第94話 春の赤土
二〇〇七年の一月、メルボルンの準決勝で、万能型と三度目に当たった。
前の全米の準決勝では、この男から一セットだけ取った。
今日も取った。
一セット目を四対六で落とし、二セット目はタイブレークで取った。
最後のポイントは、二十本のラリーのあとの俺のフォアハンドで、万能型の伸ばしたラケットの先を抜けていった。
残りの二セットを四対六とタイブレークで落とした。
負けた。
ベンチでスコアを数えた。
二年半前、ニューヨークの三回戦では二十五ゲームのうち七つ。
前の全米の準決勝では四十一ゲームのうち十八。
今日は四十六ゲームのうち二十一。
近づいていた。二度目より近い。あと少しだ。
ただ、その「少し」がどれくらいの距離なのかは、数えても出てこなかった。
ロッカールームへの通路で万能型とすれ違った。
万能型は決勝に向かう選手の顔をしていた。
すれ違いざまにこちらを見たが、何も言わない。目だけで何かを確かめていった。
二日後、万能型は芝の王に勝って全豪を取った。
ホテルのテレビで見た表彰式で、万能型はカップを持ち上げてもあまり笑っていなかった。
勝つのが当たり前の顔だった。
八歳の春から十年間、俺もああいう顔をしていたはずだ。向かいに立っていた子どもたちには、さぞ感じが悪かっただろう。
六月、パリで四大大会の決勝にようやく立った。
全仏オープンの決勝だった。
準々決勝で四十位台、準決勝で十位台の選手に勝った。
決勝の相手は赤土の魔人だった。
最初は三回戦で、三時間二十分で足が止まった。
次は四回戦で三時間四十分。足は止まらなかったが届かなかった。
この二年で、柏の赤い土とパリの赤い土の違いを身体に入れてきた。線を引かずに点で止まる滑り方だ。
それでも二セットを四対六、五対七で落とした。
三セット目、立つ位置をベースラインの内側へ一歩上げた。
高く跳ねる球を跳ね上がりきる前に叩く。肩の高さまで待たなければ、魔人に時間を渡さずに済む。
二度うまくいって三対二でブレークした。
次のゲームから魔人の球が変わった。回転が増えて着地が浅くなった。
浅く落ちた球は赤い土の上で不規則に伸びる。跳ね際に出した面が球に負けて、二本続けてフレームに当たった。
ブレークを返され、次の俺のサービスゲームも落とした。
下がるしかなかった。下がれば、あの球が来る。
左利きのフォアハンドが、俺のバックハンドの肩の高さに、何度でも来る。
三対五。魔人のサービスゲームのマッチポイントで、長いラリーになった。
五十本。六十本。
六十三本目で、点で止まったはずの足が次の一歩を出さなかった。手だけで返した球はネットの下の方に当たって赤い土に落ちた。
表彰式はコートの上だった。赤土の魔人が優勝の銀色の大きなカップを掲げた。
俺は準優勝の盾を受け取った。手に持つと軽かった。
赤土の魔人が表彰台の上からこちらを見て短く会釈をした。盾を持ったまま会釈を返した。
四大大会の決勝に、立った。
まだ、取れない。
その夜、圭が帰ってこなかった。
決勝のあとテレビ局の取材を受けてから、圭は少し歩いてくると言って夕方一人でホテルを出た。
夜の九時になっても戻らない。圭は携帯電話を持っていない。
持たない主義なのではなく、持ってもすぐに失くすので、千夏に取り上げられたのだった。
ホテルのロビーで待っているとドアが開いた。入ってきたのは美咲だった。
今年の全仏は女子の予選の二回戦で負けて、そのあと近くの小さな大会を一つ回っていた。兄が決勝に残ったと聞いてパリに戻り、明日には次の大会へ移る。
美咲はロビーを見回した。
「藤代さんは?」
「帰ってこない」
「……やっぱり」
美咲はポケットから折りたたんだパリの市街地図を出した。
「さっき、セーヌ川の方で見かけた。橋の上で、地図を逆さまに持ってた」
「逆さま」
「声かけようとしたら、反対の方に歩いてった」
美咲は地図を広げた。
「迎えに行ってくる」
美咲がロビーを出ていって三十分後、またドアが開いた。
先に入ってきたのは美咲で、地図を振っていた。
「藤代さん、こっち! ホテル、反対!」
後ろから圭が入ってきた。
圭はロビーの真ん中で止まり、俺の顔と美咲の顔を見て、それから美咲の手の地図を見た。
「一つだけ言う」
美咲が地図を下ろした。
「……地図が悪い」
それだけ言って圭はエレベーターの方へ歩いていった。
美咲が俺の横に来て小さな声で言った。
「おにいちゃん」
「うん」
「藤代さん、橋の上で、お父さんと同じ顔してた」
「父さんと?」
「うん。首都高の出口、通り過ぎたときの顔」
あの日、美咲はまだ五歳だった。
丹羽家の男も藤代家の男も、道に迷うときは同じ顔をするのだろう。迷う前にその顔をしてくれれば、もう少し役に立つのだが。
深夜、ホテルの部屋の電話が鳴った。日本は朝の七時だった。
「……たくま?」
千夏だった。
「起きてた?」
「起きてた」
「見た。決勝」
「……見たのか」
「会社のテレビで。朝のニュース」
千夏はこの四月から社会人になっていた。
大学の先生の紹介で入ったスポーツ選手の食事を作る会社で、実業団の選手たちの寮の献立を一から組んでいる。
大学の卒業研究は、一人の選手の十年分の記録の、途中までで終わった。
途中までだから、続きは会社に入っても自分で続ける、と千夏は卒業のときに言った。
「仕事、どう」
「忙しい」
千夏は笑った。
「寮のおばちゃんたちに献立の説明するのが一番大変。何でこんなに塩を減らすのかって」
「減らすのか」
「減らすの。でも減らしすぎると選手が文句言う。たくまと同じ」
「俺は、文句言ってない」
「言ってた。中三のとき。しょっぱくて硬いって」
言ったかもしれない。中三の秋の、最初の塩むすびだ。
しょっぱくて硬かったのに、けいけ……いや、うまい、と言った。
千夏は決勝の話をしなかった。負けた話もしなかったし、俺もしなかった。
代わりにしばらく千夏の会社の話を聞いた。実業団の陸上の選手たち、バスケットボールの選手たち、寮の台所の大きな鍋の話。
それから、千夏が聞いた。
「盾、どうするの」
「盾?」
「準優勝の。テレビで持ってた」
「……どうしよう」
「柏に持って帰るの?」
「柱には、貼れないな」
言ってから笑った。
丹羽家の居間の柱には、一九八五年の切り抜きが今も貼られている。盾は画鋲では留まらない。
千夏が受話器の向こうで笑った。
「悠蔵おじさんに、飾る棚を作らせたら」
「おじさんに?」
「うん。で、いくらかかるの、って言われるよ」
「言われる」
「言われて、損したって言われる」
「言われる」
千夏はしばらく笑っていて、それからいつもの声で聞いた。
「脚は?」
「……重い」
「そう」
ペンの音がした。
受話器を置いて盾をもう一度持ち上げた。やはり軽かった。
棚に載せたら少しは重く見えるだろうかと考えてから、盾をバッグの底にしまった。
カップの重さは、まだ知らない。




