第8話 十七歳の芝
夏の夜だった。
一歳の誕生日をあと少しで迎える頃。
俺は夜中にふと目を覚ました。
居間の方から光が漏れている。
テレビの青白い光だ。音はかなり絞ってある。
布団を抜け出した。
もうこのくらいの距離なら音を立てずに這える。周回で鍛えた賜物だ。
居間の入口から覗くと父親がテレビの前であぐらをかいていた。
手元には缶ビール。もう片方の手には団扇。
画面には緑色の地面が映っていた。
芝だ。
一面の鮮やかな緑。その上に白いラインが引かれている。
人間が二人、その両端に立っていた。
テニスだった。
「……お、起きたのか」
父親が気づいた。
怒られるかと思ったが、父親は少し困った顔をして、それから手招きをした。
「まあ、いいか。ちょっとだけな。母さんには内緒だぞ」
俺は父親の膝に這い上がった。
父親は俺を膝の上に座らせ、団扇で俺の方を扇いだ。
「ウィンブルドンっていうんだ。イギリスでやってる、テニスで一番すごい大会。今、決勝」
知っている。
四大大会の一つ。俺が三十歳までに勝たなければならない四つの一つ。
この世界で初めて見る、グランドスラムだった。
画面の中で一人の選手がサーブを打った。
速い。
小さなテレビの画面ではボールがほとんど見えなかった。打った、と思った次の瞬間には、もう相手の後ろの壁に当たっている。
観客席から拍手が湧いた。
「今打ってる方な、十七歳なんだってよ」
父親が言った。
「西ドイツの。シードもついてない、ノーシードってやつだ。それが、決勝まで来ちまったんだと。すごいよなあ」
十七歳。
画面の中の少年を見る。
大柄な身体。けれど顔は確かにまだ少年のものだった。前世の感覚で言えば、高校生だ。
その高校生が芝の上を走っている。
相手の打った球がコートの端に向かって沈んでいく。
届かない、と思った。
少年が跳んだ。
横っ飛び。
身体ごと芝の上に投げ出してラケットを伸ばす。ボールがラケットの先に当たってネットを越えた。
相手が一歩も動けなかった。
少年は芝の上に転がり、白いウェアが緑に汚れた。
起き上がりながら、笑っていた。
観客席が揺れた。
「うわ、今の見たか、琢真!」
父親が身を乗り出した。
俺も身を乗り出していた。
見た。けれど、自分が何を見たのかが分からない。
あれは何だ。
パワーではない。スピードでもない。レスポンスでも、コントロールでもない。
いや、全部なのかもしれない。全部が同時にあの一瞬に詰め込まれていた。
手足をばたつかせて、鳥を追って、廊下を這って、一年かけて積み上げたのはG3やG2の数字だ。
画面の中の少年の数字はいくつなのだろう。
八十か。九十か。
見当もつかなかった。
試合は長かった。
一セットを取り、一セットを取られ、また取る。
少年はサーブを打つと、そのままネットへ突っ込んでいく。返ってきた球を走りながら叩き落とし、届かないはずの球にまた跳ぶ。白いウェアは、もう半分ほど緑だった。
少年がサーブを打つたびに観客が息を呑み、相手がリターンを決めるたびにため息が漏れる。
父親はいつの間にかビールを置いていた。
団扇も止まっていた。
俺は画面の中のボールを目で追い続けた。
レスポンス +1
……入った。
テレビの画面の中のボールでも目で追えば経験点が入るらしい。
レスポンス +1
効率はベビーメリーの鳥よりも悪かった。
世界最高峰の決勝戦が、ベビーメリーに負けている。
前世の時代のテレビは、壁一面の薄い板だった。あれならボールの縫い目まで見えたはずだ。
この家のテレビは分厚い木目調の箱で、上に母親の編んだレースが敷いてある。
画面の端へ行くとボールが少しだけ伸びて見えた。
二〇二〇年代の薄型テレビを知っている人間が、一九八五年のブラウン管で世界最高峰の決勝を見ている。
贅沢なのか、貧乏なのか、よく分からない状況だった。
それでも俺は目を離さなかった。
経験点のためではなかった。
ボールが行って戻ってくる。
芝の上で二人の人間が、たった一つのボールを奪い合っている。
前世ではチャンネルを変える途中で数秒眺めるだけのものだった。
あのときの俺はこれが何なのか、まるで分かっていなかった。
最後のポイントがどう決まったのか。
正直に言えば、よく見えなかった。小さな画面の中でボールが行って、戻って、どこかで止まった。
少年が両腕を突き上げた。
芝の上に膝をつき、空を見上げる。
観客席が立ち上がった。
テレビのスピーカーから割れんばかりの歓声が溢れた。音を絞っていたはずなのに、居間の空気が震えるほどだった。
「勝った……」
父親が呟いた。
「勝っちまったよ、十七歳が。ウィンブルドンで。史上最年少だってさ」
父親はなぜか少し泣きそうな顔をしていた。
関係のない国の、関係のない少年の優勝で。
俺は画面の中の少年を見ていた。
トロフィーを掲げている。金色の大きなカップ。
十七歳。
計算する。
今、俺は一歳になる直前。十七歳まであと十六年。
十六年後の俺は、あの場所に立てるだろうか。
立てなくても死にはしない。
期限は三十歳だ。十七歳で勝つ必要はない。
けれど。
あの少年は十七歳で、あの場所の頂点に一度立った。
俺は三十歳までに、四つの大会で、同じ場所に立たなければならない。
頭では分かっていたつもりだった。グランドスラムは遠い、と何度も思ってきた。
今夜初めて、その遠さを目で見た。
遠い。
どうしようもなく、遠い。
それなのに。
気がつくと父親の膝の上で足をばたつかせていた。
とっくに経験点の入らなくなった、生まれて三か月の頃の動作だった。
「……あなた」
背後から低い声がした。
父親の背中がびくりと跳ねた。
振り返ると、寝間着姿の母親が居間の入口に立っていた。
腕を組んでいる。
「今、何時だと思ってるんですか」
「いや、これは、その、ウィンブルドンの決勝で」
「琢真まで起こして」
「俺が起こしたんじゃない、こいつが勝手に起きてきて」
「言い訳は結構です」
父親は膝の上の俺を見下ろした。
助けを求める目だった。
俺はすっと目を閉じた。
寝たふりである。
「……裏切ったな、琢真」
母親は俺を父親の膝から抱き上げ、寝室へ運んでいった。
廊下の途中で母親が小さく呟いた。
「……十七歳、勝ったんですね」
寝たふりの俺の背中を、母親の手が一度だけ軽く叩いた。
布団に寝かされたあとも俺はしばらく目を開けていた。
【STATUS】を開く。
■コート適性▽
グラス G 1 / 1▽
クレー G 1 / 1▽
ハード G 1 / 1▽
グラス。芝。
今夜、初めて見た。
G1。
あの少年が跳んだ芝の上を、俺はまだ一歩も歩けない。
そもそも、まだ居間の床すら一人では歩けないのだ。
……まずはそこからか。
俺は目を閉じた。
眠りに落ちる直前まで、瞼の裏の芝は鮮やかな緑色のままだった。
翌朝、食卓で父親が新聞を広げていた。
目の下に、はっきりと隈がある。
母親は父親の前にいつもより濃いお茶を置いた。何も言わずに。
父親はスポーツ面を探して、小さく舌打ちをした。
「……載ってない。一時過ぎじゃ間に合わないか」
夕方、帰ってきた父親が玄関で夕刊を開いた。
「おい、載ってるぞ」
父親がスポーツ面をこちらに向けた。
白黒の写真。トロフィーを掲げる少年。
「十七歳、ウィンブルドン制覇、だってさ」
俺は父親の膝によじ登って写真を見た。
小さな白黒の写真では、芝の緑も、ウェアの汚れも分からない。それでも、あの夜の少年だとすぐに分かった。
俺は写真を指で押さえた。
離さなかった。
「……なんだ、気に入ったのか?」
父親はしばらく俺と写真を見比べていた。
それから台所からはさみを持ってきて、その記事を切り抜いた。
「ほら。やるよ」
切り抜きはその夜のうちに居間の柱に画鋲で留められた。
ちょうど俺がつかまり立ちをすると目の高さに来る位置だった。
「あなた、柱に画鋲なんて」
「いいだろ、一枚くらい。こいつ、テニス好きなのかもしれないぞ」
「一回見ただけじゃないですか」
「一回見て、あんな顔するやつはなかなかいないって」
父親は少し得意げだった。
母親はため息をついてそれ以上は何も言わなかった。
それから毎日、俺は柱の前でつかまり立ちをした。
目の前にトロフィーを掲げた少年がいる。
立ったり、座ったり。
立つたびに、少年と目が合う。
スタミナ +1
柱の切り抜きはベビーメリーの鳥よりも、ずっとよく効いた。




