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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
プロツアー・BIG4

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86/145

第86話 芝の王

 六月の終わり、ウィンブルドンのセンターコートに立った。


 三年前はあそこに座っていた。コートの上から客席の上の方を見上げる。

 当日券の列に朝の四時から並んで取った席で、寝袋は圭がどこからか二つ借りてきた。


 十七歳の俺は、あの席からこの緑の四角を見下ろして、手のひらに載りそうだと思った。


 下から見上げると、客席は空まで続いているように見えた。


 三回戦だった。全仏のあとでランキングは四十位台に上がった。

 全英ではシードはつかず、一回戦と二回戦を勝って、三回戦でセンターコートに入れられた。


 相手がこの大会の前の年の優勝者だったからだ。


 芝の王、と新聞は呼んでいた。

 この芝の上で二年続けて勝っている男。四人のうち、俺が二人目に見つけた男だった。

 去年の夏、ホテルのテレビでこの男の二度目の優勝を見て、ようやく四人の一人だと分かった。この男の全部は、芝の上でしか見えないらしい。


 芝の王は白いウェアの袖を肘までまくって客席に手を上げた。

 拍手が上から降ってきた。


 全米の歓声とは音が違った。叫ぶのではなく、手を打つ。

 大きく、長く、揃って。

 この芝の上で勝った男を、この国の人たちはこういう音で迎えるらしい。


 ベースラインに立つと足元の芝は刈ったばかりの縞模様だった。


 低くいろ。この国の小さなクラブで聞いた、圭の一つだけ。


 膝を曲げた。


【美咲】


 おにいちゃんの試合は、柏では夜の十一時を回ってから始まった。


 本家の茶の間に丹羽家が全員揃っていた。

 おじいちゃんがテレビの真ん前に座布団を置き、その後ろにお父さんとお母さんとおばあちゃん。

 美咲は畳に寝そべって肘をついていた。


 センターコートだった。

 高三の夏、おにいちゃんはあそこの一番上の席にいた。絵葉書が来たから知っている。

 今日は緑の四角の真ん中にいる。


「琢真だ」


 おじいちゃんが言った。見れば分かる。


 最初のサーブで分かった。

 芝の王のサーブは跳ねなかった。


 美咲は芝の上で試合をしたことがない。

 それでも、画面の中のボールが跳ねていないのは分かった。おにいちゃんの足首の高さを白い線みたいに滑っていく。


 おにいちゃんはラケットを地面すれすれまで下げて当てた。

 当たった球がふわっと浮いた。


 芝の王はサーブを打った足のまま、もうネットの前まで走り込んでいた。

 浮いた球を膝の高さで迎えると、そのボレーが芝の上を転がって、跳ねもしないで止まった。


「なんで返さねえ」


 おじいちゃんがテレビに言った。


「返してるよ。浮いちゃうの」


「浮かすな」


「浮かしたくて浮かしてるんじゃないの。あれ、足首だよ。美咲だったら当たってない」


 おじいちゃんは黙った。

 次のポイントも、その次も同じだった。足首のサーブ、浮くリターン、ネットの前の芝の王、転がるボレー。


 一セット目は三対六だった。


 コートチェンジのあいだに、お父さんが湯のみを持ったまま言った。


「あいつが赤ん坊のときも、こうやってこの芝の決勝を見たんだ」


「おにいちゃんが?」


「夜中に起きてきてな。俺の膝の上で、ずっと画面を見てた。最後に母さんに見つかったら、あいつ、寝たふりしやがった」


 お母さんがお茶を注ぎ足しながら言った。


「寝たふりでしたよ、あれ」


 お父さんの湯のみが口の手前で止まった。


「……気づいてたのか」


「赤ちゃんは、あんなにきれいに寝つきません」


 おにいちゃんは赤ちゃんのときからおにいちゃんだったらしい。


 二セット目、おにいちゃんが一歩前に出た。


「前に出た」


 言ったのは美咲だった。誰も気づいていなかった。

 リターンの位置がベースラインの内側になっている。


 跳ねてから滑ってくる前の、跳ねた直後を叩くつもりだ。

 タイミングがふつうの半分しかない。美咲がやれと言われたら、たぶんできない。


 叩いた球が低いままネットに詰めた芝の王の足元に沈んだ。


「よし!」


 おじいちゃんが膝を叩いた。


 芝の王は膝が芝につくくらい低くなって、足元の球をラケットですくった。

 すくった球がネットの白帯をかすめて、おにいちゃんの側にぽとりと落ちた。


「……白帯か」


 お父さんが言った。運が悪い、と言いたそうな声だった。


 違う、と美咲は思った。


 二度目も同じだった。足元に沈めて、すくわれる。

 今度は白帯にもかからずに、おにいちゃんの横をきれいに抜けていった。


 スローの映像が流れた。

 ボールが当たる瞬間に芝の王の手首がほんの少しだけ返っている。一度目と二度目で、返す角度が同じだった。


 運ではなかった。あの手首は、芝の上でボールを置くためにできている。


 あの手首、ほしい。

 テレビの前でこんなに強くそう思ったのは初めてだった。


 二セット目は四対六だった。


 三セット目の途中で、おにいちゃんの足が滑った。


 横に走って止まろうとした右足が、白いラインの上ですうっと流れた。

 おにいちゃんの身体がボールと反対の方へ傾いた。


 お母さんが小さく声を上げた。


 また、スローの映像が流れた。

 ベースラインの後ろだけ芝がすり切れて、土の色が見えている。乾いた芝の上を靴の底が横へ流れていく。


 流れた先に、ボールはなかった。


 おにいちゃんはすぐに立って、靴の裏を見て、ラケットで二回叩いた。

 顔はいつもの顔だった。おにいちゃんは負けていても顔が変わらない。それが一番、見ていて苦しい。


 おばあちゃんは湯のみを両手で持ったまま、飲むのを忘れていた。


 次のゲームで、おにいちゃんの打った球がサイドラインの際に落ちた。

 テレビの向こうで、短く「アウト」と叫ぶ声がした。


「入ってるじゃねえか! 審判の野郎、どこに目ぇつけてやがる」


 おじいちゃんがテレビに向かって身を乗り出した。

 スローの映像では、線の外に緑が少し見えた。おじいちゃんは黙って座布団に戻った。


 四対五。芝の王のサービスで、四十対三十。

 マッチポイント、と画面の隅に出た。


 足首の高さのサーブ。

 おにいちゃんは前に出て、跳ねた直後を叩いた。低い球が詰めてきた芝の王の足元へ沈んでいく。


 今度は、すくわなかった。


 芝の王はラケットの面を立てて、球の勢いを全部、面の上で殺した。

 ボールはネットを越えて芝の上に落ち、ほとんど跳ねずに止まった。


 おにいちゃんは走っていた。

 走って、止まって、止まった足の先のボールを見ていた。


 テレビの中で拍手が鳴った。

 叫ぶ声ではなく、手を打つ音が、大きく、長く、揃って続いた。


 握手のとき、芝の王は何か短く言って、下に向けた手のひらで腰の高さを一度押さえるようにした。


「何か声をかけていますね」


 アナウンサーが言った。何と言ったのかは、茶の間の誰にも分からなかった。


 時計は一時の少し前だった。


 いつもなら、ウィンブルドンの中継のあいだ、おじいちゃんは三十回は「芝だ」と言う。

 今夜は一回も言わなかった。


 おばあちゃんが立ち上がった。


「もう寝てください。一時ですよ」


 おじいちゃんはテレビの前から動かなかった。


「ばあさん、半紙と筆ペン」


「寝てください」


「一枚でいい」


 おばあちゃんは少し黙って、それから座敷の方へ行って、半紙を持って戻ってきた。

 一枚ではなく、束で。


 お父さんの運転する帰りの車の中で、美咲は自分の右手を、暗がりで何度も返してみた。


【琢真】


 その夜、ホテルに戻るとフロントの人が紙を一枚差し出した。

 ファクスだった。


「From Japan」


 日本から、らしい。受け取ったのは、熱で印字された薄い紙だった。

 一番上の送信元の番号は千葉の局番で、丹羽建設の本社のファクスだ。


 その下に筆ペンの大きな字で手書きが一行だけあった。


 芝だ。


 それだけだった。差出人の名前も日付もなかったが、なくても分かった。

 この字は知っている。


 本家の座敷の床の間、掛け軸の横に額に入れて飾ってある、丹羽建設の創業の年に書いたという社訓の字。


 祖父の字だった。


 一九八五年の夏の決勝のことを、祖父は何年たっても、ことあるごとに言った。


 テニスは芝だ、本場は芝だ。

 本家の空き地を全部芝にしろとまで言った人だ。


 その祖父が会社のファクスで、ロンドンのホテルに「芝だ」とだけ送ってきた。


 何が言いたいのかは書いていない。

 芝の上で負けたことへの慰めなのか、芝の上で勝てという命令なのか。


 それとも、祖父の知っているたった一つの言葉を、ただ送ってきただけなのか。


 紙の端には小さく、送信枚数一枚中一枚目と印字があった。

 その下に祖母の字で鉛筆の書き込みがある。


 「会社のファクスで送らないように言ったのですが」


 祖母の字は細かくてきれいだった。


 ロビーのソファで圭がファクスを覗き込んでいた。

 それから顔を背けて、咳払いを二回した。


 ファクスをたたんでラケットバッグの内ポケットに入れた。

 母の木のラケットのケースの、隣に。


 ファクスをしまったあと、部屋で試合のことを思い出していた。


 二セット目にリターンの位置をベースラインの内側に上げた。

 芝の王のサーブは跳ねてから滑ってくる。跳ねた直後なら、球はまだ膝より上にある。


 一本目が足元に沈んだとき、頭の中が静かになった。全米の三回戦と同じ静けさだった。

 次はもっと早く叩ける。その次はもう半拍早く。

 静けさの真ん中で、三セット目に右足が芝の上を流れた。流れながら、今年の芝の季節があと何日残っているかを数えていた。

 面白さは消えなかった。数える方も、止まらなかった。


 握手のとき、芝の王は短い英語で言った。


「Stay low. Always」


 言いながら、下に向けた手のひらで腰の高さを一度押さえた。

 低く。いつも。圭の一つだけと同じだった。


 コート適性の欄を開いた。



 ■コート適性▽

 グラス  D 53 / 55▽

 クレー  C 61 / 63▽

 ハード  A 82 / 84▽



 ハードはAに入っていた。

 クレーはCの前半で、柏に赤い土のコートを作った年にはFだった。


 グラスはDの前半。三つの中で一番低い。


 柏の芝ではほとんど動かなかった。英国の二週間で初めて目に見えて上がり、今年の芝の季節の四週間でようやく大きく動いた。

 それでも、一番低い。


 理由は分かっている。芝の上で打てる時間が短いのだ。

 一年のうち、芝の大会があるのは六月から七月の五週間だけで、日本にはまともな芝のコートがない。


 経験点は打った床にしか入らない。一年に五週間で、三十歳まであと九年。

 九年で四十五週間。ハードの上では、一年に三十週以上打っている。


 芝だけが遅れていく。


 足首の高さのサーブと、芝のためにできた手首。

 あの男に芝の上で勝つには、何が足りないのか。

 適性の数字か。足の滑り方か。低い球への、ラケットの下げ方か。


 全部だった。全部が少しずつ足りなかった。


 万能型のときは、全部が一段下だった。

 芝の王は芝の上でだけ、全部が上だ。


 なら、芝の上でなければ。そう考えかけて、やめた。

 全英は芝の上にしかない。


 ラケットバッグの内ポケットには、祖父のファクスが入ったままだ。

 四つのうちの一つは、一年に五週間しかない床の上にある。


 芝だ。

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