3-10 記憶
黒。
それ以外の色はない。
色を見つめる。いや、黒を黒だと意識して見ているわけではないのだから、その表現は間違いかもしれない。表現を変えるとするならば、それは闇だ。どこまでも広くどこまでも深い、闇。何の快もなく、不快もない。闇。五感すべてを包む、闇。
闇が、意識を奪っていく。すべてを奪っていく。
恐怖はない。それを考える思考すら奪っているのだから、感じるわけがない。
だから。少なくともその瞬間だけは、彼女は幸福ではないが、不幸でもない。
エリーは、どちらでもない。
しかしもし、それがどちらかなのかと論ずるのなら。それは幸福なのかもしれない。
闇を見つめ続ける。なぜそうしているのかも思い出せないまま、見つめる。
ふと。
声が聞こえた。
ひどく懐かしい、声。
その声に、意識を戻される。どろどろとした闇から、ゆっくりと戻っていく。
まだ思考が戻りきっていない。声が何と言っていたのか、理解は出来なかった。だが彼女は幸福を感じた。何百年来と待ち続けたような聞きたかった声、ずっと待っていた声。もう一度聞きたいと、意識も思考も、必要なものすべてが向けられる。
「疲れたでしょ」
気遣うような声。
意識が、入る。
視界一杯に、モノクロの世界が広がった。
どこかのマンションだろうか。コンクリート製の壁は崩れきっていて、本来の用を成していない。
そして、見つめるその先には。
赤い色。
「ローズ」
エリーは名前を口にする。
快活に燃える赤い髪と、屈託ない笑みが綺麗な。
懐かしい。そう感じた。うれしい。そう感じた。
その彼女は、微笑んでもう一度同じ言葉を繰り返した。
「疲れたでしょ」
確かに。目は覚めたはずだが、いまいちはっきりとしていない。体も重い気がして、自分の考えたとおりに動かず、勝手に動いている感じすら受ける。疲れているのだろうか。
でも大丈夫。大丈夫だ。
「別に」
「私は疲れた。交代で休もうよ。水でも飲んでゆっくりしてて」
「‥‥‥ありがと、助かる」
礼を言って、エリーは奥の壁に寄りかかると、いつのまにかしていたヘルメットを脱ぐ。だがヘルメットを触った感触は、なぜか知覚出来ない。
もう片方の手には、ボルトアクションのライフルがあった。それは確か、何だったか。LAM24、そう、確かそんな名前の銃だ。
どうして自分はボルトアクションライフルなどと言うものを持っているのだろう。いつも使っている銃、H28A2はどこへやってしまったのだろうか。周囲を見渡そうとするが、うまく首が動かない。あぁ、そうだ。確か、銃身が壊れて修理に出していた、のだったか。まぁ、いいか。
バックから水筒を取り出す。口に含む。確かに飲んだはずだが、何の味もしない。
目の前の戦友に、ぼけっと視線を送る。また、頭がぼんやりとしてきていた。それでも、彼女の後姿が確かに見える。
そう、そして。
ローズの体が、小さく震える。
彼女は、糸が切れたように右側へと倒れていった。
人の体が床に倒れる音。
ライフルが床に転げる音。
目の前で。
そうだ。まただ。
何かに縛られた思考と体を無理矢理動かして、彼女の元に向かう。被弾した箇所は知っている。喉だ。喉元と下顎にべったりと血がついていて、そこから赤い血が流れていくのだ。
「ローズ、ローズ!」
叫ぶ。手当てを、早く手当てを。
リゼは何をしているんだ。クリスは。早く止血をしないと。
自分が仕事を出来なかったから。自分が甘えたから。わかっていて何もしないから。
死んでしまう。『また』彼女が死んでしまう。
彼女の首元を押さえるエリー。それは止血の為だったが、両手で持って彼女の首を元を強く抑えているそれは、まるで自分が彼女の首を絞め殺しているようで。
そうだ。
自分が、ローズを殺したんだ。
吐き気がするほど視界が揺れる。それでも流れる血を押さえようと必死に手のひらを押し付ける。
その手に、ローズが自身の手を静かに載せた。
ローズは苦しそうにして、それでも何かをしゃべろうと口の端から血の泡を流して。
彼女の唇が震える。
―――。
聞き取れない。
エリーは彼女に顔を寄せる。
―――どうして。
聞こえる。
もっとちゃんと聞こうと、ぐちゃぐちゃな意識を集中させる。彼女の口元は、赤い液体でべっとりと濡れている。
彼女が手を伸ばしてきた。なぜか血塗れている伸ばされた両手は、エリーの顔をしっかりと掴んで、自分を見ろと強制してくる。
彼女の焦点の合っていない瞳が、視界一杯に広がる。目が離せない。
そして、もう一度。知っている懐かしい声で、言葉が紡がれた。
『 ど う し て 、 助 け て く れ な か っ た の 』
「‥‥‥」
エリーが次に気がつけば、世界には色があった。
真横に横たわった世界。数秒ほどそれを眺めて、エリーは上半身を起こす。それで、世界は元通りになった。
縦長の狭めの部屋。見慣れない風景。そこがプログレス号の一室だとエリーの覚醒直後の脳が理解するのに、もう数秒ほど要した。
ひどく頭が揺れる。呼吸も苦しい。洋服も、汗を吸ってべとべとで気持ち悪い。血に濡れたはずの手は汗を握っている。
脇を見る。いつも布に包んでいるその銃を求めて。
だが、視線を送ったその場所には何もなかった。当然だ。ここは仕事先のプログレス号船中であって、エリーの自室ではない。あの銃は、今も部屋にある。
ローズが、最後に使っていた銃。
「わかってる‥‥‥ローズ」
ないものを見つめて、呟く。
敵を殺せなかったから彼女は殺された。自分が甘えたから彼女は殺された。最後には叫ぶばかりで手当てひとつしなかった。自分はローズを殺したのだ。彼女は即死ではない。一体どれほど苦しんで逝ったのか、自分には想像できないほどだろうとエリーは思う。そのことを、それらすべてに対して、一体どれほど自分を恨んで逝ったのか。
四人班の仲間を、彼女を殺しておいて、未だに生き長らえている自分がエリーは嫌いだった。リゼのように優しくなく、クリスのように頼もしくもなく。出来る事と言えば、ほんの少しだけ他人よりマシかもしれない射撃だけ。それだって自分よりも上手い人間はどれほどにも居るだろう。劣等感には近いが、それを抜きにしても純粋に、どうしようもなく、エリーは自分が嫌いだった。
そんな自分が、後は何が出来るのか。ローズと言う生涯の罪を背負って、何をすればいいのか。
できることも、やることも、ただひとつ。
じっと見つめる。何もなくても、見つめる。
もう。
もう、二度と。
「あ、起きた。おはよ、エリー」
聞き覚えのある若い声が頭に響いて、エリーは意識を戻して周囲を見回した。まだ見慣れない客室。そのソファに座った愛らしい人形、のような銀髪の少女が一人。これから社交会にでも行くのかとばかりのドレスに着替え終えて、櫛で長い髪を解かしている。そういえば同室だった、とエリーが理解する。
深い仲ではないが、彼女は正しく仲間だ。今まではクリスの背中だけを見つめていたが、それだけと言うわけにもいかなくなった。
大丈夫。と、エリーは胸の内で呟く。
自分が、すべて守る。
「‥‥‥おはよう」
「うん?」
頷きつつも、ふとした違和感にリリアはきょとんとした顔を作る。
リリアの知っている朝のエリーは「殆ど眠っているような状態でクリスに引っ張られながらレアの店に来るエリー」であって、寝起きの彼女は知らない。エリーが朝に弱いと言うのはもはや知った事であるので、こんな感じなのかなと納得をしておくリリアだった。
‥‥‥それが顔面蒼白で、呼吸も荒く、冷や汗で首元までべったり濡れた姿であっても、知らないリリアは気づかない。
「二度寝するの?」
「‥‥‥いえ」
そうしたところで、どうせクリスがドアを叩きに来るだけだ。それが自宅であれここであれ変わることはないだろう。ならばとりあえず起きて、来るまでの時間で乱れた髪くらいは正す為に、エリーはベッドから立ち上がる。
そして、エリーはその場に倒れた。
ただ足を絡めてこけただけにしか見えなかったリリアは、笑い出す。
「もう、何やってるのよエリー」
「‥‥‥」
「本当に朝がダメなのね。私はちゃんと起きれるのよ。早寝早起きっておじさんに言われてたし」
「‥‥‥」
「エリー、どうしたの。頭打った?」
動かないことを不審に思ったリリアが、エリーに近寄る。
そして眩暈と、胸元の強烈な不快感で呻き出したエリーを見て、さすがに異常を理解したリリアは、クリスを呼びに部屋を飛び出した。




