第97話 準決勝
準決勝は土曜日の昼、センターコートのその日の二試合目だった。
午後の日差しがまだ強く、スタンドの影がコートの端に落ちていた。
赤土の魔人はネットの向こうでボールを三回ついた。
左利きの、高いトス。
サーブが来た。
ハードの上の魔人のサーブは赤い土の上より速かった。
けれど跳ねなかった。
赤い土の上では胸の高さから肩の高さまで伸びてきた球が、ハードの上では、胸の高さで止まる。
打ち返すとラリーになった。
赤土の魔人がベースラインの一メートル後ろに下がった。
赤い土の上の、あの男の立ち位置だった。
下がって時間を作り、高く跳ねる球を、さらに高く跳ねる球で返す。
長いラリーで相手の足を少しずつ削る。
ハードの上でもこの男は同じことをしようとしていた。
させなかった。深く跳ねる球を、跳ね上がりきる前に叩いた。
ライジング。
ボールがコートに落ちて跳ね上がる、その途中で打つ。
高く跳ねる前に。赤土の魔人が次の球の準備をする前に。
赤い土の上ではこれができなかった。
赤い土の球は跳ね上がる途中で不規則に伸びるから、途中で叩こうとすると、ラケットの面がボールに負ける。全仏の決勝で二度フレームに当てて覚えた。
ハードの上の球はまっすぐに跳ねる。だから、途中で叩ける。
叩いた球は、魔人が後ろに下がった分だけ遠いコートの隅に落ちた。
赤土の魔人は走った。半歩、遅かった。
赤い土の上なら、この男は滑った先でぴたりと止まり、止まった場所からすぐに次の一歩が出る。
ハードの上では滑らない。滑らない床の上で、この男の足は赤い土の上ほど速くなかった。
一セット目は六対三で取った。
二セット目、赤土の魔人が下がらなくなった。
ベースラインの上に立ち、跳ね上がる前の球を自分から叩きにくる。
赤い土の上では一度も見たことのない立ち位置だった。俺から時間を取り上げに来たのだ。
速い打ち合いになった。跳ね際を叩き合うと、左利きの角度のある球の方が先にコートの外へ逃げていく。二ゲーム目にブレークされた。
チェンジコートのベンチで、テープの中の魔人を思い出した。
この男が前に出てくるのは、相手の球が浅くなったときだけだ。前で叩き続ける練習をしてきた男ではない。
三ゲーム目から、球を低くした。
ハードの上を膝より下で滑っていく球。高い打点で叩きたい左利きには、一番遠い高さだ。
前に立った分だけ、球は早く足元に着く。魔人の返す球が一本ずつ浮き始めた。
浮いた球に前へ詰めて叩いた。ハードの上の半歩の遅れは、前後の動きでも同じだった。
四ゲーム続けて取ったところで、魔人はベースラインの一メートル後ろへ戻っていった。二セット目も六対四で取った。
ベンチに戻ってタオルで顔を拭いた。タオルの中でふと思った。
これは次にも使える。
赤土の魔人をハードの上で崩した手順も、ハード特化をハードの上で崩した手順も、同じだ。
床が違えば、弱点の場所は変わる。
けれど、弱点を探して、並べて、潰していく手順は変わらない。
型だった。
小学生の頃は、縛りをかけた自分の弱点の中で戦い方を探していた。
今は相手の弱点の中で戦い方を探している。
同じことを逆からやっているだけだ。小学生の俺が聞いたら、性格が悪くなったと言うだろう。
タオルを置いた。
三セット目の途中のチェンジコートで、客席の一角から歌が聞こえてきた。
センターコートの二階席の端で、赤と黄色の旗が揺れていた。
赤土の魔人の国の応援団だった。
二十人くらいの人たちが肩を組んで何かの歌を歌っている。
この国の言葉ではない遠い国の、太鼓の拍子のような歌だった。
その真ん中に見覚えのある頭があった。
美咲だった。今年の全米は女子の予選で負けて、そのあと近くの下の大会を一つ回っていた。
兄の準決勝を見てから次の大会へ移ると、昨日ホテルのロビーで言っていた。
美咲は赤と黄色の旗の人たちと肩を組んで歌っていた。
口は動いている。けれど、歌詞は合っていなかった。
周りの人たちが何かの言葉を歌っているところで、美咲は口を「うー」と「あー」の形にして、拍子だけ合わせている。
大きな声の、ハミングだった。
ベンチのすぐ後ろの関係者席で圭が二階席を見上げていた。
「……あれは」
「美咲です」
「……相手の、応援団だぞ」
「知ってると思います」
美咲は歌い終わると隣の人と手を叩き合っていた。
隣の人が何か話しかけて、美咲はにこにこしながらうなずいている。
たぶん言葉は通じていない。通じていないまま肩を組んでいた。
チェンジコートの時間が終わった。
ベースラインに戻りながら、もう一度だけ二階席を見ると、美咲がこちらに向かって手を振っていた。
赤と黄色の旗を持っている。相手の国の旗だった。
関係者席の圭は片手で目のあたりを覆っていた。
見なかったことにするつもりらしかった。
三セット目、五対三で迎えた俺のサービスゲームは四十対十五になった。
ワイドに打ったサーブに赤土の魔人は届いた。
返ってきた球に向かって前へ詰めた。次は跳ね際を叩く。この二時間、ずっとそうしてきた。
魔人はそれを待っていた。
ラケットの面を寝かせて、ネットのすぐ向こうへ短く落とした。赤い土の上なら跳ねずにそこで止まる球だ。
ハードの上では止まらなかった。
跳ねた球に、詰めていた分だけ早く届いた。手首だけでクロスへ流すと、魔人はベースラインの後ろで一歩も動かずにそれを見送った。
主審のコールより先に、赤土の魔人がラケットの面をこちらへ向けて上げた。
ストレートだった。
ネットの前で握手をすると、魔人は俺の手を強く握ったまま足元の青いコートを靴の先で二度叩いた。
「Only here」
それから笑った。負けた選手が笑っていた。
四大大会で初めてこの男に勝った。けれど赤い土の上ではなかったし、決勝でもない。
越えた、とはまだ言えなかった。
ベンチに戻ってSTATUSを開いた。
今日の経験点は全仏の決勝の半分くらいだった。
ハードの上では、俺の方が少し上にいたということだ。
ロッカールームのテレビに、先に終わっていたもう一つの準決勝の結果が出ていた。
ハード特化が万能型に五セットで勝っていた。
決勝の相手はハード特化だった。
肩の高さ。去年の二月、四大大会ではない大会で一度だけ勝った男。
あの男もきっと、あの日のテープを見ている。
ホテルに戻る車の中で、美咲は赤と黄色の旗をまだ持っていた。
「それ、返さなくていいのか」
「もらった。お土産にって」
圭は窓の外を見ていた。
夕方の街の明かりが窓ガラスの上を流れていく。
「……明日の朝は、三十分だけ打つ」
一つだけ言う、とは言わなかった。
美咲は膝の上で旗を畳み直していて、畳むたびに角が一つ余っていた。
しばらくして、圭が言った。
「……試合の前に、打ちすぎるな」
二つ目だった。
明日の午後、この人が十六年前に一行で決めた床の上で、決勝がある。




