内野陣がマウンドを中心にして集まる。
「ここは敬遠ね」
「逆転のランナーが出ますけど、良いんスか?」
「この試合、一番当たっているのが次の5番よ。下位打線に向かっていくのだし、満塁の方が守りやすいでしょう? 貴女なら押し出しもないでしょうし」
真中は4つ見送って、1死満塁。バッターは6番の右京。
「正念場デスネ」
右京は静かに、だが燃え上がる闘志を内に秘めて打席に立つ。
簡単に打てる相手ではない。だが。
ガキン! と鈍くも大きな音を響かせた。
「抜けるネ!」
右京の祈りともとれる叫び声。
詰まった当たりながらも、運よく三遊間のど真ん中。普通ならヒットのコース。
―――しかし。そこには。
「抜ける―――、はずがなくてよ」
高峰がいる。
逆シングルで球を掴むと、素早い動きで三塁へ送球する。
サードにしても、高峰が必ず取ると知っていたかのように余裕を持った体勢でボールを捕球した。
「バックホーム!」
サードがファーストへ送球する大勢を取ろうとした瞬間、キャッチャーから声が上がる。
いつもならとっくにホームを駆け抜けているはずの二宮は、ホームベース手前で膝を折っていた。
「ニノさん! 早く、早く来るのだ!」
ネクストバッターである投山の悲痛な叫びに、二宮は頭を上げた。




