第79話 チャレンジャー
十一月にチャレンジャーの大会に出た。
下の大会の一段上で、賞金は下の大会の四倍、ポイントも四倍。
そして出てくる選手が違う。
百位台、二百位台の選手たちで、四大大会の本戦に出たことのある選手もいれば、一度上まで行って、怪我や不調で下りてきた選手もいる。
決勝の相手は三十歳を少し過ぎたベテランの選手だった。
最高で五十位台まで上がったことがあり、今は二百位の前後。
膝に白いテーピングを巻いていた。
一セット目は取った。六対三。
二セット目の途中からベテランが変わった。
打ってこなくなった。ボールを深く、高く、真ん中に返してくる。
角度もスピードもない。
ただ、ベースラインの一メートル手前に、同じ高さで、何度でも返してくる。
叩いた。
返ってきた。
深く、高く、真ん中に。
また叩いた。
また返ってきた。
終わらない。
ラリーが二十本を超え、三十本を超えた。
四十本目で俺のフォアハンドがネットにかかった。
ベテランは表情を変えなかった。
ただ、ベースラインの後ろで、膝のテーピングを一度だけ押さえた。
二セット目を落とした。四対六。
三セット目も俺は叩き続けた。
叩くたびにほんの少しずつボールが入らなくなっていった。
五対五。
六対六。
タイブレークの六対五で叩くのをやめた。
叩いて入らないなら、叩かない。深く、高く、真ん中に返す。
我慢比べなら、膝にテーピングを巻いていない方が長く続く。
ベテランは一度だけこちらを見た。
十本。二十本。三十本。
同じ高さの球がネットの上を行ったり来たりした。
四十本を過ぎて、先に変えたのはベテランの方だった。
角へ散らそうとした球がほんの少し短くなった。
踏み込んだ。
四十二本目。俺のフォアハンドがベテランのラケットの先を抜けていった。
追った足が一歩だけ遅れていた。膝だった。
七対六。終わった。
ベンチに座ってしばらく息をしていた。息が戻らなかった。
圭がベンチの横に来て黙ってタオルを差し出した。
受け取って顔に当てた。
タオルの向こうで、ベテランが自分のベンチで膝を抱えているのが見えた。
テーピングの上から氷の袋を当てている。
STATUSの数字にすれば、たぶん俺の方が上だ。
その上の方の俺が、三セットと四十二本を使い、最後はあの人の球を借りてやっと勝った。勝ったと言っていいのかは、よく分からない。
その夜はホテルの部屋で経験点の欄を見た。
スタミナ。スピード。コントロール。フォアハンド。それから、レスポンス。
今日一日で入った分を足してもう一度足し直した。間違いではなかった。
一週間分だった。
センターで一週間、朝から晩まで練習して、やっと入る量の経験点が、今日の一試合で入っていた。
八歳の春の市の大会では、二日間の経験点が日曜一日の練習にも届かなかった。
あのとき決めたのだ。大会はミッションのためにだけ出て、それ以外の日は全部練習に使う。試合は割に合わない。
今日は桁が違った。
今日の相手は下でも同じくらいでもなかった。
あの人は長くこの世界で戦ってきて、俺の知らない戦い方を身体の中に持っていた。
四十本のラリーのあいだ、俺は何度も、あの人の方が上だと感じた。
相対的に、強い相手。
同じくらいの相手なら練習と同じくらいで、弱い相手なら練習より少ない。
本当に上の相手なら練習とは桁が変わる。
これまでそれを見なかったのは、本当に上の相手と試合をしたことがなかったからだ。
……いや、一人いた。あの町の決勝の、二十八歳の選手だ。
あの夜に夜行バスで開いたのは千夏のファイルで、経験点の欄ではなかった。
あの負けを、俺は太陽と塗装のせいにして、自分の物差しの目盛りから外していた。
大会の意味が変わった。ミッションのためだけではない。
強い相手と試合をすることが一番の練習になる。
表彰式のあと、会場の出口でベテランに呼び止められた。
膝のテーピングを外して、ジャージの裾をまくり上げている。
膝は赤く腫れていた。
「Where did you learn?」
ベテランは真顔だった。
「Your forehand. Where?」
答えはいくつかあった。スクール。センター。藤代圭。どれも嘘ではない。
けれど、最初にフォアハンドを覚えたのは。
「Park」
「……Park?」
「A wall. In a park」
ベテランはしばらく俺の顔を見ていた。
十九歳の日本人が三十過ぎの自分を四十二本のラリーで破って、フォアハンドは公園の壁で習ったと言うのだから。
それから、ベテランは声を出して笑った。
「A good wall」
そう言って俺の肩を一度叩き、腫れた膝を引きずりながら駐車場の方へ歩いていった。
公園の壁。母が一度だけ壁打ちをして見せた壁だ。
コンクリートにボールの跡が残っていて、そこに毎日打った。
あの頃は、千夏がベンチに座って見ていた。
いい壁だった。たぶん、この世界で一番いい壁だった。
隣で圭が少しだけ肩を揺らしていた。
「……何か、おかしいですか」
「……いや」
圭は首を横に振った。
「一つだけ言う。……あの壁の前で、肘だと言ったのは、俺だ」
言い終えると、圭はベテランの歩いていった駐車場の方へ目をやった。
肩はまだ少し揺れていた。
帰りの空港で、今週のチャレンジャーのドロー表のコピーを眺めていた。
一回戦から決勝まで五人に勝った。
五人のうち四人は、試合のあとの経験点が練習と同じくらいで、決勝のベテランだけが一週間分だった。
世界ランキングの表を頭の中で並べた。二百位のベテランで一週間分。
百位の選手なら。五十位の選手なら。十位なら。
そして、四人なら。
前世の記憶にある、同じ時代に生まれて世界の頂点を競う四人。
あの四人と試合をしたら、一試合で何が入るのか。一か月分か。一年分か。
計算できなかった。表に書けたのは、二百位のベテランまでだ。
あの四人がどれくらい上なのかは、試合をしてみるまで分からない。
怖い、と思った。
それから少し別のことも思った。試合をしてみたい。
経験点のためだ、と自分に言い聞かせた。
空港のアナウンスが次の便の搭乗を告げた。圭が立ち上がった。
「行くぞ」
どこへ、とは聞かなかった。どうせ次の国だ。
搭乗口へ向かう通路の窓から小さな飛行機が一機、離陸していくのが見えた。
あのベテランも、明日にはどこかの国へ飛ぶのだろう。
膝に氷を当てたまま、次の町の次のコートへ。
I stay here.
夏に別の選手が言った言葉を思い出した。
あの人たちはここにいることを自分で選んでいる。
選べる人が、羨ましかった。俺がこれまでに選べたのは成長タイプくらいで、それも三択だった。
俺はここにいることを選べない。三十歳までに、上へ行かなければならない。




