第88話 美咲の出発
三月の初め、柏に一週間だけ帰った。美咲の高校の卒業式の週だった。
もっとも、卒業式には出られなかった。
帰国したのは式の三日後で、兄としての出席率は、たぶんあまりよくない。
二月に初めて四人のうちの一人に勝ってから、ランキングは二十位台まで上がっていた。
アメリカの大きな大会が二つ続く前に、一週間だけ空きができた。
センターに行くと、美咲が屋根のある練習場で打っていた。
相手は千夏だった。大学三年生の千夏は春休みに入っている。
競技を降りてからも千夏はスクールで打ち続けていて、美咲の練習相手は今でも千夏の役目だった。
俺が入っていくと、美咲がラケットを下ろした。
「おにいちゃん」
「卒業、おめでとう」
「ありがと」
美咲はタオルで顔を拭いて、なんでもないことのように言った。
「プロになる。もう決めた」
練習場の中が少し静かになった。
千夏はボールかごの横で黙って立っている。
「いつ」
「四月から。事務所とはもう話してあって、最初はアジアの下の大会を回るの」
俺が通ったのと同じ道だった。
「父さんと母さんは」
「話したよ。そしたらお父さんが、事業計画書を書けって」
「……書いたのか」
「書いた! 二十一枚」
俺の十四枚より七枚多かった。
「お父さん、赤ペンで全部直してくれたよ。利息のとこなんか真っ赤!」
丹羽家の男は計算が甘い人間を放っておけない。
二十一枚書いても、放っておいてはもらえなかったらしい。
「俺には、相談しなかったんだな」
言ってから、拗ねた声になっていることに気づいた。
美咲はにっこり笑った。
「おにいちゃんに聞いたら、同じこと言うでしょ」
「同じこと?」
「お前が決めることだ、って」
美咲はラケットを肩に担いだ。
「だから聞かなかったの。聞いても聞かなくても同じなら、自分で決めた方が早いでしょ!」
反論が見つからなかった。
からあげの夜に、美咲は「美咲も、なる」と言った。
あのとき俺は口を挟まなかった。美咲が自分で決めることだと思ったからだ。
美咲はそれを覚えていて、今日、一人で決めた。
理屈は分かる。分かるのに、少しだけ面白くなかった。
「おにいちゃん、打とう!」
美咲がボールかごからボールを二つ取ると、千夏は何も言わずにベンチに下がった。
打ち合った。美咲の球は去年の冬に打ったときよりずっと重くなっていた。
女子のジュニアの世界ランキングで一桁まで上がった球だ。
四大大会のジュニアの部にも何度か出ていて、去年の全豪のジュニアではベスト4まで行った。
知っている球だった。土台にあるのは俺が教えた打ち方だ。
小一の春から四年間、美咲は俺の言うとおりに打っていた。
その土台の上に千夏の「どうする?」が積まれて美咲の球になった。
聞かなかったの、と言った声が、打ちながらまだ耳に残っていた。
十本、二十本と打ち合ったところで、美咲がベースラインの少し後ろに下がった。
「見てて」
俺の球が美咲のフォアハンドの側に行った。
美咲はラケットを大きく引いた。
ロブだ、と思った。
大きく引いて面を上に向ける。
高く深く、俺の頭の上を越えていく球を打つときの構えだ。
ロブなら前に詰めて、落ちてくる球を上から叩けばいい。
ネットの方へ一歩詰めかけた。
美咲のラケットが振られた。
球は上に行かなかった。
低く、速く、ネットの白帯のすぐ上を越えて、詰めかけた一歩のちょうど足元に沈んだ。
拾えなかった。ボールが俺の横を抜けてフェンスに当たった。
「今の、何」
「内緒」
美咲はラケットを下ろしてにこにこしていた。
ロブの構えから低いパス。構えは同じで、面の向きも途中まで同じだった。
最後の一瞬だけ手首が返っていた。その一瞬が見えなかった。
知らない打ち方だった。
俺はこんな打ち方を教えていない。
「誰に教わった」
「誰にも」
美咲はボールかごから次のボールを取った。
「去年の秋に南米で負けた相手がやってたの。悔しかったから、帰りの飛行機でずっと手首の角度を考えてた」
美咲はボールを一度ついた。
「おにいちゃん、これ知らないでしょ」
「知らない」
「よかった!」
美咲はボールかごを足で寄せて、さっきと同じ、ベースラインの少し後ろに下がった。
練習のあと、センターのベンチで千夏と並んで座った。
美咲は屋根のある練習場で、まだ一人でサーブを打っている。
千夏は膝の上にノートを置いていた。いつものノートとは表紙の色が違う。
「それ」
「美咲ちゃんの」
千夏は前を向いたまま言った。
「美咲ちゃんの分も作る。プロになったら、ずっと遠征になる。たくまと同じ。献立表がいる」
「大学は」
「四月から四年生。卒業研究が始まる」
千夏はノートの角を指でなぞった。
「たくまのノートが研究の方。美咲ちゃんのは仕事の方」
「仕事」
「うん。先生に相談したら、女子選手の栄養は男子と違うから、並べて記録すると面白いって。おじさんとおばさんにも話した。おばさんが、それなら仕事として頼みたいって」
「……父さんが、何か書けって言っただろ」
「計画書。三枚」
「少ないな」
「栄養士の見習いには三枚で十分だって。おじさんが」
美咲の二十一枚と比べると、父は千夏には甘いらしかった。
屋根のある練習場から美咲のサーブの音が聞こえてくる。
一定の間隔で、ばん、ばん、ばん。千夏はその音を聞いていた。
「さっきの。たくまの知らない打ち方」
「……見てたか」
「見てた。あれ、あたしも知らなかった」
千夏は笑った。
「美咲ちゃん、あたしにも内緒にしてた。二人とも知らないって分かって、すごく嬉しそうだった」
「どこまで行くんだろうね、美咲ちゃん」
千夏が言った。答えられなかった。
屋根の下のサーブの音は、まだ同じ間隔で続いていた。
四月の初め、成田空港の出発ロビーに丹羽家が揃った。
今度は美咲の出発だった。
俺も同じ日の別の便で出ることになっていて、美咲はアジアへ、俺はアメリカへ行く。
出発ロビーの真ん中で祖父が細長い包みをほどいていた。
祖母が横に立っている。見覚えのある光景だった。
嫌な予感というのは、だいたい当たる。
祖父が包みの中から取り出したのは、白い布だった。
旗だ。あのときの「丹羽建設」の旗より一回り小さい。
祖父は竿を立てて旗を広げた。
大きな黒い字で、美咲、と書いてあった。
それだけだった。
「今度は、会社の名前は入れてねえ」
祖父は胸を張った。
祖母は旗を見上げただけだった。
それから旗の端に手をやって、しわの寄っていたところを伸ばした。
美咲は旗の下で顔を真っ赤にしていた。
「おじいちゃん、恥ずかしい」
「恥ずかしくねえ」
「恥ずかしいよ! 名前だけって、選挙みたい!」
後ろで母が吹き出した。
母の実家は議員の家で、選挙のたびに、名前だけの旗が町中に立つ家だった。
「……お母さんの家のやつみたい」
美咲が振り返ると、母は口を押さえて肩を震わせていた。
空港の警備員が三年前と同じように、少し離れたところからこちらを見ていた。
祖母が三年前と同じように小さく頭を下げ、警備員は三年前と同じように、見なかったことにした。
同じ人だったのかもしれない。
祖父は旗を下ろさなかった。
出発ロビーの天井の方へ、美咲の名前が高く掲げられている。
恥ずかしいと言いながら、美咲は搭乗の案内が流れるまで、旗の下から一歩も出なかった。
案内が流れると、美咲は旗を見上げた。
「おじいちゃん、優勝したら、次はもっと大きいのにしてね!」
「会社の名前も入れるか」
「入れません」
答えたのは祖母だった。




