第89話 一か月
七月、欧州の小さな町で千夏が台所に立っていた。
大会の会場から歩いて十分の貸しアパートだった。
石造りの三階建ての二階で、部屋が二つと小さな台所。
窓の外に教会の塔が見える。
全英が終わった翌週から、千夏は夏休みを使って一か月ツアーに帯同していた。
大学の研究としてだ。前期の試験は先生に頼んでレポートに替えてもらったという。
スポーツ栄養の先生が書類を書いてくれて、一人の選手の試合期間中の食事と試合の結果、次の日の脚の感覚を現地で記録する。
卒業研究の一番大事な一か月だった。
市場から戻ってきた千夏は布の袋を二つ提げていた。
台所のテーブルの上に中身を並べていく。
野菜、卵、パン、チーズ。それから、紙に包まれた赤っぽい身の魚。
「ここの市場、鮭がある」
千夏は紙を開いて嬉しそうに言った。
三年前、東南アジアの市場には鮭がなかった。
千夏は受話器の向こうで、それを白い身の魚と紫の芋に言い換えた。
今度は、鮭のある市場に千夏が自分で立っている。
その夜、千夏は鮭を焼いて塩むすびを握った。
この国の米は柏の米より粒が長い。
千夏は市場の米を三種類買ってきて三種類とも炊き、一番粘りのあるものを選んだ。
塩むすびは柏の味に近かった。三種類炊いた甲斐はあったようだ。
翌日の試合は勝った。その次の日も勝った。
三セット目に入っても太腿が張ってこない。去年までなら、脚が重くなり始めていた時間だった。
最初の二週間で大会を二つ回って、二つとも優勝した。
千夏のノートには、毎日数字が並んでいった。
朝食の時間、試合の開始時刻、補食の時刻と中身、試合のあとの食事、寝た時間。
そして、次の日の脚。
軽い。軽い。軽い。普通。軽い。
ツアーを回り始めてから三年間、こんなに「軽い」が続いたことはなかった。
食事で結果が変わる。
千夏はずっとそれを言っていたが、今は受話器の向こうからではなく、同じ台所の中から、それを見せていた。
二つ目の大会の決勝が済んだ夜、夕食のあとで千夏が散歩に行こうと言った。
圭はアパートでテレビを見ていたので、二人で町を歩いた。
石畳の道だった。
夏の欧州の夜は、九時を過ぎてもまだ明るく、空の端だけが少しずつ紺色になっていく。
教会の塔の上では、鳥が何羽か輪を描いて飛んでいた。
広場の噴水の横を通り過ぎると、カフェの外の席で町の人たちがグラスを傾けていた。
千夏はゆっくり歩き、俺もゆっくり歩いた。
気がつくと、千夏の歩幅と俺の歩幅が同じになっていた。
五歳の公園では俺の後ろを歩いていて、小学生の頃は俺を追いかけていた千夏が、今は隣を歩いている。
噴水の音が後ろに遠ざかって、細い路地に入った。
両側の石の壁に窓の明かりがぽつぽつと灯っている。
その路地の途中で千夏が立ち止まった。
「たくま」
千夏がこちらを向いた。路地の明かりが千夏の顔の半分を照らしていた。
何を言おうとしているのかは分かった。
この顔を一番長く見てきたのは俺だ。分かっていて、言えなかった。
三十歳まであと八年。八年で四つ取れなければ、心臓が止まる。
三十歳の先を約束できない男が、この人に何かを言うわけにはいかなかった。
一歩下がった。石畳の上で靴が小さく鳴った。
「……帰ろう」
それだけ言った。
千夏はしばらく俺の顔を見ていたが、何も言わなかった。
それから、うなずいた。
「……うん」
千夏は先に歩き出した。
帰り道、千夏の歩幅はさっきより少し速くて、俺はその半歩後ろを歩いた。
散歩の夜から三日たっても、千夏の様子は何も変わらなかった。
朝は市場に行き、昼はノートを書き、夜は台所に立つ。その夜もアパートの食卓に三人分の皿が並んでいた。
鮭の焼いたものと、野菜のスープと、塩むすび。
この国の市場で買ったもので柏の食卓に近いものを作る。千夏はこの一か月、毎日それを試していた。
圭は黙って食べていた。スープを一口、鮭を一口、塩むすびを一口。
食べ終わると、空になった皿を千夏の方に少し押した。
「……もう一杯」
スープの皿だった。千夏は黙ってスープをよそい、圭は二杯目も黙って食べた。
食べ終わってまた皿を押した。
「……もう一杯」
千夏の手が止まった。
「お父さん、それ、たくまの」
鍋の中のスープはあと一杯分だった。明日の朝、俺が飲むはずの分だ。
千夏のノートでは、試合の日の朝のスープは、決まった量が決まった時間に入ることになっている。
圭は鍋を見て、千夏を見て、俺を見た。それから皿を自分の方に引き戻した。
「……そうか」
それだけだった。
圭はこの一か月、千夏の料理を毎食二杯ずつ食べていた。
千夏がこの台所に立ってから、圭の皿だけいつも先に空になる。
けれどこの一か月、圭は千夏に、父親らしいことを一つも言わなかった。
大学はどうだとも、研究は進んでいるかとも、体に気をつけろとも。
ただ、二杯ずつ食べていた。
千夏は父親の空の皿を黙って流しに運んだ。
流しの前で背中を向けたまま言った。
「……明日、もうちょっと多めに作る」
圭は返事をしなかった。湯のみのお茶をゆっくり飲んでいた。
八月の初め、千夏が帰国する日が来た。
空港まで見送りに行った。
千夏のスーツケースは来たときより一つ重くなっていた。
市場で買ったこの国の調味料と乾物と米の袋。
大学の研究室に持って帰るのだという。
搭乗口の前で、千夏はノートを出した。
この一か月のノートで、表紙に日付が書いてある。
一か月で一冊。柏で使っていたノートは、一冊を埋めるのに何か月もかかった。
「見る?」
千夏がノートを差し出した。
初めてだった。
中三の秋から七年、千夏は一度もノートの中身を見せなかった。
受け取って開いた。千夏の小さな字がびっしり並んでいた。
日付、時刻、食べたもの、量。試合の開始時刻と終了時刻、スコア。
そして、右端の欄に次の日の脚。
軽い。軽い。軽い。普通。軽い。軽い。
一か月分。
そのページの一番下に、小さな字で一行だけ書き添えてあった。
七月二十三日。夜の散歩。
ほかには何もない。その翌日の、右端の脚の欄だけが空白だった。
ノートを閉じて千夏に返した。千夏はノートを受け取って鞄にしまった。
搭乗口のアナウンスが千夏の便の名前を呼んだ。
千夏はスーツケースの取っ手を握って歩き出し、振り返らずに、いつもの声で言った。
「続きは、電話で」
「軽いか、重いか」
「うん。それだけでいいから」




