第83話 上位互換
三回戦はセンターコートではなく、二番目に大きなスタジアムだった。
それでも客席は上まで埋まっていた。一万人近く入る、と圭が言っていた。
一回戦の三百人の三十倍、下の大会の二十人の五百倍だ。
選手の通路を歩いてコートに出た。
音が上から降ってきた。歓声だった。俺のための歓声ではない。
俺の後ろから出てくる男のための歓声だった。
振り返ると、万能型が通路から出てきた。
背が高かった。テレビで見ていたより、ずっと高い。
手足が長いのに、動きに無駄がない。
ラケットバッグを肩にかけたまま客席に片手を小さく上げると、歓声がもう一段大きくなった。
ベンチに荷物を置いた。隣のベンチに万能型が荷物を置いた。
目が合った。
灰色がかった、静かな目だった。
値踏みしているのでも見下しているのでもない。
これから打ち合う相手の顔を、ただ確かめているだけの目だった。
万能型は口を開かなかった。俺も開かなかった。
ネットの前で審判がコインを弾いた。
悠蔵の百円玉を思い出した。どうでもいいことは百円玉で決めて、金のことは数字で決める。
この試合はどちらだろう。
コインは万能型の側に落ちて、万能型はサーブを選んだ。
ベースラインに戻った。ボールを三回ついて、万能型がトスを上げた。
トスが高かった。
高く上がったボールが、照明のない昼の空の中で、一瞬止まった。
その一瞬のあいだに、最初の市の大会の最初のサーブを思い出した。
あのとき相手は打ち返しながら笑った。
今、ネットの向こうでトスが止まっている。
今日はどちらが触れもしないのか。
最初のサーブは見えた。
速かった。けれど、見えた。
ラケットを出すと面に当たった。
当たった球が万能型のコートに返っていく。
深くはなかった。サービスラインの少し後ろ。
万能型はそこにいた。
返った球の落ちる場所に、もういた。
フォアハンドで俺のバック側の奥へ。
振り終えたラケットが頭の後ろで一拍止まった。英国の金網の外から見た一拍が、今はネットの向こうにあった。
走った。
届いた。
バックハンドでクロスに返した。角度をつけてサイドラインの近くへ。
万能型はそこにいた。
打った瞬間には、もうそこへ向かって動いていた。
ダウン・ザ・ラインへ、打ち返してくる。
走った。
届かなかった。
ラケットの先、ボール半分のところを球が抜けていった。
十五対ゼロ。一ポイント目だった。
次のポイントも同じだった。
どこに打っても、先にいる。
クロスに打てばクロスに、ストレートに打てばストレートにいる。
深く打てば下がって待っていて、浅く打てば前に詰めている。
読まれているのではなかった。読むより先に、動いていた。
俺が打つ前の足の向き、肩の開き、ラケットの引き方。
そのどれかを見て、ボールが俺のラケットを離れる前に動き出している。
それでいて、動き出したあとで俺が打つ方向を変えても、間に合う。
足が速い。俺より。
一セット目。二対六。
二セット目。
サーブを全力で打った。
ばん、と音がした。
万能型のラケットが、それをふつうに返した。
返ってきた球が俺の足元に沈んだ。
ハーフボレーで拾った。
拾った球が浮いた。
浮いた球を、万能型が上から叩いた。
届いたのは、二対四の俺のサービスゲームだけだった。
ワイドに逃げるサーブを二本続けたあとで、同じ構えからセンターへ打った。万能型の足が外へ一歩出かけて、戻った。
戻った分だけ甘くなった返球を、ネットの前で叩いた。
この男も外へ足を出す。俺と同じ読み方をしている。
違ったのは、次のゲームではもう同じ手に足を出さなかったことだった。
三対六。
三セット目。
ラリーを長くしてみた。深く、高く、真ん中に。
去年の秋のチャレンジャーで、ベテランにやられた戦い方だ。
終わらせない。相手に打たせて、打ち損じるのを待つ。
万能型は打ち損じなかった。
二十本。三十本。
三十四本目で、万能型がボールの下にラケットを入れた。
ドロップショット。
ネットの向こうにそっと落ちた。
走った。
三十四本走ったあとの足は、あと一歩が出なかった。
二対六。
終わった。
全部、一段下だった。
サーブも、リターンも、フォアも、バックも、足も、読みも。
俺の持っているものの全部が、この男の持っているものの一段下にあった。
どこか一つが、ではない。
全部が。
負けたことはある。去年も今年も、何度も負けた。
けれど、負けた理由を一つも挙げられない負け方は、一時間四十分のこの試合が初めてだった。
ネットの前に歩いた。万能型が先に来ていて手を出していた。
握った。大きな、冷たい手だった。
一時間四十分打ち合ったあとなのに、汗で濡れていない。
万能型はさっきと同じ静かな目で俺の目を見た。
何も言わずに握った手を二回軽く振って、離した。
八年前の夏を思い出した。
二度目の全国小学生の決勝で、俺は縛りをしたまま、相手の六年生からゲームを一つも取らせずに勝った。
あのとき相手の子は握手のあと、俺の目を見た。
泣いてはいなかった。最後まで目を逸らさず、六対〇のスコアボードの方は一度も見なかった。
あのときは、あの子の目の意味が分からなかった。
今なら分かる。
何をしても届かない。だから、どこを直せばいいのかも分からない。
あの日あの子が俺に向けていた目で、今日、俺はこの男を見ていた。
万能型は客席に手を上げてベンチに戻っていった。
歓声が上から降ってきた。
俺はネットの前にしばらく立っていた。
ロッカールームの前の廊下に圭が立っていた。
壁にもたれて腕を組み、俺が歩いてくるのを見ていた。
何も言わなかった。
圭の前を通り過ぎようとしたとき、肩に手が置かれた。
重くはなかった。置いてすぐに離れた。
圭は何も言わないまま廊下の先を歩いていった。
その背中が角を曲がるまで、俺は廊下の真ん中に立っていた。
ロッカールームに入って、ベンチに座り、ラケットバッグを足元に置いた。
荷物の底に、母の木のラケットのケースが入っている。
使わないラケット。荷物の、どこかに。
ケースの上に手を置いて、しばらくそのまま座っていた。
扉の向こうで歓声がまだ続いていた。
次の試合の選手が通路を歩いていく足音。
スタジアムの放送が、万能型の名前をもう一度読み上げていた。
この建物の中で、今一番大きな音はあの男の名前だった。
これまではどの会場でも一番大きな音は俺の名前だった。
市の大会でも、県大会でも、全国大会でも、首をかしげる大人たちのざわめきの中心に、俺の名前があった。
今日は違った。
ロッカールームの鏡に自分の顔が映っていた。
汗で髪が額に貼りついている。負けた選手の顔だった。
こんな負け方をした自分の顔は、初めて見る。
水で顔を洗って、タオルで拭いて、もう一度鏡を見た。
同じ顔だった。




