第77話 献立表
五月、二つ目の国に移った。
深夜の空港に着いたのは午前二時だった。
乗り継ぎの便が四時間遅れ、入国審査の列に一時間並び、荷物が出てくるまでさらに一時間。
宿に着いたときには空が白み始めていた。
大会の予選はその日の午後からだった。
宿の食堂で朝食を頼むと、白い粥のような米が出てきた。
粥ではなく、普通に炊いた米らしい。
ただ水が多すぎて粒の形がほとんど残っておらず、スプーンですくうと、とろりと垂れる。
ファイルを開いた。献立表・海外版。
この国のページには、千夏の字で、材料の名前がこの国の言葉と英語と日本語で並んでいた。日本語の列を読む。
鶏肉。卵。鮭。米。バナナ。鮭の横に小さく「缶詰でも可」と書いてある。
食堂の棚に缶詰はなかった。市場にも鮭はなかった。
この国の市場には、見たことのない魚が氷の上に並んでいた。
名前の分からない魚で、身が白いのか赤いのかも、外からは分からない。
千夏の献立表は図書館で調べた材料で組まれている。
図書館の本の中の市場と本物の市場は、違った。
向かいの席で圭がとろとろの米を黙って食べていた。
「……食え」
スプーンを置かずに言った。
「食えるものを」
それが今日の一つだった。
食べた。水の多い米は胃の中ですぐに消えた気がした。
その日の午後、予選の一回戦に勝った。
夜になってもスタミナの左の数字が戻っていなかった。
練習のあとなら一晩で戻る数字だ。
今日は試合を一つしただけなのに、三つ下がったままだった。
眠れていない。食べられていない。
経験点の法則は日本と同じだったが、身体を戻す仕組みの方はこの国ではうまく回っていないように見えた。
予選を抜けた。本戦の準々決勝の朝、腹が痛くなった。
夜中の三時に目が覚めてトイレに四回行った。
朝になっても止まらない。
市場で買った果物か、屋台の水か、とろとろの米か。
試合は午前十一時からだった。
スタミナの左の数字は、一晩でさらに五つ下がっていた。
パワーも二つ、スピードも二つ。ベッドの端に座ってしばらく床を見ていた。
ドアがノックされた。圭だった。
俺の顔を見て、部屋の中を見て、トイレのドアが半分開いているのを見た。
「……無理なら、やめろ」
圭はドアの枠に手をかけたまま言った。部屋の中には入ってこなかった。
「やめません」
圭はそれ以上は言わず、自分の部屋に戻って何かを持ってきた。
粉末のスポーツ飲料の袋だった。
千夏が補食の袋に入れていたもので、英国のときと同じく日付が書いてある。
日付は明後日の分だった。
「明後日の分を、今日飲めば、同じだ」
英国の宿で干し芋を食べたときと同じことを言った。
今度は俺の分だった。
試合は勝った。六対四、七対五。
二セット目は足が何度も止まった。
止まるたびに回転の多い遅い球を相手のバックの高いところへ返した。
速く打ち返すには自分で力を足さなければならない高さだ。相手に打たせて、打ち損じるのを待った。
小学生の頃に縛りの中で覚えた、自分から打たずに相手に打たせる戦い方だ。
あの頃は強すぎる自分を隠すために使い、今日は弱っている自分を隠すために使っている。用途の幅が広い。
翌日の準決勝は足が動かなかった。
一セット目を落として、二セット目と三セット目は覚えていない。
覚えているのは、最後のポイントのあと、ベンチに座ったまましばらく立てなかったことだけだ。
勝っていた。六対七、七対五、六対四。
決勝の二セット目、一対四で相手が短いドロップショットを打ってきた。
いつもなら届く球だった。出ろと思ってから足が出るまでが長く、ボールは二度跳ねてラケットの先を転がっていった。
一対六、二対六。プロになって初めての負けだった。
相手が強かったわけではない。崩れていたのは俺の方だ。
握手のあと、ベンチで靴ひもを結び直した。ほどけてはいなかった。
決勝の夜、宿のフロントの電話で千夏の家に国際電話をかけた。
日本は夜の九時で千夏が出た。
「脚は?」
挨拶より先に、それだった。
「……重い」
「どのくらい」
「今までで、一番」
受話器の向こうでノートをめくる音がした。
「何があったの」
全部話した。とろとろの米。鮭のない市場。
夜中の三時の腹痛。明後日の分の粉のスポーツ飲料。
千夏は途中で一度も口を挟まず、ときどきペンの走る音だけがした。
話し終わると、千夏が言った。
「鮭がないなら、市場に何がある?」
「……魚。名前は分からない」
「白身? 赤身?」
「分からない。切ってないから」
「切ってもらって。身の色を見て。白かったら、焼いて。赤かったら、火をよく通して」
「うん」
「鶏肉は、ある?」
「ある。屋台で焼いてる」
「屋台はやめて。市場で買って、宿の台所、借りられる?」
「……聞いてみる」
「米は?」
「水が多い」
「じゃあ、米はやめて、パン。パンがなかったら、芋。芋、ある?」
「ある。紫のやつ」
「紫でいい。蒸して、塩」
千夏は次々と材料を言い換えていった。
図書館の本の中の市場ではなく、今、俺がいる市場の材料で。
果物は皮を自分でむけるものだけ、水は封の切っていない瓶だけ。
受話器の向こうでノートのページが何度もめくられた。
「大学の図書館、明日行って、その国の食べ物の本、探す」
「大学、始まったばかりだろ」
「始まったから、図書館が使えるの」
千夏は去年の一月から同じことを言っていた。
「……次の国は?」
国の名前を言うと、千夏はすぐに続けた。
「そこの市場の写真、撮って送って。郵便で。一枚でいいから」
「写真」
「本より、写真の方が分かる」
千夏の声は少しも揺れていなかった。
東京の大学に通い始めて、まだ一か月だ。
電話代の表示がどんどん増えていった。切りたくなかった。
翌朝、宿の台所で白い身の魚を焼いた。
台所を借りるのに、宿の主人にいくらかお金を払った。
市場で魚を切ってもらうと、身は白かった。
千夏の言ったとおり焼いて塩を振り、紫の芋を蒸して、それにも塩を振った。
圭が台所の入口に立っていた。
「……俺は、屋台で食ってくる」
圭は昨日の夜から現地の料理に挑んでいた。
俺が腹を壊した理由を確かめたいのだと言う。
同じものを食べれば何が悪かったのか分かる。理屈としては正しかった。
圭は、屋台の麺と、焼いた串と、色の濃いスープと、果物を切ったものを食べて帰ってきた。
その夜、夜中の二時に隣の部屋のドアが開く音がした。
廊下を走る音。トイレのドアが閉まる音。しばらくしてまた開く音。
走る音。閉まる音。
明け方までに、六回だった。
朝、食堂に下りていくと圭がテーブルに突っ伏していた。
顔色が壁の色と同じだった。
「……おはようございます」
圭は顔を上げなかった。
テーブルに突っ伏したまま、右手の人差し指を一本だけ立てた。
「一つだけ言う」
声がかすれていた。
「……屋台は、やめろ」
「知ってます」
「……知ってたか」
「千夏に、言われました」
圭はそのまましばらく動かず、それからテーブルの上の俺の皿を見た。
白い身の魚と、紫の芋。
「……それは、千夏のか」
「千夏の、言い換えです」
圭はまた突っ伏した。
千夏の日付の袋から粉のスポーツ飲料を一つ出して圭の前に置いた。
今日の日付の分だった。
「今日の分を、今日飲めば、同じです」
圭の肩が少し揺れた。笑ったのか腹が痛いのかは、分からなかった。
その日から、朝と夜は宿の台所で作った。
スタミナの左の数字は三日で元に戻った。
生活も練習だ。千夏は高校の三年間、ずっとそう言っていた。
柏にいる間、その練習だけは、俺は一度もしていなかった。
次の国の市場の写真は、着いた日に撮ることにした。
空港の売店で、使い捨てのカメラを三つ買った。




