第84話 面白い
その夜、ホテルの部屋の天井を見ていた。
負けた試合を頭の中で最初から繰り返していた。
一ポイント目。見えたサーブ。当たった返球。
先にいた万能型。どこに打っても、先にいる。
負けた。ストレートで、二十五ゲームのうち七つしか取れずに。
悔しいはずだった。
三十歳までに四つ。その四つとも、あの男がどこかで待っている。
期限を思えば、悔しいより先に怖いはずだった。
天井を見ながら自分の中を探した。悔しさはあった。
怖さもあった。けれど、その二つより先に別のものが出てきた。
もう一度、やりたい。
明日でもいい。今すぐでもいい。あのサーブをもう一度返したい。
あの三十四本のラリーをもう一度やりたい。
三十四本目のドロップショットに、今度はあと一歩届きたい。
打ち合っている間、頭の中が静かだった。
経験点も期限もランキングも、どこかへ消えていた。
あったのは次の球だけで、次の球をどこへどう打つか、それだけを考えていた。
あんな時間は初めてだった。
試合は、ずっと割に合わないものだった。
ミッションのために出て、ポイントのために出て、ランキングのために出た。
今日の試合は何のためでもなかった。ただ、打っていた。
本気の試合は面白い。
浮かんだ言葉は、すぐに打ち消した。面白がっている場合じゃない。
期限は九年と、十か月。
あの男に勝たなければ四つは取れない。
四つ取れなければ、三十歳で心臓が止まる。
面白い、で心臓は動かない。
テニスは生きるための手段で、赤ん坊の頃からずっとそうだった。そう言い聞かせた。
言い聞かせたあとも、天井の暗がりの中で、あのサーブの音が何度も鳴っていた。
眠れなかった。部屋を出て廊下の自動販売機まで歩き、水を一本買った。
振り返ると、廊下の先の自分の部屋のドアの前に、圭が立っていた。
寝間着ではなく昼の服のままだ。
圭はしばらく俺の顔を見ていた。それから言った。
「一つだけ言う」
廊下の蛍光灯がちらついていた。
「……笑ってたぞ」
誰が、とは聞かなかった。
「……負けてたのに」
それだけ言った。圭はうなずいた。
「負けてて、笑ってた」
知らなかった。コートの上で自分が笑っていたなど、思いもしなかった。
九年前、最初の全国小学生の表彰式のあとで、この人はすれ違いざまに言った。
楽しそうに、下手をやるな。あのときは意味が分からなかった。
楽しいと思った瞬間は一度もなく、経験点の数字しか出てこなかった。
今日は逆だった。下手ではなく全力でやって、全力で負けて、それで笑っていたらしい。
「……楽しそうに全力でやったら、どうなるんですか」
聞いた。圭はすぐには答えず、ドアのノブに手をかけた。
「……一つだけ、って言ったろ」
それから、口の端をわずかに動かした。
「今日の分は、もう言った」
ドアが閉まった。
廊下に一人で残されて、手の中の水を一口飲んだ。
ぬるかった。それでも、うまかった。
部屋に戻って国際電話をかけた。
日本は昼過ぎで、千夏の大学の昼休みの時間だった。
千夏は大学に入ってから携帯電話を持つようになった。
呼び出し音が二回鳴った。
「……たくま?」
「うん」
「試合、見た」
「どこで」
「大学のテレビ。学食の。朝の、スポーツニュースの録画、流してた」
千夏は間を置いた。
「負けたね」
「負けた」
「ストレート」
「ストレート」
「脚は?」
いつもの問いだった。
「……重い」
「どのくらい」
「今までで、二番目」
「一番目は?」
「去年の五月。とろとろの米の国」
「……それよりは、ましなんだ」
「まし」
受話器の向こうでノートをめくる音がした。
負けた日の、次の日の脚。
千夏はしばらくペンを走らせていて、それから、ペンの音が止まった。
「……ねえ」
「うん」
「たくま、なんか、機嫌いい」
「……そう?」
「うん。負けたのに」
千夏は不思議そうだった。
「負けたのに機嫌いいの、初めて聞いた」
俺は黙っていた。受話器の向こうで、ペンが一度だけ紙を叩く音がした。
「……変?」
「変」
「どこが」
「全部。声も、間も、笑い方も」
千夏ははっきり言って、それから笑った。
「でも、いいと思う」
「いい?」
「うん。なんか、いい声」
ヘイズ先生も声を褒めた。声だけは褒められる人生らしかった。
電話を切ったあとで経験点の欄を開いた。
今日の試合の分は、センターで二か月朝から晩まで練習してやっと入る量だった。
それが一時間四十分の一試合で入っていた。
去年の秋のチャレンジャーの決勝は一週間分だった。
春に二十位台の選手に負けた試合で三週間分、一昨日の四十位台の選手で二週間と少し。今日はその全部を足したより多い。
ホテルの机の上に表が広げたままになっていた。
二十歳の欄から三十歳の欄まで。今日の欄に書き込んだ。
全米、三回戦、敗退。
その横に小さく二か月分と書いた。
表に経験点のことを書いたのは初めてだった。
二か月分入るということは、それだけ遠いということだ。
上限を広げて練習で上げて、また上限を広げる。この距離を埋めるのに何年かかるのか、この表には欄がない。
ただ、ひとつだけ分かったことがあった。
あの男と試合をすればするほど経験点が入る。
負ければ負けるほど上へ行ける。だとしたら、次もあの男と当たりたい。
ペンを置きかけて、もう一度持った。
「二か月分」の下に三文字書いて、横に線を一本引いた。
消すなら塗りつぶせばいいのに、引いたのは一本だけだった。線の下の字はまだ読める。
欄を閉じた。窓の外のニューヨークの夜は、まだ明るかった。
ベッドに入って目を閉じると、まぶたの裏に浮かんだのは経験点でも期限でもなく、高く上がって一瞬止まる万能型のトスだった。
あのトスを明日も見たいし、明後日も見たい。




