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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
高校・世界への準備

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第74話 出発

 三月の卒業式は雨だった。体育館の屋根を細かい雨が叩いていた。


 指の付け根まであったブレザーの袖は、手首の骨のところで止まっていた。

 母の見立ては三年かけてちょうどになった。


 式が終わって昇降口を出た。入学式の日、ここで道が二つに分かれていた。

 右が本校舎、左が渡り廊下。


 今日はどちらにも曲がらずに、傘をさして校門まで歩いた。


 校門の前で千夏が待っていた。

 紺の傘で、スポーツバッグの代わりに紙袋を提げていた。


「はい」


 差し出された紙袋の中には布の袋が一つとファイルが一冊入っていた。


 布の袋は最初の二週間の分の補食。

 日付ごとに小分けにして、袋の一つ一つに千夏の字で日付が書いてある。


 英国のときと同じやり方だった。


 ファイルの表紙には、献立表・海外版、と書いてあった。


 中は国ごとに分かれていた。タイ、インドネシア、フィリピン、中国、韓国。

 春から夏にかけて回る予定の下の大会がある国だった。


 事業計画書の三枚目は、父に見せる前に一度だけ千夏にも見せた。

 国の名前はそれだけで全部覚えていた。


 スーパーや市場で手に入る材料の名前が、国ごとにその国の言葉と英語と日本語で並んでいた。


「向こうの材料で作れるやつ、書いといた」


「……全部、調べたの」


「図書館で。大学の図書館、四月から使えるから、そっちでもっと調べる」


 千夏は傘の柄を肩に乗せた。


「四月から、あたし、東京に通う」


「うん」


「栄養の学科」


「知ってる」


「ちゃんと、四年やる」


「それも知ってる」


 大事なことは二回言う人だった。


「ありがとう」


 ファイルを紙袋に戻した。千夏はうなずいた。


「脚、電話で聞くからね」


「軽いか、重いか」


「それだけでいいから」


 千夏は傘の先で足もとの水たまりを一度つついた。


「……お父さんも、また行くんだ」


「うん」


 千夏はそれ以上、何も言わなかった。


 そのまま校門の外の道を駅の方へ歩いていった。

 紺の傘が雨の向こうへ小さくなっていった。


 四月の初め、成田空港の出発ロビーは朝から混んでいた。


 マスクをしている人が多かった。

 アジアのどこかで重い肺炎が流行っていると、テレビのニュースがこのところ毎日その話をしている。

 これから行く国のいくつかも、その「どこか」に入っていた。


 事業計画書の三枚目にある中国の二つの大会には、先週父が赤い線を引いた。横に、秋、と書いてある。

 前の人生の記憶では、これは夏には収まる。けれどそう言える理由はどこにもないので、赤い線はそのままにしてある。


 丹羽家は総出だった。父と母と美咲、祖父と祖母。

 美咲はこの春から高校一年生で、真新しい制服ではなく、センターのジャージで来ていた。

 見送りのあとはそのまま練習に行くという。


 圭はチェックインのカウンターの前で航空券を確かめていた。


 ロビーの真ん中で祖父が細長い包みをほどいていた。

 包みから出てきたのは縦に長い白い旗だった。


 大きな黒い字で、丹羽建設、と書いてある。


 十年前、市の大会の会場に立てようとして、祖母に止められた旗だった。

 センターの看板は赤い線で削られて丹羽の二文字になったが、旗の方は捨てずにしまってあったらしい。


 祖父は旗の竿を出発ロビーの床に突き立てた。


「今度こそ!」


 周りの人が振り返った。

 祖父の声は空港のロビーでも本家の座敷と同じ大きさだった。


 俺は祖母を見た。祖母は祖父の横に立って旗を見上げていた。

 何も言わなかった。祖父も祖母を見た。止められるのを待っている顔だった。


 祖母は小さく息を吐いた。


「……今日は、いいでしょう」


 祖父の顔が止まった。

 止められ続けた旗が、今日初めて止められなかった。


 祖父はしばらくどうしていいか分からない顔をしていた。

 それから竿を両手で握り直して旗を少し高く上げた。


 丹羽建設、の字が、出発ロビーの天井の方へ持ち上がった。


 空港の警備員が少し離れたところからこちらを見ていた。

 祖母が警備員に向かって小さく頭を下げると、警備員はうなずいて、見なかったことにした。


 美咲が旗の下で俺の袖を引いた。


「おにいちゃん」


「うん」


「からあげ、むこうにある?」


「……たぶん、ある」


「なかったら、電話して。千夏ちゃんに作り方、聞いとく」


「作れない」


「作らなくていいの。電話して、ないって言ってくれれば、帰ってきたとき山にするから」


 美咲は真顔だった。母が後ろで笑いをこらえていた。


 搭乗まで三十分あった。


 出発ロビーの隅に公衆電話が並んでいた。

 テレホンカードを入れて本家の番号を押した。


 悠蔵は見送りに来なかった。昨日の夜、電話でそう言っていた。

 空港は人が多いから、というのが、ただ一つの理由だった。


 呼び出し音が四回鳴った。


「はい」


「おじさん」


「ああ。ちび」


 悠蔵の声はいつもと同じだった。

 縁側で新聞を顔に載せたまま話しているときの声だ。


「今、空港」


「知ってる。親父、旗、持っていったでしょ」


「持ってきた」


「止められた?」


「止められなかった」


 受話器の向こうで、新聞をめくる音が止まった。


「そう来るか。ばあさん」


「そう来た」


「親父、どんな顔してた」


「どうしていいか分からない顔」


「だろうねえ。……十年かかったね」


 悠蔵は少し笑った。それから、いつもの調子で言った。


「で、次は?」


 正月の本家で、八歳の俺に聞いたのと同じ聞き方だった。

 あのときの答えは、試合に出る、だった。今日の答えも一つしかない。


「プロの大会に、出る」


「いつ」


「来週」


「どこ」


「アジアの、下の方の大会」


「で、いくらかかるの?」


「事業計画書の、六ページ」


「読んでない」


「知ってる」


 悠蔵が受話器の向こうでくっくっと笑った。


「まあ、いいんじゃない」


 それが見送りの言葉だった。テレホンカードの残りの数字が一つ減った。


「おじさん」


「うん」


「ありがとう」


 間があった。


「……礼は、勝ってから言いな」


 電話が切れた。

 受話器を戻すと、テレホンカードがピーピーと鳴って出てきた。


 飛行機が滑走路を走り出した。


 窓際の席の隣に圭が座っていた。

 シートベルトを締め、腕を組んで目を閉じている。


 機体が浮いて、窓の外で地面がゆっくり傾いていった。

 田んぼ、道路、工場の屋根。遠くに利根川が光っていた。


 あの川の上流の方に柏がある。

 中学の三年間、毎朝あの川の土手を走って、千夏が自転車で並走してきた。


 川の手前に公園の壁があって、本家があって、センターがある。

 赤い土のコートと、夏になると畳の色になる芝のコートがある。

 もっとも、ここからは何一つ見えない。


 雲の中に入って窓の外が白くなった。


 十八歳と八か月。三十歳の誕生日まで十一年と少し。

 最終ミッションの欄は開かなかった。開かなくても数字は分かっている。


 これから行くのは世界の一番下だ。

 予選から始まる大会で、客席に二十人いればいい方だという。


 そこから一つずつ上がっていく。


 雲を抜けると窓の外が青くなった。

 下は一面の雲の海で、柏も利根川もその下にある。


 膝の上に千夏の紙袋があった。補食の袋と、献立表・海外版のファイル。

 頭の上の荷物棚には、母の木のラケットのケースが入っている。

 梅干しは大きな瓶のままでは入らず、半分を小さな瓶に分けてスーツケースに詰めた。残りは次の荷物で母が送ってくれる。


 使わないラケットを、荷物のどこかに。


 隣で圭が目を閉じたまま言った。


「……寝ろ」


 前置きはなかった。

 コーチになってすぐの頃にもこの人は同じことを言った。あのときは「一つだけ」の二つ目だったが、今日はそれが最初の一つだった。


 窓のシェードを半分下ろして目を閉じた。


 眠れなかった。コーチの指示を守れなかったのは、これが初めてかもしれない。

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