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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
プロツアー・BIG4

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85/145

第85話 赤土の魔人

 練習コートで最初に打ったボールが、肩の高さまで跳ね上がった。


 二〇〇五年の五月、パリの赤い土は柏の赤い土と違った。


 全仏オープンだった。

 ランキングは五十位台まで上がっていて、今年は予選ではなく本戦から出られた。


 ただ、今年の全豪は二回戦で二十位台の選手に負けている。

 四大大会の本戦では、まだ一度も三回戦を越えていない。


 柏のクレーは跳ねたあと一拍、空中にとどまる。

 パリのクレーは、跳ねたあとさらにもう一段伸びてきて、胸の高さで打とうとしたボールが肩の高さまで上がってくる。


 足元の土も違った。柏の土は粉の下が固い。

 パリの土は粉の下にも柔らかい層があって、滑った足が止まりたいところで止まらない。


 止まったと思ったところから、もう半歩流れる。


 センターの赤い土は、赤い土の入口だった。

 入口と本物は違う。


 圭が練習コートの脇で腕を組んでいた。


「……滑れ」


 五年前、柏のクレーで最初に言われたことだった。


 滑った。流れた足の先でボールを打つと、入った。

 柏で覚えた滑り方が、パリの土の上でなんとか通用した。


 なんとか、だった。一回戦と二回戦は勝った。

 三回戦の相手の名前をドロー表で見て、知っている名前だと気づいた。


 去年の秋からホテルのテレビで何度も見ていた男だ。

 赤い土の上で長いラリーを延々と続け、最後に必ず相手を崩す。


 新聞はその男を赤土の魔人と呼んでいた。


 前世の記憶の中の四人のうち、見つけた順で言えば三人目だった。


 五十二本目で俺のバックハンドがネットにかかった。


 一セット目の四対五、セットポイントだった。

 本数は途中から分からなくなっていて、五十二という数字は翌朝の新聞が教えてくれた。


 赤土の魔人は左利きだった。

 左のフォアハンドは右利きの俺のバックハンドの側に来る。

 高く跳ねる土の上で、さらに高く跳ねさせる回転をかけて。


 肩の高さの球をバックハンドで打ち返した。


 また、肩の高さに来た。


 打ち返した。


 また。


 肩の高さで打つバックハンドは、どうしても浅くなる。

 浅くなった球を、魔人は一歩も下がらずに、もう一度同じ高さへ返してくる。


 同じ場所、同じ高さ、同じ回転。

 違うのは、打つたびに重くなっていく俺の腕とボールだった。


 赤い土の上のボールは、ラリーが続くほど土を吸って重くなる。

 三十本目の球は一本目の球より明らかに重かった。


 万能型との試合の三十四本は、あの試合で一番長いラリーだった。

 この男との試合では、三十本はふつうのラリーだった。


 一セット目、四対六。一時間を少し越えていた。


 赤土の魔人は表情を変えなかった。

 ベースラインの後ろで足元の土を靴の裏でならしている。


 ポイントの間には必ず土をならし、ベンチでは二本のボトルを決まった順に飲んで、決まった向きに置き直す。

 三時間、その順番は一度も狂わなかった。


 二セット目はラリーに付き合わないことにした。


 ベースラインの内側に一歩入って、球が肩まで上がりきる前に叩く。叩いたらネットに詰める。

 赤い土の上のネットプレーは、柏ではほとんど練習していない。

 けれど、ラリーで負けるならラリーをしないしかない。


 詰めるには前に出た足を止めなければならない。

 パリの土は止めたいところで止まらない。


 だから、刻んだ。

 滑らないように一歩を半分にして、土を確かめながら止まる。


 止まれた。代わりに、遅れた。


 四対五。俺のサービスゲームで、十五対三十。

 ここを落とせば二セットを続けて失う。


 魔人のフォアハンドがクロスに逃げていった。

 サイドラインの外へ、さらに外へ。刻んだ足では届かない角度だった。


 ……滑れ。


 練習コートの脇の声が頭の中で鳴った。


 刻むのをやめた。踏み出した右足を、土に預けた。


 足が流れる。止まりたいところを過ぎて、もう半歩。


 その半歩の先に、ボールがあった。


 流れながら、バックハンドをダウン・ザ・ラインへ振り抜いた。


 ボールが魔人の反対側を抜けていった。


 魔人は追わなかった。

 ベースラインの後ろで俺の靴が引いた長い線を一度だけ見た。


 三十対三十。そのゲームを取って、五対五。


 次の魔人のサービスゲームでもう一度滑った。

 今度は前へ。ネット際に落ちたドロップショットに向かって土の上を滑り込み、ラケットの先ですくい上げた。


 すくった球がネットの向こうに落ちた。


 ブレーク。六対五。


 次のサービスゲームをキープした。七対五。

 二セット目が終わったときには二時間を少し回っていた。


 ベンチで千夏の袋の粉のスポーツ飲料を溶かして飲んだ。

 今日の日付の袋は、これで最後だった。


 選手用の席の圭は腕を組んだまま顔色一つ変えていなかった。


 三セット目、赤土の魔人はネットに出る俺の足元に、ボールを沈めてきた。

 高く跳ねる球ではない。低く、速く、足元に。


 この男は高い球しか打たないのではなかった。

 高い球を打つ理由があったから打っていただけで、理由がなくなれば別の球を打つ。


 一対二の三十対四十。

 詰めた足元に沈んだ球をハーフボレーで持ち上げた。


 持ち上げた球が落ちていく先は、魔人がポイントの前に靴の裏でならしていた場所だった。

 そこからゆっくりした球が、俺の頭の上を越えていった。


 ブレークされた。そこから、詰めるたびに足元か頭の上だった。


 詰めるのをやめると、また肩の高さの球が来る。

 前に滑って拾えば、次の球のために後ろへ戻らなければならない。前に流れた分だけ、戻る道が長い。


 三対五で、一度だけブレークバックの機会が来た。

 魔人のセカンドサーブを叩いたリターンが、サイドラインの際に落ちた。


 線審の腕が横に伸びた。


 主審が椅子から下りてきて、土の上に残ったボールの跡を見下ろした。

 白いラインと跡の縁のあいだに、髪の毛一本ほどの赤い土が見えた。


 赤い土の上では、ボールは跡を残す。


 三対六。


 セットの合間に係員がほうきでラインの上の土を払っていった。

 ベンチで見下ろすと、靴下が足首まで赤くなっていた。


 四セット目で足が止まった。


 三時間を越えたあたりから、滑った足が戻ってこなくなった。

 流れた先で止まって、次の球に向かって動き出すのが半拍遅れる。


 滑るたびに太腿の裏が硬くなっていく。

 靴の中に入った土が踏み込むたびに指の間でざらついた。


 それでも、次のラリーが待ち遠しかった。

 次は高いのか、足元か。待っているその一瞬に、太腿の硬さが勘定に変わった。

 三時間で止まる足では、この土の上で七つは勝てない。全仏は七つ勝ってやっと一つで、三十歳までに四つのうちの一つをここで取らなければならない。


 二対二、三十対三十。

 ラリーが二十本を越えたところで、魔人のフォアハンドが、二セット目と同じ角度でクロスに逃げていった。


 滑った。


 足は流れて、ボールに届いた。返した。


 返したあと、流れた足が戻ってこなかった。


 次の球は、空いたコートの反対側だった。


 半拍の遅れで、ボールはラケットの先を抜けていった。


 二セット目と同じ角度で、同じ半歩だった。


 そこからゲームが続けて四つ向こうへ行った。


 二対六。


 主審が英語で試合の終わりを告げた。三時間二十分。


 ベンチに座ると、足が自分のものではないように重かった。

 赤土の魔人は隣のベンチでタオルで顔を拭いていた。

 二本のボトルを来たときと同じ向きでバッグにしまっている。


 しまい終えると、今度はベンチの前の土を靴の裏で一度ならした。もう誰も打たないコートの、自分の足元だけを。


 ネットの前で握手をしたとき、赤土の魔人は、俺の手を握りながら足元の赤い土を見た。


 俺の靴の跡を見ていた。滑った跡、流れた跡、止まれなかった跡。

 コートのあちこちに長い線が引かれている。


 赤土の魔人の側のコートには、そういう線がほとんどなかった。


 この男は滑っても線を引かない。

 滑った分だけぴたりと止まって、止まった場所から、すぐに次の一歩が出る。


 柏の赤い土で覚えたのは、長い線を引く滑り方だった。

 あの男の滑り方は線を引かず、点で止まる。


 コートを出るとき係員が網を引いて土をならし始めていた。

 俺の引いた長い線から、順に消えていった。


 その夜はホテルのベッドで見えない数字のことを考えていた。


 STATUSで見えるのは自分の欄だけだ。

 あの男の欄は、どこを探しても出てこない。


 STATUSの数字がどこまで上がるのかは、まだ知らない。


 あの男の赤い土の上の動きを、今の俺の欄で一番高い数字に当てはめてみた。

 三時間を越えても足が止まらず、滑った足が流れた先で、必ず次の球に間に合う。

 高い球も低い球も、同じ質で打てる。


 その数字で足りるのか。その先があるのか。

 見えない欄からは、どちらの答えも出てこなかった。


 分かっているのは、点で止まる靴の跡と三時間二十分。


 机の上の表を開くと、去年の九月の欄に線を一本引いた三文字がまだ読めた。

 今日の欄にその三文字は書かなかった。書かなくても、四セット目の待ち遠しさは足の裏に残っていた。


 翌朝、ホテルのロビーで圭が電話をかけていた。


 フロントの横の公衆電話から、国際電話だった。

 テレホンカードを三枚手に持っている。通りかかると圭の声が聞こえた。


「……ああ。俺だ」


 相手の名前は、圭の口から出なかった。


「負けた。三時間二十分」


 圭は試合の結果を短く言って、それから少し黙った。

 受話器の向こうで相手が何か言っているらしい。


「一つだけ言う」


 圭は受話器を持ち直した。


「……送れ」


 それだけだった。受話器の向こうがまた何か言った。

 少し長かった。圭は黙って聞いていた。


「……補食だ。三時間ぶんの」


 また、受話器の向こうが何か言った。


「……三時間を越える試合のぶんだ。あいつの足が、三時間で止まった」


 受話器の向こうが、今度は短く何か言った。

 圭はうなずいた。電話の相手には見えないのに、うなずいた。


「……ああ。俺のぶんも」


 圭が受話器を置くと、テレホンカードがピーピーと鳴って出てきた。

 振り返った圭と目が合った。どちらも電話の話はしなかった。


 一週間後、ウィンブルドンの前の芝の大会の会場に、日本から小包が届いた。


 中には補食の袋が日付ごとに入っていた。

 いつもの袋より一回り大きく、表に千夏の字で「三時間用」と書いてある。


 袋は二種類あった。


 一種類には、「たくま」。


 もう一種類には、「お父さん(食べすぎ注意)」。

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