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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
高校・世界への準備

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第73話 ぜんぶ

 十月の土曜日の夜、丹羽家の茶の間に座布団が六枚並んだ。

 父と母と美咲。悠蔵と圭。そして、俺。


 呼んだのは俺だった。悠蔵は本家から来て、圭はセンターの帰りに寄った。

 祖父が会長に退いた年から、悠蔵は本家の離れで寝起きしている。

 二人とも呼ばれた理由を聞かなかった。

 父と母の顔は、見当をつけている顔だった。


 美咲は見当どころか、理由を知っている顔をしていた。


 母がお茶を六つ置いて全員が座った。


 からあげの夜、美咲に聞かれて、なる、とは答えていた。

 けれど、座布団を並べて自分から正式に言うのは、今日が初めてだった。

 言うことは決めてあった。


「卒業したら、プロになる」


 一度聞いたことのある言葉のはずなのに、茶の間が静かになった。

 美咲が湯のみを持ったまま小さくうなずいていた。


 父が湯のみを置いた。ゆっくりと座り直して背筋が伸びる。

 銀行員の顔だった。

 窓口の向こうに座る人の顔ではなく、奥の机で融資の書類を読む人の顔だ。


「収入の見込みは」


 父の声は平らだった。


「最初の一年は、ほとんどない。下の大会の賞金は、宿代と移動費で消える」


「二年目は」


「順位による。四大大会の予選に出られる順位まで上がれば、予選に出るだけで、少し入る」


「その順位まで、何年だ」


「一年半から、二年」


「失敗したときの計画は」


「失敗の定義による」


「定義しろ」


 父の目は動かなかった。


 この人は毎日こういう質問をしている。町工場の社長に、商店街の店主に。

 借りた金をどうやって返すのか、返せなかったらどうするのか。


 息子にも同じ質問をして、手加減をしていない。

 町工場の社長と同じ扱いをされているのは、光栄と思っていいのだろうか。


「……二十五歳の時点で、四大大会の本戦で勝てていなければ、失敗」


「そのあとは」


「そのあとも、続ける」


「失敗なのにか」


「失敗でも、続ける」


 父が黙った。


 三十歳までは、やめられない。やめれば心停止だ。

 それは言えない。


 父はしばらく俺の顔を見てから言った。


「書類にしろ」


「書類?」


「事業計画書だ。収入の見込み、費用、期間、失敗の定義、失敗したときの計画。全部、紙にして持ってこい」


 美咲の湯のみが、座卓の上で小さく音を立てた。


「一週間やる」


 父は湯のみを取ってお茶を飲んだ。母が隣でそっとため息をついた。


 一週間後、同じ茶の間に同じ六人が座った。


 父の前に紙の束を置いた。表紙のほかに十四枚あった。

 表紙に事業計画書と書いて、その下に丹羽琢真と書いた。


 父が表紙をめくった。


 一枚目は目的。四大大会で勝つ。期限、三十歳。

 期限の理由は書かなかった。

 ただ、テニス選手の身体が一番動く年齢はだいたい三十歳前後までだと、一行だけ書き添えた。

 それは嘘ではない。


 二枚目から五枚目は、最初の三年間の予定表。

 下の大会の日程、行く国、移動の方法、宿の目安。


 六枚目から九枚目は費用。

 航空券、宿、食事、ガット、ラケット、コーチの費用。


 国ごとの物価の違いまで分かる範囲で調べた。


 十枚目は収入の見込み。十一枚目は失敗の定義。

 十二枚目と十三枚目は、失敗したときの計画。


 十四枚目は借りる金の返し方。


 父は一枚ずつ黙って読んだ。

 ときどき胸ポケットの赤いボールペンを出して何かを書き込む。


 茶の間は紙をめくる音だけだった。


 十二枚目で父の手が止まった。


 失敗したときの計画。二十五で線に届かなければ、回る大会の格を下げて、費用を半分にする。足りない分は国内の大会とクラブの指導で埋める。三十まで出場は続ける。借りた金は、その間も月ごとに返す。


 父は十二枚目と十三枚目をほかのどの紙よりも長く読んだ。

 それから十四枚目まで読んで赤ペンを置いた。


「……失敗しても、続けられるようにしてあるんだな」


「うん」


 父はうなずいて、赤ペンをもう一度取った。


「……利息の計算が、甘い」


「利息」


「兄貴から借りるんだろう。身内でも、借りるなら利息を払え。年利の書き方が、途中から変わってる」


「……ごめん」


「九枚目の為替も甘い。一ドル百二十円で固定してるが、三年先の為替なんか誰にも分からん。幅を持たせろ」


「分かる人がいたら、その人に借りる」


「いない。だから幅だ」


「六枚目の航空券は、早めに買えば安くなる。それが入ってない」


「うん」


「十一枚目の失敗の定義は、いい。二十五で線を引くのは、いい」


 父は言いたいことを全部言っていた。

 藤代圭の最後の全日本へ向かう車の中でも、この人は言わなくていいことまで全部言った。


 それから父は紙の束を揃えて、角を机の上でとんとんと二回叩いた。


「分かった」


 顔を上げた。


「行け」


 母が隣で小さく笑っていた。美咲が父の手元の紙を覗き込んでいた。


「お父さん、赤ペンで、はなまる描いてる」


 父は慌てて紙を裏返した。裏返す前に見えた。

 十四枚目の端に、小さな赤い丸が一つ。花びらが三枚だけ描きかけてあった。


 銀行で稟議を通すときの癖なのか、それとも、銀行には持っていかない種類の丸なのか。

 聞かなかった。


 父が紙を裏返したあと、茶の間の空気が少しゆるんだ。

 悠蔵が座布団の上で足を崩した。


 この一週間、悠蔵は何も言わなかった。

 事業計画書の十四枚目、借りる金の返し方の欄に、悠蔵の名前を書いた。

 書く前に電話で聞いた。


「おじさんの名前、書いていい?」


「いいんじゃない」


 悠蔵は胸ポケットから黒い革の手帳と鉛筆を出した。

 角がすっかり丸くなった、あの手帳だった。


「で、いくらかかるの?」


 美咲が父の前の紙の束と悠蔵の顔を見比べた。


 父の前の十四枚に全部書いてある。費用の欄を読めば数字はある。

 悠蔵はそれを読まずに聞いていた。


 縁側で寝転んでいたこの人の横に、蕪を抱えて座った正月があった。

 あの日から、この人はいつもこの言葉から始めた。


 でいくらかかるの。でいくら損するの。


 答えは一つしかなかった。


「ぜんぶ」


 悠蔵が手帳を持ったまま止まった。


「……ぜんぶ」


「ぜんぶ」


 十四枚の数字の全部。三年間の全部。

 ついでに言えば、この先の十二年の全部だ。


 悠蔵はしばらく俺の顔を見ていて、それから喉の奥で、くっくっと笑った。

 鉛筆の先が手帳の上で一度浮いて、そのまま下りてこなかった。


「そう来るか」


「そう来た」


「ぜんぶね」


「ぜんぶ」


「まあ、いいんじゃない」


 悠蔵は手帳を閉じて胸ポケットに戻した。何も書かなかった。

 この人が数字を聞いて、手帳に何も書かなかったのは、初めてだった。


 父が裏返した紙の上に湯のみを置いた。


「兄貴。利息は、ちゃんと取ってくれ」


「取るよ」


 悠蔵はあっさり言った。


「ちびの計算、甘いから。僕が直しとく」


 丹羽家の男は計算が甘い人間を放っておけないらしい。


 話が終わりかけたとき、母が立ち上がった。

 茶の間を出て、廊下の奥の寝室の押し入れを開ける音がした。


 戻ってきた母は、細長い古いラケットケースを抱えていた。

 ファスナーが途中で一度引っかかり、母はそれを二回揺らして開けた。


 中から木のラケットが出てきた。


 知っていた。四歳になる前の夏、この押し入れからこのラケットが出てきた。

 母が大学のサークルで二年だけ使ったという木のラケットで、四歳の手には重すぎて振れなかった。


 母がガットに指を当てた。


「すっかり緩んでますねえ」


 それから俺の方へケースを向けた。


「これ、持っていきますか?」


 持っていっても使えない。

 今の俺のラケットとは、重さも面の大きさもまるで違う。


「……使えないけど」


「使わなくていいんですよ」


 母はケースのファスナーをまたゆっくり閉めた。


「荷物のどこかに、入れておいてください」


 入れておいて何になるのかは言わなかった。

 母はケースを俺の膝の上に置いた。


 重かった。四歳のときよりずっと軽く感じるはずの重さが、ちゃんと重かった。


「持っていく」


「そうですか」


 母はそれだけ言って、台所へお茶を淹れ直しに行った。


 茶の間の隅では、圭が座布団に正座したままずっと黙っていた。

 この一週間、圭も何も言わなかった。


 事業計画書の六枚目、コーチの費用の欄に圭の名前を書いてよいかどうかは、まだ聞いていない。

 聞けば一つが二つになる。それでも今日、この茶の間で聞くつもりだった。


 顔を上げると、圭が先にこちらを見ていた。


「一つだけ言う」


 茶の間の全員が圭を見た。圭は湯のみを置いた。


「……一緒に行く」


 美咲が小さな声で言った。


「……二つ目、ないの?」


「ない」


 圭は立ち上がった。

 玄関で靴を履きながら、振り返らずにもう一言だけ言った。


「……米は、硬くても食え」


 二つ目があった。美咲が茶の間で声を出さずに笑っていた。

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