第96話 世界はハードだ
八月のニューヨークは空気が重かった。湿気が肌にまとわりついてくる。
全米オープンの一週間前に、会場の練習コートへ入った。
練習コートは会場の奥に十六面並んでいて、どの面でも誰かが打っている。
世界ランキングの上から下まで、全米に出る選手の全員がこの十六面を奪い合うのだ。
受付で名前を言うと係の人が名簿を見て顔を上げた。
「Niwa. Court five, at ten」
係の人は指を五本立ててから壁の時計を指さした。
三年前に予選に出たときは、練習コートの予約は朝の七時か夜の八時しか取れなかった。
ランキングの低い選手は誰も使わない時間しかもらえない。
今年は十時で、一番いい時間だった。
ランキングは六位になっていた。全米の第六シードだ。
五番コートに入った。
隣の四番コートでも、反対側の六番コートでも、誰かが打っている。
音がうるさかった。ボールを打つ音、靴がコートを擦る音、コーチの声。
十六面分の音が全部混ざって、湿気の中に重く溜まっていた。
遠くでは飛行機の音もする。
この会場の上を、近くの空港に降りる飛行機がひっきりなしに通っていくのだ。
下の大会の会場は静かだった。客が二十人に、野良犬が一匹。
聞こえるのは自分の打つ音と相手の打つ音だけだった。
ここはうるさい。
そのうるささの中に、今年は少し自分のためのものが混ざっている。
圭がコートの脇でボールかごを開けて打ち始めた。
最初の一球がハードの上でまっすぐに跳ねた。
練習の最後の十分、圭がコートの中に入ってきた。
珍しいことだった。この人はいつも、フェンスの外かベンチの横から見ている。
圭はネットの前まで歩いてきて、ネットを挟んで俺の前に立った。
足元の青い塗装の上に白いラインが引かれている。
圭は足元を見てから顔を上げた。
「一つだけ言う」
隣の四番コートの音が遠くなった気がした。
「……世界は、ハードだ」
知っていた。
十六年前の正月、本家の塀の向こうの空き地に最初のコートを作ることが決まった。
どんなコートにするか誰も知らなくて、父が、藤代さんに聞いてみるかと言った。
半年たって届いた返事は、ロンドンの時計台の絵はがきだった。
裏に、一行だけ。
ハードにしろ。世界はハードだ。
あの一行で本家の隣にハードのコートができた。
センターの三面も屋根のある練習場も、全部ハードになった。
それからずっとハードの上で打ってきて、今はハードがSに入っている。
「知ってる」
圭はうなずかなかった。笑いもしなかったし、俺も笑わなかった。
圭はそれ以上何も言わずに背を向けて、コートの外へ歩いていった。
フェンスの外のベンチに座って腕を組む。いつもの場所だ。
あの夏、この人は芝の大会の最中のロンドンで、会って半年あまりの六歳の子どものコートのために、一行を書いた。
その子どもが今、この人の書いた一行の床の上に立っている。
ボールかごからボールを一つ取って、ついた。
青い塗装の上でボールがまっすぐに跳ねた。
その日の夕方、ホテルのロビーに悠蔵がいた。
ソファに座って英字新聞を広げている。株価欄だった。
「おじさん」
「ああ、ちび」
悠蔵は新聞をたたんだ。
「来たよ」
「来るなんて、聞いてない」
「言ってないからね」
ニューヨークどころか、悠蔵が日本の外に出るのはこれが一度目だった。
丹羽建設の金勘定を三十年やってきた人が、一度も出たことがなかったのだ。
飛行機が苦手なのだと、父から聞いたことがある。
「飛行機、大丈夫だった?」
「十三時間。百円玉、二百回くらい投げた」
「何を決めたの」
「機内食。肉か、魚か」
「二回しか、出ないでしょ」
「一回に、百回」
悠蔵は立ち上がった。
「ちょっと、歩こう。この街の値段を見たい」
ホテルを出て大通りを歩いた。
角にホットドッグの屋台が出ていて、悠蔵はその前で止まった。
値札をじっと見ている。
「……四ドル」
「四ドル」
「高いねえ」
「高いの?」
「日本のコンビニの三倍だね。為替で」
悠蔵は胸ポケットから黒い革の手帳を出して何か書いた。
「撤退ラインは、四ドル」
「ホットドッグに?」
「四ドルまでなら、買う。四ドルを超えたら、買わない」
悠蔵は屋台の主人に指を一本立てた。
出てきた一本に四ドルを払って、一口食べる。
しばらく黙って噛んでいて、飲み込んだ。
それから、屋台の主人にもう一本指を立てた。
二本目にもまた四ドルを払い、悠蔵はそれを俺に差し出した。
「……ラインは、上げる日もある」
「上げてないよ。四ドルのまま」
「本数の、ライン」
悠蔵は一本目の残りを食べながら、また歩き出した。
この人が線を上げるところを初めて見た。
ホットドッグの本数だけれど。
その夜、ホテルの部屋でドロー表を広げた。
悠蔵がベッドの端に座って覗き込んでいた。
百二十八人の名前がトーナメントの形に並んでいる。
第六シードの俺の線をたどると、一回戦と二回戦は五十位台から百位台の選手だった。
三回戦で当たりそうなのは第二十七シードで、四回戦には第十一シードがいる。
準々決勝は第三シードか第十四シード。
準決勝。線をたどった先に第二シードの名前があった。
赤土の魔人だった。
赤い土の上で三度負けた男で、今年の全仏の決勝では六十三本のラリーのあとに足を止められた。
この男とはハードの上ではまだ当たったことがない。
決勝。反対側の山をたどると、第一シードが万能型、第四シードがハード特化。
決勝で当たるのはそのどちらかだ。
悠蔵がドロー表の上で一回戦から決勝まで指を動かした。
七つ。
「七つ勝てば、いいの?」
「七つ」
「で、いくら損するの?」
悠蔵はいつもの調子で聞いた。この人はいつも損の方から聞く。
答えは一つだった。
「負けたら、一年」
悠蔵が顔を上げた。
「一年」
「次の全米まで一年。ハードの四大大会はもう一つ全豪があるけど、全米の方が近い」
三十歳まであと七年。四つの大会が一年に一度ずつ。
悠蔵はしばらくドロー表を見ていて、それから胸ポケットの手帳を出し、何か書いた。
「……一年ね」
手帳を閉じた。
「まあ、いいんじゃない。一年なら、まだ、撤退ラインの内側だ」
「撤退ライン?」
「ちびの撤退ラインは、三十だろ」
心臓が一回、強く打った。
悠蔵は何も知らない。
転生もSTATUSも心停止の期限も、何も言っていない。
お年玉を株にしたときから、この人は一度も理由を聞かなかった。
「……なんで、三十」
「ちびの計画書の一枚目に、書いてあった。身体が一番動くのは、三十前後までって」
悠蔵は立ち上がった。
「読んでないって、言ってなかった?」
「一枚目だけ、読んだ」
悠蔵はドアの方へ歩いていって、ノブに手をかけたまま振り返った。
「明日、ホットドッグ、三本にするかもしれない」
ドロー表の上で七つの線が、決勝の一点に向かって集まっていた。




