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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
プロツアー・BIG4

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78/143

第78話 点数

 七月の終わり、ホテルの小さな机の上に紙を広げた。

 十九歳の誕生日の夜だった。


 ケーキはなかった。

 千夏からの国際電話と、美咲からの絵葉書と、圭の「……おめでとう」が一つ。

 それで十分だった。


 紙には表を書いていた。世界ランキングは大会で取ったポイントで決まる。


 そのポイントは一年で消える。経験点と違って、貯めてはおけない。

 毎週、去年の自分と戦っている。


 表の一番上に目標を書いた。


 四大大会の予選に出る。


 そのためには、世界ランキングでだいたい二百五十位以内に入っていなければならない。

 本戦に直接入るには百位前後。今の順位は六百位台だった。


 四月の最初の大会で優勝して九百位台、五月の大会で準優勝して七百位台、六月の大会を二つ勝って六百位台。

 このまま勝ち続ければ年末に三百位台、来年の春に二百位台。


 来年の八月の全米の予選に間に合う。


 鉛筆で「来年の八月」と書いて丸で囲んだ。

 その下にもう一行書いた。


 三十歳まで十一年。


 表の右側に年ごとの欄を作った。十九歳、二十歳、二十一歳。

 三十歳の欄まで十二列。


 十二列のどこかに、四つの丸をつけなければならない。


 八月から十月まで下の大会を回った。三か国、四週。


 六百位台になると、下の大会なら予選なしで本戦から入れる週が増えた。

 月曜に着いて火曜から本戦、日曜に決勝。日曜の夜か月曜の朝に次の国へ移る。

 移動はほとんどが夜行バスだった。


 どの会場にも客はいなかった。正確にはいた。

 選手の家族と、コーチと、クラブの会員と、たまに犬。


 四週で優勝が三つ、準優勝が一つ。


 準優勝の週の決勝の相手は二十八歳の選手だった。

 ずっとこの辺りの大会を回っていて、この町の大会には六年続けて出ているという。


 日曜の決勝には、地元の子どもたちが二十人くらいフェンスにしがみついていた。

 半分はその選手の名前を知っていた。


 一セット目は取った。六対三。

 球の速さも重さも俺の方が上だった。


 二セット目からボールが滑り始めた。


 その選手のバックハンドは低く切った球だった。

 ベースラインの手前の、塗装がすり減って白っぽくなった辺りに落とすと、球は跳ねずに前へ滑ってくる。


 同じ場所に何度でも落としてくる。

 六年分、この町のコートのどこがすり減っているかを知っている球だった。


 叩こうとした球が膝の下で滑った。

 ネットにかかった。


 膝を落として拾うと今度は浮いた。

 浮いた球は角に置かれた。


 四対六。


 三セット目は前に出ることにした。

 すり減った場所で滑る前に取ればいい。切った球が来たら跳ねるのを待たずに詰めて、ボレーで返す。


 二ゲーム続けて取れた。その選手は首をかしげて一度だけ西の空を見た。


 四対四。日が傾いて、西側のベースラインの向こうに太陽が下りてきていた。


 俺が東側に立ったゲームの三十対三十。

 切った球に合わせて前に詰めた俺の頭の上へ、その選手がロブを上げた。


 見上げると、太陽だった。


 ボールが消えた。


 次に見えたときにはベースラインの内側で跳ねていた。


 そのゲームを落として、次のゲームで終わった。四対六。


 ネットの前でその選手が笑った。


「The sun. Same time every year」


 それから俺の肩越しに西の空を指さした。


「You'll go up. I stay here」


 フェンスの外でクラブの子どもが二人、その選手の名前を呼んで手を振っていた。


 テニスで負けた気は、あまりしなかった。

 それがかえって悔しかった。


 その夜、次の国へ向かう夜行バスの中で千夏の献立表のファイルを開いた。

 国ごとのページが増えていた。


 三月に校門で受け取ったときには五つの国だったのが、今は九つある。


 大会の会場には日本からの封筒がときどき届く。

 中には新しいページが一枚か二枚。市場の写真を送った国の分で、写真に写っていた野菜や魚の名前が三つの言葉で書いてある。


 千夏は東京の大学の図書館の机で、この国々の市場を調べていた。


 どの国のページも角が手垢で黒くなっていた。


 夜行バスが大きく揺れた。隣の席で圭が腕を組んだまま眠っていた。

 この人はどこでも眠れる。四十を過ぎても夜行バスの座席で背筋を伸ばしたまま眠る。


 現役の頃もこうして下の大会を回っていたのだろうか。

 聞かなかった。聞いたところで、答えは一つしか返ってこない人だ。


 九月の夜、ホテルの部屋でまた紙を広げていた。今度はポイントの計算だった。


 来週の大会で準決勝まで行けば何ポイント、優勝すれば何ポイント。

 去年の同じ週に取ったポイントはない。


 去年の今頃はまだ高校の教室で英語の音読をしていた。

 だから取った分だけ全部上がる。


 再来週は。その次は。

 年末までにあと何ポイント、来年の春までにあと何ポイント。

 欄を埋めていくたびに来年の八月の丸が少しずつ近づいてくる。


 面白かった。経験点の欄を眺めるのと同じ面白さだ。

 数字が並び、並んだ数字が先の日付と結びついて、その日付に自分が立っているのが見える。時計は見なかった。


 ドアがノックされた。開けると、寝間着の圭が立っていた。

 隣の部屋の明かりがまだついているのが、壁の隙間から見えていたらしい。


 圭は部屋の中を見て、机の上の紙と、鉛筆と、消しゴムのかすの山を見た。

 それから俺の顔を見た。


「……寝ろ」


 それだけ言って圭はドアを閉めた。

 廊下を戻るスリッパの音が隣の部屋の前で止まった。


 時計を見ると午前二時を回っていた。


 机に戻って鉛筆を一本だけ削った。

 削り終えたところで、壁の向こうから咳払いが一つ聞こえた。


 明かりは壁の隙間から見えている。そういえば、そうだった。


 電気を消した。目を閉じても数字はしばらく並んだまま消えなかった。

 寝ろ、と言われて寝られるなら苦労はない。


 十月の終わり、ホテルのロビーのパソコンで、世界ランキングを開いた。


 画面を下に流した。百位。二百位。三百位。


 三百四十二位に自分の名前があった。


 TAKUMA NIWA。JPN。


 計算どおりだった。

 七月の表の十月の欄に書いた数字と違うのは四つだけで、それも四つ上だった。

 誤差としては、ありがたい方の誤差だ。


 ロビーのソファで圭が英語の新聞を読んでいた。

 読めない単語があっても辞書は引かない。分かるところだけ読む。


「三百四十二位」


 圭は新聞から顔を上げなかった。


「……そうか」


 それだけだった。この人は順位の話をしない。上がっても下がっても「そうか」としか言わない。


 あと九十二人。来年の八月までに抜けば、全米の予選に届く。


 その夜、部屋のテレビをつけるとヨーロッパの室内の大会をやっていた。

 ツアーの上の方の大会で、客席が暗くコートだけが青く光っている。


 前世の記憶の四人は名前では探せない。

 この世界の四人は前世と同じ名前ではないかもしれず、見分けるにはテニスを見るしかない。

 だからテレビに試合が映るたびに、名前ではなく打ち方を見てきた。


 画面の手前の選手がフォアを打った。

 打ち終えたラケットが頭の後ろで一拍止まる。


 リモコンを置いた。


 去年の六月、英国の金網の向こうで見た一拍だった。


 そこから一セット、その男だけを見た。

 サーブにも、リターンにも、足にも穴がない。

 速い球にも遅い球にも、打たれる前にそこにいる。全部が揃っている男だった。

 残りの三人は、まだ一度も画面に映っていない。


 ゲームの合間に画面の下へ名前が出た。英国のドロー表で見た綴りだった。

 実況がその名前を読み上げた。


 綴りしか知らなかった名前にやっと音がついた。

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