第87話 ハードの壁
ラケットが弾かれた。
テレビの画面の中で、だった。
ホテルの部屋で、深夜のスポーツ専門局が昼の試合を最初のポイントから流していた。
昼に負けた試合だった。
画面の手前でサーブを打っているのはこの国の選手だった。
第三シード。ハードの上で世界で一番速いサーブを打つ男で、速い球をさらに速く打ち返してくる。
四人のうちの四人目。俺は頭の中で、その男をハード特化と呼んでいた。
ポイントの間が誰よりも短い。ボールを受け取ると二回つくだけでトスを上げる。
サーブを打つと必ずスコアボードの横の速度の表示を見上げて、数字を確かめてから次の位置へ歩いていく。
九月の全米オープンの四回戦だった。
ランキングは三十位台まで上がっていたが、シードがつくのは三十二位までで、三十三位の俺には一つ足りなかった。
シードのない線を三回戦まで勝ち上がり、四大大会で初めて四回戦に進んだ。その先に第三シードがいた。
画面の中の俺は、一セット目の最初のリターンからずっと、ラケットを弾かれていた。
速さだけなら万能型より速い。俺の一番高い適性の床であるハードの上で、この男はさらに上にいた。
一セット目、四対六。
二セット目、画面の中の俺はリターンの位置を二歩下げた。
下がれば速いサーブにも面が間に合う。間に合った球を深く返す。
ラリーになれば打ち合えた。ラリーの中で何本か、ハード特化のフォアハンドがネットにかかった。
コートの上では理由が分からなかったし、画面で見直してもたまたまにしか見えなかった。
タイブレークは七対六。
最後の十一本目で逆を突いたとき、画面の中の俺は拳を握るより先に笑っていた。
ベッドの上の俺は笑えなかった。笑ったあの一本のあとで、二セットを続けて落としている。
あの一本は面白かった。面白かったまま負けて、全米はまた一年先になった。期限までの全米は、あと八回しかない。
三セット目、ハード特化はサーブのあと、もう一歩前に詰めてきた。
二歩下がった俺の返球が、ネットの前で叩かれる。三対六。
四セット目の途中から腕が重くなった。
速い球を受け続けた腕は、三時間目に入ると、面が少しずつ遅れる。遅れた分だけ球が浅くなる。
浅い球は全部叩かれた。四対六。
三時間五分。放送はそこで終わって、画面がコマーシャルに変わった。
ハードでも、まだ届かない。
一年前、同じ大会で万能型に全部が一段下だと知った。
五月は赤い土の上で三時間で足が止まり、六月は芝の上で止まる前に届かなかった。
そして今日、ハードの上で速さに負けた。
四人に、四回負けた。三つの床で四つの負け方をした。
壁の向こうで、圭の部屋のテレビも同じコマーシャルを流していた。
秋、別の国のホテルの部屋で、圭がビデオデッキにテープを入れた。
全米の四回戦の録画だった。あの夜、ホテルのテレビで一度見た試合だ。
日本のテレビ局が放送したものを美咲が録画して、郵便で送ってきたのだ。
テープのラベルには、美咲の字で「おにいちゃん、負けたやつ」と書いてある。
圭はリモコンを持ってテレビの前に座り、一セット目の最初のポイントから再生した。
ハード特化のサーブ。俺のリターン。弾かれるラケット。
圭は黙って見ていた。
一時間。二時間。
三セット目の途中で圭が停止ボタンを押した。
止まった画面は、ハード特化がフォアハンドを打とうとしている瞬間で、ボールはハード特化の肩の高さにあった。
圭は巻き戻して、また再生して、また止めた。
同じようにボールは肩の高さにある。圭はそれを四回繰り返した。
四回とも、ボールは肩の高さにあって、四回とも、ハード特化のフォアハンドはネットにかかるか、ラインを越えていた。
圭が画面を指さした。
指の先は止まった画面の中のボールの高さにあった。
「……ここだ」
肩の高さ。高く弾む球。
ハード特化は速い球を速く打ち返す。
低い球、腰の高さの球なら世界で一番速い。
けれど、肩より高く弾む球は速く打ち返せない。
打点が高すぎてラケットを振り切れず、振り切れないまま速く打とうとするから、ネットにかかる。
ラインを越える。
三時間を越える試合の中で、ハード特化がミスをしたのは、ほとんどがこの高さだった。
赤土の魔人のことを思い出した。
あの男は高く弾む球をさらに高く弾ませる。
赤い土の上のあの高い球を、ハードの上で打てば。
特化型には弱点がある。
一つだけ突き抜けている男には、突き抜けていない場所がある。
その場所を突けばいい。
万能型には、それがない。けれど、三人にはある。
圭はテレビを消してテープを取り出し、ラベルを見た。
おにいちゃん、負けたやつ。その上にボールペンで一行書き足す。
「ここ」
それからテープをケースに戻して俺に渡した。
年が明けた二〇〇六年の二月、アメリカの室内のハードコートの大会で、ハード特化と当たった。
四大大会ではない、ツアーの大会の準決勝だった。三セットマッチだ。
秋の終わりから冬のあいだは、センターの屋根のある練習場でずっと同じ球を打っていた。
高く弾む球だ。ハードの上で赤い土の上のような球を打つ。
強い上回転をかけてネットの高いところを越えさせ、相手のベースラインの手前で、肩の高さまで跳ね上げる。
柏のクレーで苦しんできた赤い土の球の打ち方を、身体が覚えていた。
一セット目。
ハード特化の世界で一番速いサーブが来た。
返した。
高く。
ベースラインの手前でボールが跳ね上がった。
肩の高さ。
ハード特化がフォアハンドを振った。
振り切れなかった。
ボールはネットの下の方に当たって、ハード特化の足元へ転がって戻った。
同じ球を打ち続けた。高く。高く。高く。
ハード特化は下がって打とうとした。
下がれば、肩の高さの球が腰の高さまで落ちてくる。
落ちてくるまで待てば、世界で一番速いフォアハンドで打ち返せる。
けれど、下がった分だけ角度が開いた。
開いた角度に低く速い球を打ち込んだ。
下がったハード特化の届かない場所へ。
高い球で下げて低い球で抜く。
六対四。
二セット目、ハード特化は下がらなくなった。
逆に、前に出てきた。
ベースラインの内側に立ち、跳ね上がる前の球を肩の高さに届く前に叩く。
跳ね際を打たれると、高い球はただの遅い球になる。
遅い球は世界で一番速いフォアハンドの好物だった。
四対六。
ベンチでタオルをかぶって去年の秋のテープを思い出した。
圭が止めた画面の中のハード特化は、いつもベースラインの後ろにいた。
前に出てきた男は、テープの中にはいない。
タオルの下で口の端が上がっていた。ここから先は、テープも冬の練習も教えてくれない。
攻略が効いていた一セット目より、攻略の崩れた今の方が面白い。期限に要るのは効く攻略の方なのに。
なら、その足元はどうか。
三セット目、同じ高い球をもう一メートル深く打った。
ベースラインの上に落ちる球は、跳ね際を叩こうとすると、足元で跳ねる。
ハード特化は前に出たまま足元の球を何度もすくい上げた。
すくい上げた球は浅く、ゆっくり返ってくる。今度は、俺の好物だった。
五ゲーム目でハード特化は前に出るのをやめた。
サーブのあとで速度の表示を見上げることも、その頃からしなくなっていた。
最後のポイントも肩の高さの球から始まった。
振り切れなかったフォアハンドが浅く浮いた。
浮いた球を開いた角度へ低く速く叩いた。
六対三。
ネットの前で握手をした。手が少しだけ強かった。
ハード特化は手を離すとポイントの間と同じ速さでベンチへ歩いていった。
四人のうちの一人に、初めて勝った。
今日の経験点は、秋の全米で負けたときより少なかった。今日は、俺の方が少し上にいた。
ただ、室内の三セットで一度取っただけだ。四大大会の五セットで、三時間を越えたあとにこの球がまだ肩まで跳ねるのかは分からない。
その夜、ホテルのレストランで圭と夕食を食べた。
圭はステーキを頼んだ。
この国のステーキは、日本のステーキの三倍の厚さがある。
圭はそれを黙って少しずつ切って食べていた。
食べ終わるとナイフとフォークを揃えて置いて、俺の方を見た。
「一つだけ言う」
レストランの窓際の席だった。窓の外に雪が降っていた。
「……よくやった」
この人がそう言ったのは初めてだった。
八年と十か月コーチをしてきて、初めて。
顔が少し熱くなった。
圭はまだこちらを見ていた。口がもう一度開いた。
「それと――」
止まった。
圭は口を開けたまま、しばらく止まって、テーブルの上の揃えたナイフとフォークを見て、窓の外の雪を見て、また俺の方を見た。
「……よくやった」
圭はウェイターを呼んでコーヒーを頼んだ。
コーヒーが来るまでのあいだ、二人とも窓の外を見ていた。
特化型は、弱点を突けば崩せる。
赤土の魔人にも芝の王にも、どこかにハード特化の肩の高さのような場所があるはずだ。
それを見つければいい。
けれど、万能型には。全部が揃っている男にも、同じ方法が効くのか。
コーヒーが来た。圭は砂糖を一つ入れて、少し間を置いてから、二つ目を入れた。




