第76話 最下位
最初のプロの大会は東南アジアの港町だった。
空港の到着口でマスクをした係員に額で熱を測られた。成田のテレビで毎日聞いた肺炎の話は、ここでは机一つ分の手続きだった。
空港からバスで二時間、会場は町外れの市営のテニスクラブで、ハードコートが六面。
フェンスの網はところどころ錆びて穴が開いていた。
受付はクラブハウスの一階の折りたたみの机だった。
扇風機が一台首を振っていて、机の上にドロー表が画鋲で留めてある。
本戦が三十二人、予選が六十四人。
俺の名前は予選の表の一番下の方にあって、ランキングの欄が空白だった。
世界ランキングを持っていない選手は予選の一番下から始まる。
この大会に出る全員の中で俺より下はいない。世界の最下位だ。
下から数えるなら一位なのだが、そういう数え方をしてくれる人はいない。
「名前、ここ」
受付の女の人が英語で言ってペンを差し出した。
サインをしても表示は何も浮かばなかった。予選はまだ大会の外側らしい。
圭が横からドロー表を覗き込んでいた。
「……勝って当然だ」
一つだけ言う、とは言わなかった。言わなくても一つだった。
予選の一回戦は朝の八時からだった。
客席はコートの横のベンチが二つで、座っていたのは相手のコーチと、クラブの会員らしい老人と、野良犬が一匹。
縛りはもうない。
小学生の頃から試合のたびに一番低い項目だけで戦ってきて、高一の秋の大阪で初めて外した。
ここから先は外したままだ。見られてもいいし、見られても勝つ。
予選の三試合はどれもストレートで勝った。
三試合目が終わると、ベンチの老人が野良犬の頭を撫でながらこちらに小さく手を叩いた。
それがプロになって最初の拍手だった。
本戦の一回戦のコートに入ったところで、視界の端に表示が浮かんだ。
【MISSION】
・プロの大会に出場する 達成
パワー +20
スタミナ +18
大阪の国際ジュニアより多い。一番下でもプロはプロらしい。
大阪の帰りから一覧の一番上にあった行が、町外れのクラブのコートで一つ消えた。
相手は二十代の半ばくらいの地元の選手だった。
日に焼けた腕に使い込んだラケットを持ち、フェンスの外には家族らしい人が五人並んでいた。
試合は一時間で終わった。六対二、六対三。
最後のポイントのあとにもう一つ表示が浮かんだ。
【MISSION】
・プロの大会で初勝利する 達成
テクニック +14
ネットの前で握手をした。相手は泣いていなかった。
市の大会で負けた小学生は顔を覆ったが、この人はまっすぐ俺の目を見た。
「Next, where?」
どこから来たか、ではなかった。
「……I haven't decided」
本当は事業計画書の三枚目に書いてある。
けれど、この人に言うことではない気がした。
「I'll go north. Maybe we meet again」
相手はそう言って家族の方へ歩いていった。負けた直後に、次の大会の話である。
決勝の相手はこの大会の第一シード、三百位台の選手だった。
フォアが武器で、バックに来た球も回り込んでフォアで打つ。回り込むたびにコートのフォア側が空いた。
一セット目は回り込まれるたびにバックの角へ打ち込まれ、四対四まで競った。
そこからは、回り込める高さの球をわざと相手のバックへ返した。
来る場所が分かっていれば待てる。打たせた場所だからだ。
相手が回り込んだときには、俺はもうバックの角へ一歩入っていた。打ち込まれた球を空いたフォア側へ真っすぐ返す。
相手は回り込んだ足のまま見送った。
二セット目の五対二のマッチポイントも同じ形だった。
相手は最後まで回り込むのをやめなかった。それがこの人の武器だったからだ。
六対四、六対二。
表彰式はクラブハウスの前の芝生で、クラブの会長が小さなトロフィーと封筒を一つくれた。
【MISSION】
・プロの大会で優勝する 達成
コントロール +22
レスポンス +20
一週間で三行。一覧が急に軽くなった気がした。
その夜、安宿のフロントの横の電話を借りた。
国際電話のかけ方は、フロントの男の人が身振りで教えてくれた。
本家の番号を押す。日本は夜の十時を過ぎていた。
呼び出し音が五回鳴った。
「はい」
「おじさん」
「ああ、ちび。どうだった」
「優勝した」
「へえ」
受話器の向こうで新聞をめくる音がした。
悠蔵は優勝と聞いても声の調子を変えなかった。
「で、いくら損したの?」
いくら得したの、とは聞かない。この人は最初から分かっている。
優勝の封筒には、現地のお金で賞金が入っていた。
日本円に直すと十四万円と少し。
宿代が一泊二千円で、九泊で一万八千円、圭の分と合わせて三万六千円。
航空券が行きの分だけで二人で十二万円。
そこにバスと食事とガットの張り替えが乗る。
試合のボールは大会が出してくれたが、練習用のボールは自分たちで買った。
航空券は最初から出ていく金だから数えないことにして、残りを全部足し、封筒の中身から引いた。
「宿代の分だけ、得した」
受話器の向こうがしばらく静かだった。
それから悠蔵が喉の奥でくっくっと笑った。
「それは、得って言わないよ」
「言わない?」
「航空券の分、損してる」
「帰りの航空券は、まだ買ってない」
「買ってないから損してない、は、もっと言わない」
悠蔵はまだ笑っていた。
「優勝して、宿代。いいね。事業計画書の十枚目、ほぼ当たってる」
「読んだの」
「読んでないよ。和人から聞いた」
父はあの十四枚を悠蔵に説明したらしい。言うときは全部言う人だ。
「まあ、いいんじゃない」
悠蔵の声が、そこだけ柔らかくなった。
「一つ目にしては、上出来だよ。ちび」
電話を切ったあと、フロントの男の人に電話代を払った。
電話代は宿代の一泊分より高かった。
得した宿代の一泊分が、消えた。
安宿の部屋は三畳ほどの広さで、ベッドが一つと天井の扇風機があるだけだった。
窓の外で夜市の音がしていて、圭は隣の部屋でもう寝ていた。
ベッドに横になってミッション一覧を開いた。
■ミッション一覧▽
・ツアーの本戦に出場する▽
・ツアーの本戦で初勝利する▽
・四大大会に出場する▽
今週出たのはプロの一番下の大会だ。
この上にもう一段上の大会があり、その上にツアーの本戦、ツアーの一番上に四大大会がある。
三行目に、四大大会の四文字が見えていた。
一覧を一番下まで流すと、離れたところに一つだけ残っている欄がある。
■最終ミッション▽
達成条件
四大大会全制覇
達成期限
三十歳
成功報酬
失敗ペナルティ
心停止
期限は十一年と三か月。報酬の欄は今夜も空白のままだった。
今日の優勝で世界ランキングがつく。たぶん九百位くらいだ。
天井の扇風機が軋んだ音を立てて回っていた。
眠れないまま、決勝の最後のポイントを頭の中でもう一度打った。回り込ませて、空いた方へ。
握手のとき、あの第一シードは笑って言った。
「See you up there」
三百位台の選手が、九百位の十八歳にそう言った。
この人より上へ、その上の人たちより上へ、四人のいる場所まで。




