第95話 芝の二度目
六月の終わり、ロンドンの芝の上で足が滑った。
ウィンブルドンの練習コートだった。
芝の大会は一年に五週間しかない。全仏の決勝まで残ると、そのうち芝の上に立てるのは今年も四週間になる。
全仏の決勝から全英の一回戦までは二週間で、一週目を芝の前哨戦に使い、二週目をロンドンの練習コートで過ごした。
二週間で赤い土の足を芝の足に変える。そういう計画だった。
変わりきらなかった。
赤い土の上では滑った先で点で止まる。この二年でそれを身体に入れた。
けれど芝の上では点で止まれない。
止まろうとした足が、濡れていない芝の上で横へ流れる。
赤い土の止まり方をすると、流れた先で転びかける。
二年前の全英で負けた日、握手のときに芝の王が短い英語で言った。下に向けた手のひらで、腰の高さを一度押さえながら。
Stay low. Always.
膝を曲げて、曲げたまま止まろうとした。
また流れた。
その夜、ホテルの部屋でSTATUSのコート適性の欄を開いた。
■コート適性▽
グラス D 58 / 60▽
クレー B 73 / 75▽
ハード S 90 / 92▽
ハードはSに入っていた。クレーはBの前半まで上がっている。
全仏で負けるたびに柏の赤い土の上で冬のあいだずっと打った、その分だ。
グラスはまだDだった。
初めて芝の王と当たった年から、グラスの数字は五つしか動いていない。
一年に四週間、二年で八週間。八週間で五つなら、計算は合っている。
合っているから困るのだ。三つの床の中で一番低い。
柏の枯れた芝の前で、芝だけが残ると思ったことがある。今も同じことを思っている。
窓の外でロンドンの夜がゆっくり暗くなっていった。
夏至の近いこの国の夜は、十時を過ぎても空の端が明るい。
明るいうちにもう少し芝の上で打ちたかったが、練習コートの予約はもう終わっていた。
準々決勝で芝の王と当たった。センターコートだった。
芝の王はあれから全英をもう二度取っていて、この芝の上で四年続けて優勝している。
最初のサーブが足首の高さで滑ってきた。
前より見えた。ラケットを下げて当て、深く返した。
芝の王はもうネットの前にいた。サーブを打った瞬間に走っていたのだ。
深く返した球は胸の高さのボレーにされて、俺のコートの反対側にほとんど跳ねずに転がっていった。
深く返しても低く返しても同じだった。この男は芝の上でネットの前に立つためにできている。
一セット目を四対六で落とした。
二セット目は、自分から先に前へ出ることにした。
サーブを打ったら芝の王より先にネットを取る。前にいれば、あのボレーを打たれる側ではなくなる。
最初の二ゲームはそれで取れた。
三ゲーム目から、芝の王のリターンが沈むようになった。
前に詰める俺の靴のあたりへ、低く滑る球が来る。膝を落としきる前に、球は芝の上を過ぎていた。
すくい上げたハーフボレーが浮くと、芝の王は一歩も動かずにパスを打った。
二セット目も四対六だった。
三セット目、ベースラインの後ろで右へ走り、赤い土の止まり方で止まろうとした。
足が流れた。流れたまま打った球は、ネットの手前で芝に落ちた。
そのブレークで四対六。ストレートだった。
握手のとき、芝の王は手のひらを下に向けかけて途中でやめた。
それから俺の靴を見た。今日は何も言わなかった。
低くはなっていた。けれど、低いまま止まれなかった。
ベンチでラケットをバッグにしまった。
バッグの内ポケットには、祖父のファクスがまだ入っていた。
芝だ。二年間、入れっぱなしだった。
その夜、ホテルのフロントで封筒を渡された。
英国の税関の封筒だった。
中には英語の書類が一枚入っていた。
日本から送られた小包が税関で止められている。
中身の説明が不足しているので、以下の欄に内容物の名称、用途、成分を記入して返送すること。
小包の差出人の欄に千夏の名前があった。
内容物の欄には千夏の字で、英語で書いてあった。
Food.
それだけだった。
たぶん梅干しだった。千夏は毎年、芝の季節に梅干しを送ってくる。
芝の上の試合は短くて速いから、汗のかき方も塩の取り方も赤い土の上とは違う。
梅干しが一番いいのだと、千夏は言っていた。
その今年の梅干しが、税関で止まっている。
ロビーのソファで圭が書類を覗き込んだ。
「……貸せ」
圭はボールペンを出して書類を膝の上に置いた。
内容物の名称の欄に、ゆっくり一文字ずつ書き始める。
「……プラム」
PLUM。
「……ソルト」
SALT。
圭はボールペンを止めて、しばらく書類を見ていた。
それでは伝わらないと本人も思ったらしい。
圭はまたボールペンを動かした。
「……ベリー、ソルト」
VERY SALT。
書類の上に三行が並んだ。
PLUM.
SALT.
VERY SALT.
とても塩。
圭は書類を見て満足そうにうなずいた。
「……これで、分かる」
分からない、と思ったが言わなかった。
圭は用途の欄にTENNIS、と書き、成分の欄にもう一度SALT、と書いた。
三日後、梅干しが届いた。
税関の職員が書類の余白に鉛筆で一行書き込んでいた。
Good luck with the very salt.
とても塩での幸運を祈る。
梅干しは少しも傷んでいなかった。
全英はもう終わっていたので、次の大会の会場で一つずつ食べた。
とても塩だった。
ちょうど、よかった。
帰りの飛行機で紙を広げた。
ツアーを回りながらホテルの机で書き続けてきた表の、新しいページだった。
四つの大会を並べて書いた。
全豪。ハード。全仏。赤い土。
全英。芝。全米。ハード。
それぞれの横に、これまでの結果を書いた。
全豪。二〇〇五年、二回戦。二〇〇六年、準々決勝。二〇〇七年、準決勝。
全仏。二〇〇五年、三回戦。二〇〇六年、四回戦。二〇〇七年、決勝。
全英。二〇〇五年、三回戦。二〇〇六年、二回戦。二〇〇七年、準々決勝。
全米。二〇〇四年、三回戦。二〇〇五年、四回戦。二〇〇六年、準決勝。
一番高いのはハードだった。ハードの大会は全豪と全米の二つある。
二つのうち、近いのは全米の方だ。
去年のニューヨークでは万能型から一セットを取った。
ハード特化には去年の二月、四大大会ではない大会で一度だけ勝っている。
肩の高さ。あの男の弱点は分かっている。
表の全米の欄の横に、鉛筆で丸をつけた。
最初の一つはハードで取る。
赤い土と芝はその後でいい。後に回したところで、芝の数字が勝手に上がってくれるわけではないけれど。
隣の席で圭が目を閉じていた。眠っているのかと思った。
「……どこだ」
目を閉じたまま圭が聞いた。
「全米」
「……そうか」
窓の外は雲の上だった。全米まであと二か月。
三十歳まであと七年。四つのうち、まだ一つもない。




