第99話 柏の夜
決勝の次の日の夜、ホテルの部屋の電話が鳴った。
ニューヨークは月曜の夜の十時で、日本は火曜の朝の十一時だった。
「おにいちゃん!」
美咲だった。
明日の朝の便で次の大会へ移るから、今夜は早く寝るはずだった。
「今、家に電話した!」
「……寝るんじゃなかったのか」
「寝られるわけないでしょ」
受話器の向こうで何かががさがさ鳴っていた。
国際電話を二本、どうにかつないでいるらしい。どうやったのかは、聞かない方がよさそうだった。
「今、お母さんとつながってる。……お母さん、おにいちゃんとつながったよ。……え?」
美咲の声が少し遠くなってまた戻ってきた。
「お母さん、今は出られないって」
「……なんで」
「泣いてるから」
美咲はあっさり言った。
「昨日の朝、四時からテレビで見てて、途中から泣いてて、今朝の新聞でまた泣いて、声が出ないんだって」
電話の向こうの、さらに向こうで、誰かが鼻をすする音がした。
押し入れに木のラケットをしまっていた人が、柏の居間で泣いていた。
「……母さんに、ありがとうって伝えて」
「伝える。……お母さん、ありがとうって。……うん。……え、何? ……お母さんが、ご飯はちゃんと食べていますかって」
「食べてる」
「食べてるって。……お母さん、ご飯のことしか聞かないの、なんで?」
受話器の向こうの向こうで母が何か言った。美咲が笑った。
「おにいちゃん、お母さん、泣きながら、他に聞くことが思いつかないんですって」
「それでね」
美咲が声を落とした。
内緒話のつもりでも、二重の回線の向こうの母にはたぶん聞こえている。
「お父さんがね、今朝、コンビニでスポーツ新聞を三紙買ってきたの。全部、一面がおにいちゃん」
「三紙」
「で、居間の柱の切り抜きの横に、三紙全部貼ろうとしてた。一面を三枚並べて。画鋲を九個持って」
一九八五年の夏の切り抜きが、二十二年間、剥がされずに貼ってある柱だ。
父は言うときは全部言う人だ。貼るときも全部貼る。
「で、お母さんが止めた。泣きながら、一枚にしてくださいって」
泣きながら、だ。
「二十二年、画鋲四つで済んでいたのに、一日で九個はいけませんって。で、お父さん、三紙並べて、どれにするか一時間悩んでた。決まらないまま会社に行った。帰ってから決めるって」
地方銀行の窓口の奥で、父は今日一日三紙の一面のことを考えるのだろう。融資の審査より真剣に。
「おにいちゃん、どれがいいと思う?」
「……見出しは」
「日本人初の快挙、と、強気の初優勝、と……初優勝であと三つ」
「……あと三つ、のやつ」
「それ? 写真、一番小さいよ」
「それでいい」
柱に貼るなら、数が書いてある方がいい。
父にはあと三つの本当の意味は分からない。分からないまま貼ればいい。
二十三歳で一つ。三十歳までの七年で、あと三つ。
「あとね。おじいちゃんが、朝刊、百部買った」
「……百部」
「駅前の新聞屋さんで、ある分全部って言ったら九十部しかなくて、残りの十部は隣の駅まで買いに行ったんだって」
祖父らしかった。加減を知らない人の、加減の仕方だ。
「で、近所に配った」
「近所に」
「町内会の、全部の家。一軒ずつポストに入れて回ったの。会長が自分で。作業着で」
丹羽建設の会長が、朝の六時に作業着で、町内の家のポストに新聞を入れて回っていた。
「で、おばあちゃんが、半分回収した」
「回収」
「おじいちゃんの後ろからついて回って、もう新聞を取ってる家のポストからは抜いて回ったの。二部入ってたら迷惑だからって」
四十年以上、この二人はこうやって町を回ってきたのかもしれない。
「回収した五十部は?」
「おばあちゃんの家の、蔵にしまった。いつか使うかもしれないからって」
「蔵に」
「うん。で、おじいちゃん、今は会社で社員の人たちに一部ずつ配ってるって」
「……まだ持ってたのか」
「蔵から出してきたんだって。おばあちゃんが鍵を開けて」
いつか、は三時間後だった。
百部は一部も余らなかった。
受話器の向こうの向こうで、母が、泣きながら笑っていた。
美咲の電話が切れたあと、夜の十一時にもう一度電話が鳴った。
「……たくま?」
千夏だった。日本は火曜の昼休みだ。
「見た。昨日の朝四時に、寮の台所の小さいテレビで。選手の子たちが朝ごはんを食べながら見てた」
「……うん」
「最後のところで、陸上の子が味噌汁をこぼした」
千夏は笑って、それから黙った。
「おめでとう」
声が少し揺れてすぐに戻った。
「ありがとう」
「……脚は?」
「重い」
「そう」
ペンの音がしなかった。
「今日は、書かないの?」
「今日は書かない。今日の脚は、書かなくていい脚」
千夏のノートの右端の欄だ。八年間で空白になっているのは、これで二日になる。
「そっちは。仕事」
千夏は間を置いた。
「……実はね。先週、最初の担当を任されたの。実業団の女子バレーボールのチーム。一チームの献立を、全部あたしが組む」
「……おめでとう」
受話器の向こうで千夏が息を止めた。
「……そっちも。おめでとう」
世界の四大大会と、実業団の女子バレーボールの一チーム。
比べるものではない。どちらも一つ目だ。
「次は、どこ?」
「全豪」
「一月ね。暑いところ」
「四十度になる日もある」
「じゃあ、冷凍のおにぎり、送る」
千夏はもう次の冠の献立を考えていた。
数えているだけの俺より、先に。




