第82話 予選
八月の終わり、ニューヨークの外れのコートは蒸し暑かった。
全米オープンの予選だった。
本戦と同じ敷地の端にある、外周のコートだった。
コートの向こうに本戦のスタジアムの白い壁が見える。
巨大なすり鉢の、外側だった。
予選の会場にはほとんど客がいなくて、フェンスの外をときどき本戦のチケットを持った観客が通り過ぎていった。
ちらりとこちらを見て、また歩いていく。
予選は三試合。三つ勝てば本戦のドローに名前が載る。
一つでも負ければここで終わりだ。予選にも賞金は出るが本戦の一回戦負けの何分の一かで、ポイントも桁が違う。
一回戦の相手は南米の選手で、六対三、六対四。
二回戦は欧州の選手に、七対六、六対二。
三回戦の相手はアメリカの若い選手だった。
地元の選手で、予選の会場にしてはフェンスの外に人が集まっていた。
二十人、三十人。星条旗を振っている人もいた。
一セット目を落とした。四対六。
相手のサーブが速かった。
ハードのコートで、相手の弾む球は胸の高さよりも上まで来る。
この国のハードは、日本のハードよりわずかに速い気がした。
二セット目からリターンの位置を一歩下げた。
下げると相手のサーブの角度が開く。
開いた分は走らなければならないが、走れば届く。
届いた球を相手の足元に沈めた。
六対三。
三セット目。
五対四。俺のサービスゲーム。
最後のサーブをセンターに打った。
相手のリターンがネットにかかった。
フェンスの外で星条旗がゆっくり下ろされた。
ベンチに座った。三つ、勝った。
表示は浮かばなかった。三つ勝っても、ここはまだ大会の外らしい。
本戦のドローは予選の二回戦の日にもう出ていた。
選手用の建物の前に大きな掲示板があって、百二十八の枠がトーナメントの形に並んでいる。
予選を抜けた選手の入る枠には、名前の代わりに「Q」とだけ書いてある。
三つ勝ったその夜、Qの一つが俺の名前に書き換わった。
ドローの真ん中より少し上だった。
一回戦の相手は七十位台の選手で、二回戦はたぶん四十位台の選手。
三回戦。
線をたどった先に、名前があった。
第四シード。
去年の秋にどこかの国のホテルのテレビで初めて見て、英国の金網の向こうにいた一人だと分かった男だ。
この一年でシードの番号が一桁まで上がってきた。新聞はこの男を「穴のない選手」と書く。床を選ばずに勝つので、どの大会でも優勝候補の欄に名前がある。
俺は頭の中で、その男を万能型と呼んでいた。
勝ち上がれば、三回戦で当たる。
掲示板の前でしばらくその名前を見ていた。
隣で圭も同じ名前を見ていた。
「……見るな、まだ」
圭は掲示板から目を離さずに言った。
「まだ」
「二つ、勝ってからだ」
それから圭は選手用の建物の方へ歩き出した。
俺はもう一度だけ掲示板を見た。三回戦の欄の、第四シードの名前。
それから目を逸らして一回戦の相手の名前に目を戻した。
七十位台の選手。
まだ、見ない。二つ、勝ってから。
ホテルに戻ると、フロントに伝言が残っていた。
丹羽美咲様より、お電話がありました。折り返しをお願いします。
日本は朝の九時だった。部屋の電話から家にかけると、美咲が出た。
「おにいちゃん!」
声が大きかった。受話器を耳から少し離した。
「ドロー、見た!」
「……もう見たのか」
「インターネットで。朝一番で」
高校二年生になった美咲は、朝、学校に行く前にパソコンで世界中の大会の結果を見るのが日課らしかった。
「三回戦、あの人でしょ!」
あの人。美咲が言ったのは、第四シードの名前だった。
美咲の部屋の壁にも、たぶんポスターが貼ってある。
「サイン、もらってきて!」
「……は?」
「あの人のサイン! 色紙、持ってってないでしょ。ホテルのメモ用紙でいいから!」
「対戦相手だぞ」
「知ってる」
「対戦相手に、サインもらうのか」
「負けたあとなら、もらえるでしょ」
美咲はあっさり言った。電話の向こうで母の声が聞こえた。
「美咲、それは失礼でしょう」
「え、なんで」
「おにいちゃんが負ける前提になってるでしょう」
「……あ」
美咲が受話器の向こうで黙った。
「……勝ったあとでも、もらえる?」
「もっと、もらえない」
「なんで」
「勝った相手に、サインくれって言えるか」
「言えるよ。美咲なら言う」
本当に言うだろう。そういう妹だ。
「……考えとく」
「絶対だよ! 二枚ね! 千夏ちゃんの分も!」
「千夏は、欲しがらない」
「欲しがるよ。言わないだけで」
電話が切れた。受話器を置いて、しばらく電話を見ていた。
十年足らずの期限の中で越えなければならない四つの壁の一つから、サインを二枚。
頼む方も頼む方だが、考えとくと答えた俺も大概だ。
本戦の一回戦は外周のコートだった。
予選の会場より少し大きなコートで、客席は三百人くらい。
コートに入ったところで、視界の端に表示が浮かんだ。
【MISSION】
・四大大会に出場する 達成
スタミナ +40
レスポンス +36
これまでのミッションで一番大きな数字だった。市の大会のざっと十倍。
二十年と少しかけて、最終ミッションの最初の一段に足が載った。
相手は七十位台の欧州の選手だった。六対四、六対二、六対三。
四大大会の本戦は五セットマッチで、三セット取れば勝ちになる。
下の大会もツアーの大会も三セットマッチだったから、五セットは初めてだった。
二回戦は少し大きなコートで、相手は四十位台の南米の選手だった。
二セット目を四対六で落とした。四大大会の本戦で、初めて落としたセットだった。
三セット目の最初のリターンゲームで、いつもの癖で全部を取りに行きかけてやめた。
スタミナの左の数字は、三セットの試合ならもう終わっている時間にいつもの倍くらい減っていた。
ここで使い切れば、四セット目と五セット目の分がない。
相手のサービスゲームは深追いせずに半分捨てて、自分のサービスゲームだけを確実に取る。
コートチェンジのたびに千夏の袋の粉のスポーツ飲料を溶かして飲んだ。日付は今日の分だった。
七対六、四対六、六対三、六対四で勝った。
捨ててもいいゲームを選べるのが、五セットマッチという試合だった。
握手のあとベンチで経験点の欄を見た。
今日の分はチャレンジャーの決勝の倍と少しだった。相手の強さの分か、五セット打った分か。欄はどちらとも言わない。
明後日の男は第四シードだ。四十位台の選手の何倍上にいるのかは分からないが、その倍率が勝っても負けても経験点になって返ってくる。
去年の七月に表の八月の欄へ書いた予定と、ここまでは同じだった。
圭がベンチの横に立っていた。
「……見ていいぞ」
一つだけ言う、とは言わなかった。見ていい。
二つ、勝ったから。
ドロー表のコピーをポケットから出して三回戦の欄を見た。
第四シード、万能型。試合は明後日で、俺の名前とその名前のあいだには線がもう一本しか残っていなかった。




