第98話 一冠目
決勝は日曜日の午後だった。
センターコートの客席は上の方まで全部埋まっていた。
二万人。
ハード特化はこの国の選手だった。
入場のとき二万人分の歓声が上から降ってきた。
俺のための歓声は、たぶんそのうちの何十人分かだ。
二階席の端で日の丸を振っている人たちがいて、その中に美咲の頭が見えた。
今日は日の丸を持っていた。
一セット目。ハード特化の、世界で一番速いサーブが来た。
返した。高く。
肩の高さに跳ね上がる球。あの日、この男を崩した球だった。
ハード特化は下がらなかった。前に出てきて、跳ね上がりきる前に叩いてきた。
ライジング。
準決勝で俺が赤土の魔人にやったことを、この男が、俺にやっていた。
肩の高さまで上がる前に腰の高さで叩く。腰の高さなら、この男は世界で一番速いフォアハンドを打てる。
読まれていた。
去年の二月、この男は二セット目から前に出てきて、そのセットを取った。三セット目に深い球で足元をすくわれて下がった。
今日は一球目から前にいる。深い球も足元の跳ね際で叩いてくる。あの負けのあと、テープで覚えてきたのだ。
一セット目を四対六で落とした。
二セット目、高い球をやめた。低く速く、ハード特化の腰の高さに打ち込んだ。この男の一番得意な高さにだ。
世界で一番速いフォアハンドが返ってきて、速い球同士のラリーになった。
この男の得意な打ち合いに付き合いながら、待った。ハード特化が前に出てくる瞬間を。
ハード特化は何度か前に出ようとした。高い球が来ると読んで前に出て、ライジングで叩く準備をする。
その瞬間に高い球を打った。前に出たハード特化の、頭の上を越えていく球を。
読まれた先を、読んだ。
ハード特化は下がりながら肩の高さの球を振った。振り切れずにネットにかかった。
二セット目を七対五で取った。
三セット目、ハード特化は前に出るのをやめて、自分から高い球を打ってきた。
俺の肩の高さへ深く。同じ高さで打ち合えば、高さの不利は消える。三ゲーム続けて取られた。
四ゲーム目から、その球を跳ね上がる前に叩いた。準決勝の二時間で、手がその打点を覚えていた。
高い球を打つために下がったハード特化は、叩いた球に一歩ずつ遅れた。三セット目は六対四で取り返した。
四セット目のハード特化は、前にも出ず下がりもせずにベースラインの上に立っていた。
どちらにも動けなくなっていた。
四セット目。
五対三。ハード特化のサービスゲーム。
三十対四十。
チャンピオンシップポイント、と場内のアナウンスが言った。
ハード特化がボールを三回ついた。トスを上げた。
サーブが来た。センターに。速かった。
見えた。
ラケットを出した。深く返した。
ハード特化がベースラインの後ろでフォアハンドを振った。
低く速く、俺のバックハンドの側へ。
届いた。バックハンドでクロスに返した。
高く。肩の高さに跳ね上がる球。
ハード特化は前に出なかった。下がりもしなかった。
ベースラインの上で、肩の高さの球をそのまま振った。
振り切れなかった。
ボールは浮いて、ネットの上をゆっくり越えてきた。
その時にはもう、前に走っていた。
この男が下がらないなら、球はこう返ってくる。二セット目から、それを待っていた。
ネットの手前で、浮いた球を落ちる前に叩いた。
ハード特化のいない方へ。
ボールは誰もいないコートで弾んで、そのままフェンスまで転がった。
終わった。
ラケットを下ろした。
歓声が上から降ってきた。叫ばなかったし、膝もつかなかった。
ネットの前に、ただ立っていた。
最初に浮かんだのは、トロフィーでも、歓声でも、家族の顔でもなかった。
数字だった。
残り、三つ。
七年。
ネットの向こうでハード特化が手を出していた。
握手をすると、ハード特化は俺の目を見た。
前に当たった日、この男は俺の目を見なかった。今日は見ていた。
何も言わずにただ長く手を握っていた。
表彰式の前にベンチでSTATUSを開いた。
一番下の欄まで下りていった。
■最終ミッション▽
達成条件
四大大会全制覇
達成期限
三十歳
何も変わっていなかった。
四大大会全制覇。
四つのうちの一つを取ったのだから、表示のどこかに印が一つつくのではないかと思っていた。
つかなかった。達成条件の七文字は、二十三年前と同じ形でそこにあった。
四つ揃うまで、この表示は変わらないのかもしれない。
一つ取っても三つ取っても、この欄にとっては同じで、全部かゼロか。
融通の利かなさだけは、二十三年間一度もぶれない。
期限の欄も三十歳のままだった。
成功報酬の欄は空白のままで、失敗ペナルティの欄は心停止のままだった。
ミッション一覧の方を開いた。
【MISSION】
・四大大会で優勝する 達成
パワー +60
テクニック +56
こちらには表示が出ていた。一覧の中の小さな一行と、その下の二行。
四大大会に出た日の数字より、ずっと大きかった。
五歳の春にボールを打ち始めてから、町の大会から四大大会まで一行ずつ上がってきた。
これはその一覧の、おそらく最後の方の一行になる。
一覧を閉じて最終ミッションの欄をもう一度見た。
変わらない。
表彰台の方で、係の人が俺の名前を呼んでいた。
表彰式はセンターコートの上で行われた。
大会の関係者たちがコートの真ん中に台を並べていく。
ハード特化が先に呼ばれた。準優勝の、銀の皿だった。
二万人が立ち上がって拍手をした。
それから、場内のアナウンスが優勝者の名前を読み上げた。
「……And the champion……」
一拍、あった。
「……TA-KOO-MA NIWA!」
タクーマ。
真ん中が伸びていた。一度目から、間違えた。
コートの真ん中へ歩き出すと、アナウンスが続けた。
「……from Japan, TA-KU-MA NEE-WA!」
ニーワ。
今度は苗字の方が伸びていた。
トロフィーを受け取った。銀色の、大きなカップだった。
重かった。全仏の準優勝の盾は軽かったが、このカップは重かった。
カップを頭の上に持ち上げた。
二万人の拍手の中で、アナウンスが三度目の名前を読んだ。
「……Ladies and gentlemen, your US Open champion, TOO-KUMA NIWA!」
トゥクマ。
今度は頭の方が伸びていた。三回読んで三回とも違った。
二階席の端で日の丸を振っていた人たちが笑っていた。
美咲が日の丸の旗を頭の上でぐるぐる回している。
ベンチの横で、圭は腕を組んで下を向いていた。肩が小さく揺れていた。
カップを掲げているあいだ、顔は一度も上げなかった。
三回とも間違えられた。
それでも、このカップの台座には、たぶん正しい名前が彫られる。
TAKUMA NIWA。
二〇〇七年。十六年前に一枚の絵はがきが決めた、ハードの床の上だった。
カップを下ろした。重かった。
残り三つを七年で。このカップの重さと同じものを、あと三つ。取れるのか。
腕の中の銀色が、夕方の光を跳ね返していた。
表彰式のあと、記者会見の部屋で日本の記者が手を挙げた。
初めてのツアーの記者会見で、通訳を待っていたスポーツ新聞の記者だった。
「今の、お気持ちは」
日本語だった。少し考えた。
「……あと、三つです」
記者は手を止めた。
「三つ、というのは」
「四大大会の、残りの三つです」
記者がメモを取った。
「BIG4の中で、一番手強いのは」
「万能型です」
「……万能型」
「全部が揃っている人です。ハードの上なら、ハード特化の人も」
火曜の朝の日本の新聞に、その一言が見出しになって載っていたらしい。初優勝で、あと三つ。
記事の終わりには、万能型、ハード特化という言葉も並んでいた。強気と書いた新聞と謙虚と書いた新聞があったと、あとで美咲が電話で教えてくれた。
どちらでもなかった。
ただ、数えていただけだった。




