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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
グランドスラム

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100/144

第100話 全豪

 二〇〇八年の一月、メルボルンの昼のコートの上は四十度を越える日があった。

 気温よりコートの上の方が十度近く熱くなるのだ。


 足の裏が熱かった。

 ハードの青い塗装が昼の日差しを吸い込んで、靴の底を焼いてくる。


 試合の合間のタオルは二ゲームで絞れるほど濡れた。


 ホテルの部屋の机の上に千夏の献立表が置いてあった。

 表紙には、全豪版、と書いてある。


 暑い日の試合の一日の塩分と水分の表だった。

 朝、何時に、何を、どれだけ。

 試合の前、試合中のチェンジコートごと、試合のあと。


 水は一度にたくさん飲まない。チェンジコートのたびに一回にコップ半分。

 塩は汗の量に合わせる。汗の量は試合の前と後の体重の差で測る。


 その体重計もホテルの部屋の隅に置いてある。

 千夏が日本から送ってきたもので、センターのベンチの前にあるあの白い四角い体重計と同じ型だった。


 試合の前に乗って試合のあとに乗って、差を表に書く。

 その差から次の試合の塩の量を表で読む。


 圭が横でその作業を見ていた。


「……千夏の、か」


「千夏の」


 圭は何も言わなかった。ただ、表の端に自分の体重を書き込んでいた。

 表の一番下に、コーチの欄、と千夏の字で書かれた小さな欄があったのだ。


 一回戦から準々決勝まで勝った。

 どの試合もほとんど覚えていない。覚えているのは足の裏の熱さと、コップ半分の水と、体重計の針くらいだ。

 試合より計量の記憶の方が多い。ボクサーにでもなった気分だった。


 準々決勝の前の日、ホテルのフロントで小包を受け取った。

 日本からで、差出人は千夏だった。


 小包の表に大きく赤い字で書いてあった。

 冷凍。至急。英語でも書いてある。


 FROZEN. URGENT.


 小包は少しだけ柔らかかった。


 部屋に持って帰って開けると、発泡スチロールの箱の中に保冷剤とアルミ箔で包んだものが十二個入っていた。


 冷凍のおにぎりだった。暑い日の試合のあとにすぐ食べられるように。

 去年の全米の夜の電話で千夏は送ると言っていた。


 保冷剤は全部水になっていた。アルミ箔の中のおにぎりも、全部溶けて形がなかった。


 米粒が水を吸って、アルミ箔の中で白く、とろりと広がっている。


 箱の蓋の裏に千夏の字の紙が貼ってあった。

 到着予定、発送から二日。保冷剤、七十二時間。一日分の余りまで書いてある。


 伝票の追跡を見ると箱は予定どおり二日でこのホテルに着いていた。

 着いてから二日、フロントの奥の荷物置き場に置かれていたのだ。部屋は圭の名前で取ってあって宛名の丹羽はこのホテルに泊まっていないことになっていた。


 夏のオーストラリアの荷物置き場の二日だ。


 圭が横から箱を覗き込んでしばらくアルミ箔の中の白いものを見ていた。


「一つだけ言う」


 それからアルミ箔を一つ指でつまみ上げた。中身がとろりと傾いた。


「……おかゆだ」


 おかゆだった。梅干しと鮭と昆布の、十二個のおかゆ。


 圭はホテルの部屋の電子レンジでおかゆを一つ温めて、スプーンで黙って全部食べた。


「……うまい」


 二つ目は言わなかったけれど、言ったのと同じだった。


 部屋を自分の名前で取ったことには、最後まで触れなかった。


 その夜、千夏に電話をした。


「届いた?」


「届いた」


「どうだった?」


「……おかゆだった」


 受話器の向こうで紙をめくる音がした。


「追跡、さっき見た。ホテルには二日で着いてた。……食べないで。全部、捨てて」


「……お父さんが、もう食べた」


 千夏がしばらく黙った。


「……お父さんに、明日の朝、お腹の具合を聞いて」


 それから、もう少し黙った。


「……来年は、ドライアイス。何日置かれても溶けないやつ。宛名も、お父さんの名前にする」


 表のコーチの欄に、たぶん一行増えた。


 決勝の相手は芝の王だった。

 去年のウィンブルドンの準々決勝でストレートで負けた男だ。ハードの上では初めてだった。


 決勝は夜だった。日が落ちてもコートの青い塗装は昼の熱をまだ持っていた。


 芝の王はハードの上でもネットに出てきた。

 サーブを打って、ネットへ。芝の上と同じ戦い方だった。


 最初のリターンを高く山なりに上げた。

 芝の王がネットへ詰めてくる途中で、ちょうど肩の高さに来るように。


 ボールは地面に落ちる前に芝の王の前に来た。

 芝の王は肩の高さのままボレーを打った。


 ネットにかかった。


 芝の上なら、この男の前に肩の高さの球はほとんど来ない。サーブが膝の下で滑るので、返す球は低くなる。

 テープの中で、この男がハードの大会で負けた三つの試合は、三つとも、このボレーがネットにかかっていた。


 次のポイントも芝の王はネットへ走ってきた。

 肩の高さのボレーが、またネットにかかった。


 二セットのあいだこの男はサーブを打つたびにネットへ走った。ネットにかけても次のポイントでまた走ってきた。

 山なりのリターンは十本に一本は低く短くなる。その一本が来るたびに、この男は腰の高さのボレーで決めていた。


 ベースラインに残れば、ハードの上でこちらの床の打ち合いに付き合うことになる。

 浅い一本を待つ方が、この男の勝ち筋だった。


 芝の上ではそれで五年勝ってきた男だった。やり方を変える理由が、この男の中にはまだなかった。


 走ってはネットにかけ、また走る。その往復が芝の王の脚に溜まっていった。


 こちらは表のとおり、コップ半分ずつ水を飲んだ。

 二セットを取ったとき、芝の王はベンチでタオルを顔に当てたまま、しばらく動かなかった。


 三セット目、芝の王はネットに出てこなくなった。

 ベースラインの上で打ち合いに来た。


 ハードの上のベースラインは、こちらの床だった。五対二まで一度もサーブを落とさなかった。


 最後のポイントで芝の王はもう一度だけネットへ走ってきた。

 肩の高さのボレーが、今度はネットを越えた。深い、いいボレーだった。

 追いついて、ネットの脇を抜いた。


 六対二。

 勝ったのに、目に残ったのはあの男の最後のボレーの方だった。


 握手のとき芝の王は俺の靴を見なかった。

 目を見ていた。


 表彰式で二つ目のカップを受け取った。

 全豪のカップには取っ手が二つあって、どちらを持てばいいのか一瞬迷った。


 カップを頭の上に持ち上げると夜の照明の下で銀色が光っていた。


 二つ。越えたのはハード特化と芝の王。

 四人のうち二人を四大大会の決勝で越えた。


 表彰台の横に圭が立っていた。腕を組んで、何も言わない。


 全米のときは下を向いて肩を揺らしていたが、今日は揺らしていなかった。

 ただ表彰台の上の俺を見て、それからスタンドの上の夜の空を見た。


 その夜隣の部屋から電子レンジの音がした。圭が二つ目のおかゆを温めていた。

 残りの十個もこの人は全部食べるつもりらしい。千夏には言わないでおこうと思った。


 机の上には、四年前から書き続けている表が広げたままになっていた。

 二十三歳の欄に、全豪優勝と書き込んだ。同じ欄の一行上には去年の全米優勝が書いてある。


 二つの丸。

 三十歳の欄までの残りの七列のどこかに、あと二つの丸をつけなければならない。


 STATUSのコート適性の欄を開いた。

 ハードはSのまままた少し上がっていた。クレーはBの七十台で、グラスはまだDだった。


 言われなくても分かっていることを、わざわざ数字で言ってくる。

 そういう表示だ。


 全仏と全英が残った。

 赤い土の上には赤土の魔人がいて、芝の上には、今日の男とは違う、芝の上の芝の王がいる。


 赤と、緑。

 三つの床のうち、低い方の二つだった。

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