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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
プロツアー・BIG4

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第80話 十九歳の冬

 十二月の半ば、柏に帰った。八か月ぶりだった。


 駅から家まで歩いた。冬の夕方の町は、春に出たときと何も変わっていなかった。

 商店街の八百屋の前の段ボール。踏切の音。国道の信号の長さ。

 変わっていないことに驚く日が来るとは思わなかった。

 この八か月で、九つの国の四十いくつの町を通り過ぎ、どの町も次の週にはもう別の町になっていた。


 柏だけが、同じ形のままここにあった。


 玄関を開けると台所から煮物の匂いがした。

 母が廊下に出てきて、俺の顔を見て、それから上から下までゆっくり見た。


「痩せましたねえ」


「締まった」


「痩せたんです」


 母はそれ以上言わずに台所に戻った。


 夕食は煮物と焼き魚と味噌汁と、白いご飯だった。

 ご飯の粒がちゃんと立っていた。一口食べて、しばらく箸が止まった。


「……どうしました?」


「米が、立ってる」


「お米は、立つものですよ」


 母は首をかしげていた。立っていない米を向こうでどれだけ食べたか。

 説明してもたぶん伝わらない。


 美咲がテニスのウェアのまま帰ってきた。

 高校一年生になった美咲は、学校から直接センターに行って夜まで打って帰ってくる。


 高校とスクールの両立は思っていたより大変らしいが、また背が伸びていた。


「おにいちゃん、おかえり」


「ただいま」


「世界ランキング、二百何位?」


「百九十八位」


「……へえ。美咲、ジュニアの世界ランキング、三十何位」


「知ってる」


「知ってたの?」


「千夏から聞いた」


 美咲は不満そうな顔をした。自分の口で言いたかった、と顔に全部書いてある。


 父は夕食の間、何も聞かなかった。

 食べ終わってから湯のみを置いて聞いた。


「……十枚目は」


「ほぼ、計画どおり」


「ほぼ、の中身は」


「上振れ」


 父は「上振れ」と一度だけ繰り返して新聞を開いた。

 事業計画書の十枚目、収入の見込み。

 この人はあの十四枚をどこかにしまって、ときどき読み返していたのかもしれない。


 二〇〇四年の元日、本家の縁側に悠蔵が寝転んでいた。

 小さい頃の正月と同じ場所だった。


 胸に載せた新聞は、株価欄ではなく、スポーツ欄が上になっていた。


「ちび」


「うん」


「二百位、切ったね」


「百九十八位」


「へえ」


 悠蔵は新聞をずらした。


「で、次は?」


「全米」


「いつ」


「八月。予選から」


「へえ。そう来るか」


 悠蔵はまた新聞を顔に戻した。


 一月の全豪は、予選の申し込みが締め切られた頃にはまだ線の外にいた。

 全仏と全英は予選なら出られる順位だが、赤い土と芝の四大大会には本戦から出す、と圭が決めていた。

 だから最初の四大大会は八月の全米になる。


 座敷の方から祖父の大きな声が聞こえた。


「おい、琢真! 来い!」


 座敷では正月の客が座布団の上で酒を飲んでいた。

 上の伯父と伯母といとこたち、祖父の会社の役員が何人か。


 祖父は床の間の横の壁の前に立っていた。


 壁に模造紙を四枚つなげたほどの大きな紙が貼ってあった。

 細かい字で、名前と国と数字がびっしり並んでいる。


 一番上に手書きの太い字で「男子テニス世界ランキング」。

 インターネットの順位のページを会社の若い社員に印刷させ、百位台から二百位台の部分だけを何倍にも拡大コピーしたものだった。


 祖父はその紙の真ん中より少し下を太い指で叩いた。


「見ろ。ここだ、お前は」


 百九十八位の欄に赤いマジックで丸がつけてあった。

 丸の横に祖父の字で「琢真」と書き込んである。


 正月の客たちがみんなその紙を見ていた。


「会長、これ、会社のコピー機で……」


 役員の一人が遠慮がちに言った。


「そうだ。三十枚使った」


「三十枚」


「最初は、大きさが合わなかった」


 祖母が台所からお雑煮のお椀を運んできた。

 壁の紙を一度だけ見て、お椀を祖父の前に置いた。

 置くとき、ほんの少し音を立てた。


 祖父は壁の紙の端を手で押さえ直した。


「……来年は、もっと上の方を貼る」


「上の方は、紙が要らないでしょう」


 祖母が言った。


「数が少ないから」


 祖父は少し考えてうなずいた。


「そうか。上の方は、小さくていいのか」


 縁側で、悠蔵が新聞の下で笑っているのが分かった。


 正月の三日、センターのベンチで千夏に会った。

 千夏は大学の冬休みだった。


 隣に布の包みとノートが置いてある。

 ノートは一冊ではなく、紐で束ねた十一冊だった。


「全部?」


「全部。中三からの」


 千夏は束の上に手を置いた。


「大学の先生に、見せたの。スポーツ栄養の先生」


「うん」


「びっくりされた」


 千夏は少し得意そうだった。


「こんなに長く一人の選手の記録を取った学生は、見たことがないって。しかも全部、次の日の脚の感覚と並べてある」


「軽い、重い、普通」


「それ。先生が、それが一番面白いって」


 千夏はノートの束を膝に乗せた。


「軽い、重い、普通。それしか書いてないのに、四年分並べると形が見えるんだって。何を食べた次の日に軽いか。練習の量と、食べた時間と、寝た時間で」


「……形」


「うん。これを卒業研究にしたらどうかって」


 千夏は前を向いたまま言った。


「一人の選手の、十年分の記録」


 十年分。千夏はあと六年ノートを続けるつもりでいる。


 十年のその先を、俺は約束できない。


 千夏が俺の横顔を見ていた。


「……何?」


「何でもない」


「数えてる顔してた」


「してない」


「してた」


 千夏はそれ以上聞かずに布の包みを開けた。

 塩むすびが二つ入っていて、一つを俺に渡した。


 食べた。米が立っていて、塩がちょうどよかった。


「……うまい」


「知ってる」


 千夏は自分の分を小さくかじった。


 屋根のある練習場からボールの音が聞こえていた。

 美咲だった。正月の三日から一人でサーブを打っている。


 千夏はその音を聞きながら言った。


「美咲ちゃんのノートも、そろそろ作ろうかな」


「美咲の?」


「うん。美咲ちゃん、最近よく食べるから」


 成長期は横にも来る。母の言葉を思い出した。


 その夜、子ども部屋に布団を敷いた。春に出ていった部屋だった。


 壁に小学生の頃のポスターがまだ貼ってあって、机の上には高校の英語の教科書が置いたままになっている。


 一覧を一番下の欄まで下りていった。



 ■最終ミッション▽


 達成条件

 四大大会全制覇


 達成期限

 三十歳


 成功報酬



 失敗ペナルティ

 心停止



 十九歳と五か月。三十歳の誕生日まで十年と七か月。

 一年で、九百位から百九十八位まで来た。

 まだ四大大会には一度も出ていない。予選にさえ出ていない。

 割り算をすると気が滅入るので、やめておいた。


 家族にも千夏にも言わないまま、明日の朝また出ていく。


 翌朝、父は駅まで送ると言って先に車を出しに行った。

 玄関で靴を履いていると母が紙袋を差し出した。

 中に米の袋が一つ入っていた。二キロ。


「立つお米です」


「……向こうで、立つかな」


「炊き方は千夏ちゃんに書いてもらいました。袋の底に入っています」


 持ち上げると、紙袋は見た目より重かった。


「重い」


「お米ですから」


 母は当たり前のことのように言って、玄関の戸を開けた。

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