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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
プロツアー・BIG4

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第91話 次は、分からない

 九月、全米オープンの準決勝で万能型と二度目に当たった。


 二年前の三回戦は、二番目に大きなスタジアムだった。

 今日はセンターコートだ。

 土曜の昼の試合で、傾き始めた日差しがコートの半分を白く照らし、残りの半分にはスタジアムの影が落ちていた。


 客席の二万人がその上にすり鉢の形に積み上がっている。


 俺は第十シードで、準々決勝までの五試合を、一セットしか落とさずに勝ち上がってきた。

 万能型は第一シードだった。


 あのときと同じ目をしていた。灰色がかった、静かな目。

 これから打ち合う相手の顔を、確かめているだけの目。


 一セット目、四対六。


 どこに打っても、先にいる。そこは変わらなかった。

 ただ、届く球が増えていた。


 前はラケットの先、ボール半分のところを抜けていった球が、今日はラケットの面に当たる。

 当たった球が万能型のコートに返って、返った球の落ちる場所に、万能型がもういる。


 それでも、一球多く打ち合えた。


 二セット目。


 五対五。万能型のサービスゲーム。


 三十対四十。


 ブレークポイントだった。


 万能型のサーブがセンターに来た。


 速かった。


 見えた。


 最初の対戦でも、この男のサーブは見えた。

 見えて、当たって、浅く返って、先にいられた。今日は見えた球を深く返した。


 ベースラインの五十センチ手前。


 万能型が下がりながらフォアハンドを打った。


 俺のバックハンドの側へ。


 読んでいた。


 いや、読んでいたのではない。この二年、この男の試合を何十回も見てきた。

 ホテルのテレビで、美咲が送ってくるテープで。


 この男がブレークポイントでどこへ打つかを、身体が覚えていた。


 バックハンドの側へ、先に動いていた。この男と同じことをしていた。

 打つ前に、動いていた。


 届いた。


 バックハンドで、ダウン・ザ・ラインに打つ構えからクロスの短いところへ。


 万能型の足はダウン・ザ・ラインの方へ半歩だけ出ていた。

 追いついて返した球がネットの上に浮いた。


 前に詰めて、ボレーで空いたコートに落とした。


 ブレーク。


 六対五。


 次のサービスゲームをキープした。


 七対五。


 セットを取った。


 ベンチに戻るとき、ネットの向こうの万能型の顔が見えた。

 前の対戦では一度も変わらなかった顔の、表情が変わっていた。


 ほんの少しだけ眉が動いていた。


 三セット目、三対六。


 四セット目、四対五。万能型のサービスゲームで、マッチポイントだった。


 負けそうだった。それは分かっていた。


 三セット目から、俺の足が早すぎるようになった。

 セットを取ったあとのベンチで、勝てるかもしれない、と一度だけ数えた。数えた分だけ、足が球より先に出た。


 俺が動いた逆へ、一拍遅らせて打ってくる。

 テープで覚えた二年分が、そのまま狙われる場所になっていた。

 二セット目を落としたあと、この男はベンチで一度だけ目を閉じた。出てきてからは、球ではなく俺の足を見て打つようになっていた。


 届く球がまた届かなくなっていた。


 四十対三十。


 マッチポイント。


 万能型のサーブがワイドに来た。


 届いた。


 返した。


 ラリーになった。


 十本。十五本。二十本。


 二十三本目で万能型がボールの下にラケットを入れた。


 ドロップショット。


 二年前と、同じ球だった。

 あのときは三十四本走ったあとで、足のあと一歩が出なかった。


 今日は出た。


 走った。


 届いた。


 ネットの前でボールをすくい上げた。

 すくい上げた球が、万能型の頭の上を越えていく。


 ロブ。


 万能型が背を向けて走った。


 ベースラインの手前で振り向きざまに打った。


 背中越しのショット。


 ボールが俺の横を抜けていった。


 終わった。


 四対六、七対五、三対六、四対六。


 負けた。


 ネットの前で握手をすると、万能型が俺の目を見た。

 あのときとは違う。静かな目ではなかった。俺の顔を、額から顎まで順に見ていた。


 これから打ち合う相手の顔ではなく、今打ち合った相手の顔を。


 万能型は握手の手を二回振って、離す前に一言だけ言った。


「Niwa」


 俺の名前だった。場内のアナウンスが二週間ニーワと伸ばしていた名前を、この男は伸ばさずに言った。


 ロッカールームに向かう通路でテレビのインタビューのマイクを向けられた。


「Can you beat him next time?」


 次は勝てますか。


 答えを探した。最初に負けたあとなら、答えは一つだった。

 勝てない。全部が一段下だから。


 今日は。


「I don't know」


 分からない。


 ロッカールームの前の廊下に、圭が立っていた。


 二年前と、同じ場所だった。

 壁にもたれて腕を組み、俺が歩いてくるのを見ている。

 あのとき、この人は一つも言わなかった。


 肩に手を置いてすぐに離し、廊下の先を歩いていった。


 今日も何も言わなかった。


 ただ、顔が違った。圭の口の端が少し上がって、目の端に皺が寄っていた。


 笑っていた。


 九年と半年この人のそばにいて、初めて見る顔だった。

 この人はときどき、声を出さずに下を向いて肩だけで笑う。


 けれど、前を向いたまま顔で笑っているのは初めてだった。


 圭の前を通り過ぎようとしても、圭は手を出さなかった。

 肩に手を置かずに、通り過ぎる俺の横顔を笑ったまま見ていた。


 ロッカールームのドアを開ける前に振り返った。

 圭はもう廊下の先を歩いていて、その背中は、いつもより軽そうに見えた。


 百十八位の手前でも、奥でも、ボールは同じだ。

 この人はそう言った。


 ボールは同じだった。ただ、そのボールを打ち合う相手が変わった。


 帰国便の機内で、圭が機内食のトレイを前に腕を組んでいた。


 エコノミークラスの、窓際と通路側の二つの席だった。

 トレイの上にアルミの蓋のついた容器が並んでいる。


 蓋を開けると、白いご飯と照り焼きの鶏肉と煮物。

 日本の航空会社の和食のメニューだった。


 圭はご飯を一口、鶏肉を一口、煮物を一口食べて箸を置いた。


「……一つだけ言う」


 通路の向こうの乗客が、ちらりとこちらを見た。


「……千夏のの方が、うまい」


 圭はそれだけ言ってまた箸を取った。そして、全部食べた。

 文句を言いながら、全部。


「……米は、硬くない」


 食べ終わってから、それだけ付け足した。


 窓の外は雲の上だった。


 三年半、この人と世界中の食べ物を食べてきた。

 とろとろの米、紫の芋、硬い米、三倍の厚さのステーキ。


 そのどれと比べても、この人の答えは千夏の方だった。

 本人の前では、黙って二杯目を食べるだけなのに。


 機内のアナウンスが、成田への到着まであと九時間だと告げていた。


 九時間後、柏に帰って千夏に電話をする。

 脚は、と聞かれて、軽い、と答える。負けたのに、軽い。

 千夏はそれを七月のノートの続きに書くはずだ。


 最初の一冠はどこで取るのか。窓の外の雲を見ながら、それを考えた。


 次は、分からない。


 分からないということが、少し楽しみだった。

 三十歳の期限まで、もう八年もないのに。

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