5-9 幻
椅子に縛り付けられるという経験を、人生のうちで一体何人が経験するだろう。
荷物も懐の拳銃もすべて奪われ、エリーはそのような希少な体験をしている。両手は後ろ手に、後は胴体と両足は安物の椅子に粗雑にガムテープで巻きつけられている。確かに、エリーから自由を奪うのであればこの程度で十分だ。幸いなのはこの状況にさせられるまでエリーが抵抗しなかったので、暴行の類は受けずに済んだことだろう。
もっとも、ここから先は、保障されていないが。
空き家の一室にこうして連行されたエリーは、二名の見張りと一緒にしばし時を過ごした。
エリーには特に不安はない。状況的に彼らがリリアを追っている人間だろうとは間違いないだろうし、そしてそのリリアの場所を知らないからこうして自分を捕らえたのであろうことから、リリア達はいまだ無事と言う証左でもある。彼らが欲しがっている情報、すなわち居場所をエリーは知らないのだからない袖は振れない。痛いのはもちろん嫌だが、何をされたとて仲間が窮地に落ちるようなことはない。仮に別件の誘拐犯とか、これまでの掃除屋稼業絡みの私刑だとしても特に問題はない。自分の命に何の価値もないことはエリーが知っている。
5分か、10分か、待たされて。
足音が近づく。
部屋の扉が開かれた。男性が一名、追加で入ってくる。彼らと見張りの計三人はエリーを囲んだ。
「我々は警察関係の者だ。拘束については申し訳ないが、円滑な捜査の為だ」
「そう」
「いくらか質問をする。協力してくれれば手荒にはしない」
彼らの言う協力とやらの判定に当たらなければ何か起きるということだ。
エリーにとっては、どうでもいい。
男は語り始めた。リリアと言う「重犯罪者」の逃亡に、クリスが手引きしていること。そのクリスとエリーとのやり取りも調べて知っていること。
「我々はすべてを知っている、君達の会話内容も。逃走幇助については未遂という事で不問にしよう。あの公園で彼女と待ち合わせしたのだろう。だが君は合流しなかった」
「そうね」
「それで君はバスに乗ってここにきた。どうしてだ」
「会えなかったから帰った」
「もっと直接的な質問がいいかな。どこにいる」
「知らない」
知らないものは答えようがない。知っていても答えなかったであろうが。
エリーの短く平坦な返しに、それがエリーという人間だと知らない相手は表情を固くした。そして、ボディチェックの際に奪われていた、マティスからのメモ紙を広げてみせる。
「酒場に彼女達はいなかった。お前はどこに向かおうとしていた」
「書いてある通り」
返答に対する次の質問は、みぞおちへのボディフックだった。
防御する事もなく受け止めて、エリーは咳き込む。
「我々は、君を刑務所へ送ることも可能だ。複数の殺人容疑、違法銃の所持、犯罪者逃走援助。刑罰は相応だ。しかし、もし君が犯罪者の検挙に理解と協力を示してくれるのなら、これら過去について一切の不問にも出来る。裏切り行為が仲間内で重刑であっても大丈夫だ、重要証人として保護し安全な生活を提供できる。君の友達もだ」
「‥‥‥」
「リリア・トゥムルーシュの居場所は、どこだ」
「知らない」
もう一度、胴体への暴力。
拳に頼るのは疲れたのか、それとももっと効果的と考えたのか。男は懐からフォールディングナイフを取り出し、逆手に握る。
「君が協力を行わないのであれば、服従させる必要が出てくる。居場所は?」
「さぁ」
エリーの短い返答に対する次の行動は、ナイフによるエリーの左大腿への刺突だった。ナイフの根元まで、勢いよく叩きつけられる。
最初に熱さを感じ、そして絶望の痛みに襲われるたエリーは苦悶して唇を噛み、身じろぎした。
「居場所は?」
「知らない」
突き立ったナイフが捻られる。数倍に神経を刺激されて、堪えきれない激痛にエリーは叫び声を上げた。
「居場所は?」
「知ら、ないっ‥‥‥!」
刃物らしく刻まれて、傷口が拡大する。
すぐには白状しないと判断した男性は、舌打ちするとナイフをエリーの足に残したまま、残りの人間に語気荒く指示を飛ばして部屋を出て行った。吐くまで痛めつけておけ、と。
指示を飛ばしたその男性は、リリア捜索をする部隊の副官であった。だから部屋に残った部下二人はその命令通りに行う義務があったが、二人はそこらで拾った棒状の木材を掴むだけで、顔を見合わせてどうしようかと悩んだ。ズボンを血に染めてうなだれている女性を殴ることに抵抗があったのだ。非力とわかっている人間に喜んで危害を加えるほど、彼らは人間性を捨ててはいない。あとは、指示を飛ばした人間について少々思うところもないではなかったというのも、理由にはある。
しかしエリーから何か情報を吐き出させることこそが彼らの仕事であり、できなければ一定以上の叱責が待っていることも確かである。彼らは獲物を構えてエリーに近づく。
痛いだろうな、とエリーは思った。先ほどは自分でも意外な程叫び声が出たので、泣き喚くかもしれないなと思った。が、どうでもいいことなのですぐに思考の外にやった。脅迫されようが薬物を使われようが、ない袖は触れないのだから、自分のせいでクリス達が危険になることはない。彼らにしても居場所がわからないのだから、自分を人質に釣り出すというのも難しいだろう。何せ伝える方法がない。
大丈夫。
自分の命に、価値はない。
座して待つ。
そこで、また扉が開かれた。
「指示をもらうから、あなた達待機してて」
新たな指示に、見張り役の二人は了解と答えつつ胸を撫で下ろす。先ほどの人物より階級は低いが、自分達よりも階級が上の人間の新しい命令だ。従ったところで問題はない。
エリーは顔を上げた。それはとりあえず暴行から遠ざかった故の幸福からではなく。入ってきたその女性の声に、聞き覚えがあったから。
見る。そしてやはり自分の知っている相手であることになんとなくの安堵と、そして驚きに包まれた。
リンクスの酒場に出入りしている掃除屋。顔見知りの、黒髪の女性。
「‥‥‥ハンナ」
エリーの呟きには反応を寄越さず、ハンナはエリーのに寄るとナイフを握り。
ハンナは自分のバッグからハンカチを取り出すと、エリーに突き立ったナイフの周囲を覆い。
「痛いわよ」
そして獲物を引き抜く。やはり激痛がエリーを襲うが、それは歯を食いしばって耐えればいいだけ。彼女にとってほとんど問題ではない。そしてハンナは、エリーの傷を止血するべく圧迫して巻いていく。
良くはわからないが、彼女はリリアを追う立場の人間らしい。掃除屋稼業だ。クリスとアナベルのように時には銃を向けあう事だってありうる。これには驚くべきことではないのだろうと考えながらも、やはりどうしてという疑問がエリーの頭に降る。
「さっさと答えればいいのに」
ハンナは呟き。
「本当に知らないの?」
「‥‥‥」
どちらの質問にもエリーは答えない。こんな状況。たとえ過去酒場でグラスを交わす仲だろうと、今の彼女は敵だ。返答は、必要ない。
そしてハンナはエリーの瞳を見た。
「こっちも、手を尽くしたって証明が欲しいから少しだけ殴らせなさい」
「‥‥‥ん」
拒否を出来る立場でもない。エリーが同意すると、傷口を縛るだけの簡易手当を終えたハンナは見張りに、軽く殴っておいてと、顔と急所は外しといてと指示を出して部屋を立ち去っていった。
どういう状況なのかエリーにはまるで理解が出来なかったが。
どうでもいい。
瞳を閉じるエリーに向けて、暴力と呼んでよいのか疑わしい手心の入ったものだが、確かな打撃が、振るわれた。
□
しばしのち、ハンナはもう一度戻ってくると、エリーの開放を指示して荷物も返却した。ただし、武器たるH28A2マークスマンライフルとW99C自動拳銃は没収となり、返された小袋の中に入っていたナイフも同様に取り上げられていた。後で返すとの事だったが、今返却されないのならエリーにはどうでも良かった。
19時。
暴行役を受けた見張り二名から小さく会釈という謝罪を貰い、ハンナからは無言で肩を叩かれて。遠慮の為に殴らないでもらえた顔の代わりに受けた腹部の打撲と、足の切創の痛みを堪えて、エリーは空き家から日が落ちつつある町へと出た。
とりあえず離れるためとエリーは歩み。
噴水広場に辿り着いた所で。
足を止める。
簡単な話だ。
ここから先、目的地がない。
目的は、それだけはある。
リリアの逃走を手伝うこと、クリスの身を守ること。もう誰も失わせない為に、それらを守ること。それだけは確かであり、それしかない。そしてそのために必要なものを、今のエリーは何一つもっていなかった。そもそもの護衛対象の居場所、情報を買い取る金、守る為の力。すべてだ。
リンクスの酒場に向かっても意味がない。監視の目を撒くのが目的の指示であったに違いないから、一度捕まったエリーにすれば用のない場所だ。また携帯電話を返却されたものの、やはり盗聴と追跡の可能性がある。一度没収されて何を細工されたかもわからない通信機など、どこかに捨てればいいだけの話だが。
できること。
エリーは歩く。目的地は、自宅だ。少しだけ寄り道してレアの店に立ち寄り、ドアを壊されているレアの店を目にしつつ。
アパートの自室に戻るが、そこも少しだけ様子が変わっていた。
まず部屋の鍵が壊されていた。そして中に入ると、多少部屋を荒らされた跡があった。エリーを捕らえている間にリリア関連の情報を探りに来た人間が、もののついでに、解放後に使えないようにと銃器類を接収していたのだ。
だからそこには何もなかった。本当に何もない。
エリーは無力だった。
しばし佇んで、そして自分のベッドに腰を下ろし。
「‥‥‥っ!」
唇を噛む。
悔しさと、無力感と、不安と。今の自分ではどうしようもないそれらがエリーの心を攻め立てて、そのあまりにエリーは泣き出しそうになった。
何も出来ない。
エリーが身を置く世界において、力がないことは罪だった。力がない者は踏みにじられ蹴り飛ばされ、殺されるか野垂れ死ぬかの二択しか残らない。力とは、金か暴力かだ。それで命を買い地位を買う。相手が力を誇示してきたら、それ以上の力で、殺される前に殺す。
お金は、財布に入れているもの手元にある。ただし、大枚を持ち歩く趣味がないエリーの財布の中身は本当に必要なだけの生活資金だけであり、もちろんその程度の金額では銃は買えない。これまで稼いだ資金は銀行に預けてあって、そして銀行はこの時間には閉まっている。
銃。
はっとして、エリーはベッド脇へと目を移した。そこにあるはずのものは、ない。
なくて当然だ。あれは今、ローズの銃は今、修理に出している。修理に出していて、そしてつい先日。
修理が終わったと連絡があって。
銃があれば、力があれば、戦える。
「違う」
何を考えているのかと、エリーは握り潰さんばかりに布団を掴む。
あれは誓いだ。もう誰も失わせない為の誓い。あのローズの銃を扱うなど、彼女に恐れ多い。自分にあの銃を使う資格などない。
銃。
力。
クリスを守る力。友達を守る力。
欲しい。たまらなく、必要。
―――役立たず
「ごめん」
―――あなたには無理よ
「ごめん」
―――私に触らないで
「ごめん」
頭の中から聞こえる声に、エリーは小さく呟く。
そして、ぐっと瞳を閉じて。
「私は、もう誰も死なせたくない。私はクリスを守りたい、リリアもジゼットも、お世話になったし守りたい。お願い。今度はやり遂げるから。今日だけだから。お願いっ‥‥‥!」
願い。
声は。
消えた。
眼を開く。
後には、薄暗い部屋の壁だけがエリーの目の前にあった。
「‥‥‥取りに、行かないと」
うわ言のように呟き、エリーは腰を浮かした。ローズの銃は武器商人のサイモンの手元、受け渡しは隣の港町だ。車でおよそ三時間といったところか。そう、車で三時間、往復六時間だ。あまりにも悠長な行動であり、そしてその移動手段もないに等しかった。車は持っていないし、そもそも運転できない。それでも、エリーは足を動かす。
走り出そうとして、よろける。エリーが思った以上に深く広くナイフで裂かれた左足が痛んで、エリーの行動を邪魔していた。今から日の落ちた町で、どこにいるかわからないタクシーを拾うなりしなければならないというのに。自身のふがいなさに、エリーはことさらに自分が嫌いになった。
懐に入れた携帯電話が鳴り出したのは、その時だった。
まさかクリスかと、期待以上に慌てて取り出したエリーは画面を見て失意した。しかしかかってきた以上は何事かと、エリーは苛立ちを募らせながらも出ることにした。もちろん足は動かして部屋から出る。
電話の主は、男性だ。
「こんばんは」
「何」
ぶっきらぼうに返すが、もはや知ってのことだと電話の相手、ディーは特に気分を害す様子もなく続けた。
「冷たいね。もう少し頻回にやり取りすべきだったかな」
「そう。私は忙しい」
「明日にデートにでもと思ったんだが」
エリーはアパートを出る。そして目の前に泊まっている黒の乗用車に少しだけ意識を奪われて。
その運転席から片手を掲げるディーに気づいて、歩みを止めた。




