第90話 八年
千夏を見送って空港から戻ると、貸しアパートの台所が広かった。
テーブルの上に千夏の布の袋がない。ノートもない。
棚の隅に市場の米の袋が一つだけ残っていた。三種類炊いて、選ばれなかった方の米だ。
一週間前の夜、このテーブルに千夏がケーキを一つ置いた。
七月の終わり、大会の合間の休みの日で、二十二歳の誕生日だった。
町のパン屋で買った、手のひらほどの小さなケーキだ。
ろうそくはなかった。この国のパン屋ではろうそくを売っていないらしい。
「おめでと」
千夏はそれだけ言うとノートに何か書いて、先に寝た。
次の朝も市場に行く。
市場は朝の六時に開いて、鮭のいいものは七時には売り切れる。
千夏はここに来てから毎朝六時に起きていた。
圭は隣の部屋でもう寝ていた。台所のテーブルで一人でケーキを食べた。
甘かった。
食べ終わってSTATUSを開いた。
基礎能力、ショット、球種、コート適性と、上から順に全部開いていく。
十八歳の誕生日にも同じことをした。
あのときは基礎能力の三つがBだった。
今度は、六つともがAに入っていた。いくつかはAの後半まで来ている。
コート適性はハードがSに手をかけていて、グラスだけが、まだDだった。
世界ランキングは十一位。プロになって三年と少しで、最下位から十一位まで来た。
一番下の欄まで下りていった。
■最終ミッション▽
達成条件
四大大会全制覇
達成期限
三十歳
二十二歳。三十歳まで八年。
四大大会のタイトルは、まだ一つもない。四人には何度も負けた。
ハード特化には、四大大会ではない大会で一度だけ勝った。
残りの三人には、まだ一度も勝っていない。
ケーキの皿を流しに運んで洗い、水切りのかごに立てた。
千夏のノートがテーブルの端に閉じたまま置いてあった。
開かなかった。
あの日のページのどこかに、小さく、ケーキ、と書いてあるはずだった。
二十二歳の誕生日のケーキは、千夏の研究の一行になる。
それは悪くない気がした。
STATUSを開いたまま、テーブルの上の携帯電話が震えた。
日本からのメールで、差出人は美咲だった。
美咲はこの春からプロになってアジアの下の大会を回っている。
プロになったばかりの俺と同じように、安宿と夜行バスと、受付の折りたたみの机の世界にいる。
メールを開いた。
おにいちゃん、おめでとう(泣き顔の絵文字)
二十二歳(泣き顔の絵文字)(泣き顔の絵文字)
美咲は今週、準決勝まで行きました(泣き顔の絵文字)
千夏ちゃんのごはんがないので、毎日パンです(泣き顔の絵文字)
でも元気です(泣き顔の絵文字)(泣き顔の絵文字)
泣き顔が七つあった。どれも同じ、涙が二粒、目の横に垂れているあの顔だ。
おめでとうにも、準決勝にも、元気ですにも、全部に泣き顔がついていた。
しばらく画面を見ていた。
毎日パンです、にだけはたぶん本当に泣いている。
返信を打った。
ありがとう。準決勝、おめでとう。
その顔は泣き顔だぞ。
送信すると、一分後に返信が来た。
知ってる(泣き顔の絵文字)
嬉しいときに使うやつでしょ(泣き顔の絵文字)
知っていて使っていた。
台所の窓の外で教会の塔の鐘が一つ鳴った。
午前零時を回って、二十二歳の最初の一日が終わっていた。
泣き顔は七つとも消さずに受信箱に残しておいた。
携帯電話を置いて基礎能力の欄の下まで戻った。
ずっと閉じたままの項目がある。
成長タイプ。
開いた。
■成長タイプ▽
通常(三十歳ピーク)
赤ん坊の頃、この欄で一度だけ選んだ。早熟、通常、晩成。
三つの中から一つを選べて、選んだらやり直しはできない。
赤ん坊の俺は通常を選んだ。期限と同じ場所にピークがある。
二十二歳の今から、あと八年伸びる。
伸び続けた先の一番高いところで、期限が来る。
伸びる時間と死ぬ期限が、同じ場所にある。
赤ん坊の頃はそれが一番いい選び方だと思った。
今もそう思う。
まだ上へ行ける。四人に届く。
四人を越える。そう思うと、テーブルの下で右の膝が小刻みに揺れ始めた。
焦りだった。間に合わないかもしれない、という焦り。
それから、焦りとは違うものも混ざっていた。
あの男と、もう一度やれる。期限までに、何度も。
全部が一段下だった自分が一段ずつ上がっていって、いつかあの男と同じ高さで打ち合う日が来る。
その日を見てみたかった。その日のすぐ先に、心臓の止まる日がある。
焦りと面白さと期限が、同じ場所に並んでいる。
成長タイプの欄は一行で済んでいるのに、こっちは一行に収まりそうになかった。
誕生日の翌朝、朝食のテーブルで圭が俺の顔を見た。
千夏は市場に出かけていて、テーブルの上には千夏が置いていったパンとチーズとゆで卵があった。
圭はパンにチーズを載せて黙って食べながら、ときどき俺の顔を見た。
食べ終わってコーヒーを一口飲んだ。
窓の外で教会の塔の鐘が鳴っていた。
「……数えるな」
この人は何を見てそう言ったのか。
前の晩の台所で、残りの年を頭の中で数えた。
千夏もいつか言っていた。数える顔をしていた、と。
「……数えてません」
「数えてた」
圭はコーヒーを置いた。
「公園の壁の前にいた頃から、ずっと数えてた」
この人が六歳の俺に、肘だ、と言った日から。
圭は立ち上がって自分の皿を流しに運び、そのまま隣の部屋に戻っていった。
テーブルの上のコーヒーは半分残っていた。
玄関のドアが開いて、千夏が帰ってきた。
布の袋の中に赤っぽい身の魚の包みが見える。
「鮭、あった」
千夏は嬉しそうに言った。
千夏はあと一週間で帰る。
数えるなと言われても、それは数えてしまう。
千夏は魚の包みを台所に置いてノートを開いた。
昨日の日付のページの、ケーキ、の横に、量と時刻を書き込んでいる。
それから右端の欄。次の日の脚。
「脚は?」
千夏が顔を上げずに聞いた。
「……軽い」
「そう」
千夏は顔を上げないまま、軽い、と書いた。
空港から戻ったその夜、夕食の支度をしようと棚から皿を出すと、手が三枚目まで伸びた。
後ろから圭の声がした。
「……二枚だ」




