第93話 後輩
十二月の半ばにセンターの駐車場へ圭の車が入ってきた。
助手席から降りてきたのは背の高い男だった。
十代の終わりくらいに見えた。
ひょろりと長い手足にジャージの上下で、肩には使い込んだラケットバッグを斜めにかけている。
圭が運転席から降りて、二人は並んでこちらへ歩いてきた。
ハードコートの脇でボールかごの前に立っていた俺の前で、圭が止まった。
「……来年から、ここで打たせる」
圭はそれだけ言った。隣の男が一歩前に出て腰を九十度に折った。
「よろしくお願いしますっ!」
声が大きかった。
センターの三面のコートの端から端まで届く声で、屋根のある練習場で打っていた子どもたちが手を止めてこちらを見た。
圭が横で顔をしかめた。それだけで、男は腰を折ったまま固まった。
「……声は、試合で出せ」
「はいっ!」
また大きかった。
圭は何も言わずにクラブハウスの方へ歩いていった。
男はゆっくり体を起こした。
近くで見ると俺より少し背が高いが、顔はまだ子どもで、頬にニキビの跡が一つある。
早瀬陸。十七歳だと、あとで聞いた。俺より五つ下。
全日本ジュニアの十八歳以下で今年の夏に優勝している。
来年の春には高校を中退してプロになるそうで、圭が協会のジュニアの仕事で見ていた選手だった。
早瀬は俺の顔を見て、それから目をそらした。
そらした先にボールかごがあって、今度はそれをじっと見ている。
挨拶だけは声が大きくて、それ以外はほとんど何も言わない。音量の配分がおかしい。
その日の午後はハードコートの一番端の面で打ち合った。
最初の一球はふつうに打った。早瀬のフォアハンドの側へ深く速く。
早瀬は走ってラケットを出したが、面に当たった球はフェンスの上を越えていった。
二球目はバックハンドの側へ。走ってネットにかけた。
三球目、四球目。一球も続かなかった。
全日本ジュニアの優勝者の球が、一球もこちらのコートに返ってこない。
後輩はボールかごの方へ走っていき、ボールを両手に抱えて戻ってきた。
息が上がっていた。それでも、かごまで行って戻る足だけは速かった。
「もう一球、お願いします」
声は大きくなかった。ふつうの声だった。
打った。またフェンスを越えた。早瀬はまたボールを拾いに走った。
手加減をしようか、と一瞬思った。少し遅い球を打ちやすい高さに。
そうすればラリーが続くし、早瀬にも打つ練習になる。
しなかった。練習の打ち合いでも、相手が自分よりずっと弱ければ入る経験点は少ない。
加減して打った球なら、もっと少ない。
三十歳まであと七年と七か月。
四人のうちまだ一人にしか勝っていないし、四大大会のタイトルは一つもない。
割に合わない球を一球でも打つ余裕はどこにもなかった。
悪いが、手加減はしない。
打った。速く深く。早瀬は届かずに、またボールかごへ走った。
「もう一球、お願いします」
その日だけで後輩は百二十球拾いに走った。
返ってきた球は、ゼロだった。
翌日は朝の打ち合いでも一球も返ってこなかった。昼になると、早瀬は本家へ挨拶に行った。圭に言われたらしい。
センターの土地は丹羽家のものだから、使わせてもらうなら会長に挨拶をしろ、と。
俺も昼の休憩のあいだに本家に寄った。祖母に頼まれていた用事があったのだ。
玄関を上がって廊下を歩いていくと、応接間の襖が少し開いていて、声が聞こえた。
「昭和二十六年だ。最初の現場はな」
祖父の声だった。
「柏の駅の南の、ほれ、今のバスのロータリーのあたりだ。あそこがまだ田んぼでな」
襖の隙間から中が見えた。
祖父が上座にあぐらをかいていて、その前に早瀬が正座している。
背筋をまっすぐに伸ばし、膝の上に両手を揃えて置いていた。
「……はい」
「わしはそのとき二十一でな。トラックが一台しかなかった」
「……はい」
「その荷台に砂利を積んで、一日に八往復だ。八往復」
「……はい」
後輩の返事は全部同じ高さだった。大きくも小さくもない。
応接間の時計は十二時四十分を指していた。
センターで早瀬と別れたのが十一時半で、本家までは塀沿いに回って十分。
つまり一時間が経っていて、祖父の話はまだ昭和二十六年だった。
「……それでな。そのうち朝鮮の戦争の特需ってのが来てな」
「……はい」
「仕事が山ほどあってな。わしはトラックを二台に増やした」
丹羽建設の社史は昭和二十六年から始まる。
今は平成十八年の十二月だから、五十五年分ある。
計算してから襖の前を通り過ぎた。
祖母の用事は台所で、その祖母はちょうどお茶を淹れているところだった。
「……あの子、いつからあそこに」
「十一時四十分から」
祖母は湯のみを盆に載せた。
「助けてあげないの」
「……練習の一つだと思います」
祖母は笑って、盆を持って応接間の方へ歩いていった。
早瀬がセンターに戻ってきたのは午後の二時だった。
足がしびれていたらしく、コートに入る前に三回転びかけた。
「……会長の話、長いですね」
ボールかごの前で早瀬がぼそりと言った。
「どこまで行った」
「昭和三十年です」
「あと、五十一年分ある」
早瀬は黙ってラケットを握り直した。それから、こちらを見ないまま言った。
「……九月の全米の準決勝、夜中に起きて見てました」
言い終わると、またボールかごの方へ目をそらした。最初の日と同じそらし方だった。
あの試合で俺は万能型から一セットだけ取って負けている。
「……もう一球、お願いします」
三日目の朝、センターの門の前に早瀬が立っていた。
朝の六時半だった。
門が開くのは七時で、早瀬は冬の朝の空気の中で白い息を吐きながらラケットバッグを肩にかけて立っていた。
俺は預かっている鍵で六時前に中に入り、もう壁の前で打っていた。フェンス越しに目が合った。
「……門、まだです」
「知ってる」
七時に管理の人が来て門を開けた。
その日の午前、百球目を越えたあたりだった。
俺のフォアハンドが早瀬のバックハンドの側へ深く速く飛んだ。
早瀬は走ってラケットを出し、当てた。
当たった球はネットの上を越えて、俺のコートのベースラインの一メートル手前に落ちた。
入っていた。
早瀬はラケットを持ったまま止まって、ネットの向こうから俺の顔を見ていた。
今度は目をそらさなかった。
「今の、入りましたよね」
「入った」
答えてから、付け足した。
「一球」
後輩はうなずいてボールかごの方へ走っていった。
走りながら何か小さく言っていた。挨拶のときの声ではなかった。
一球。三日で三百球と少し、そのうちの一球だ。
昔から何でも数える。経験点も、ランキングのポイントも、相手が返せなかった球の数も。
STATUSには早瀬の数字は映らない。
何に強くて何に弱いのか、どこまで伸びるのか。何も分からないまま、俺はこの後輩の一球を数えていた。
早瀬がボールを抱えて戻ってきた。息が整うより先に、もうラケットを構えていた。
「もう一球、お願いします」
打った。速く、深く。
手加減は、しなかった。




