第71話 本物の芝
二〇〇二年六月の英国は朝が寒かった。
ロンドンから電車で一時間ほどの小さな町のクラブ。
門をくぐると緑が広がっている。
芝のコートが八面。端から端まで同じ緑で、刈ったばかりの縞が朝の光で明暗の列になっている。
柏の芝とは色が違う。柏の芝は夏の終わりには畳の色になった。
ここの芝は六月でもまだ若い草の色をしている。
日本の夏を知らない種は、生まれた国ではこういう顔をしていたのか。
学校には遠征の届けを出してきた。
国際科の担任は届けを受け取って、「英語、使ってこい」とだけ言った。
圭がクラブの人と短い英語で話していた。
英語になっても、一つずつしか話さないのは変わらない。
話が終わると、圭は一番端のコートを指さした。
打った。
ボールが跳ねなかった。柏の芝よりもさらに低い。
ハードなら胸の高さまで来る球が、脛の高さで滑ってくる。
弾んだ瞬間にはもう膝の下にいる。
ラケットを下げたが、下げても間に合わない。
足も滑った。赤い土の滑り方とは違う。
赤い土は粉の上を横に流れるが、芝は、濡れた草の上で足の裏が前へ抜けていく。
三球目で転びかけた。
膝を拳一つ分深く曲げてみた。
一球目はそれでもフレームに当たり、二球目はネットの白帯を叩いた。もう一つ下げると、今度は当たった。
当たるが、打ったあとで身体が起きる。起きた身体が下りるより先に、次の球が脛の高さに来ている。
コートの脇で圭が見ていた。
「一つだけ言う。……低くいろ」
打ったあとも走るあいだも、ずっと低く。
言うのは一言で、やるのは一日中だ。
夕方までその高さのまま打ち続けた。
それでも三球に一球はフレームに当たり、二度は尻から芝に落ちた。膝が笑った。
その夜、宿の狭い部屋でSTATUSを開いた。
■コート適性▽
グラス F 21 / 24▽
クレー E 42 / 44▽
ハード B 71 / 73▽
グラスの欄がGを抜けてFに入っていた。
柏の芝で一夏打ってもほとんど動かなかった数字が、上限ごと一日でいくつも動いている。
芝は向こうで覚えるしかない。圭の言ったとおりだった。
祖父がホースで芝を怒鳴りつけていた夏の分も、勘定には入っていたはずだ。ただ、その一夏分は今日の半日にも届かない。
こんなに動くのは今日だけだ。
一週間後の午後、圭が俺を電車に乗せた。どこへ行くのかは言わなかった。
降りた駅から住宅街の中を歩いた。
大きな木の並ぶ道の先に、緑と紫の旗が見えた。
ウィンブルドンだった。
大会は翌週から始まる。
門の前には寝袋と折りたたみの椅子を持った人たちが、もう並び始めていた。
圭は正門には向かわなかった。敷地の外側をフェンスに沿って歩いていく。
高い生け垣の隙間からときどき緑のコートが見えた。
圭の足が止まった。外周の一番端のコート。
生け垣の隙間からコートの半分だけが見える。
客席が片側に三列しかない、小さなコートだった。
圭はしばらくそのコートを見ていた。
「……ここで、負けた」
それだけ言った。いつとも、誰にとも、何対何でとも言わない。
こちらも聞かなかった。
予選はここではなく別の町のクラブでやるのだと、宿の主人が話していた。ここで負けたのなら本戦だ。
世界の百十八位まで上がった人が、本戦のこの小さなコートで負けた。
その話を俺は一度も聞いたことがない。千夏の口からも出たことはなかった。
生け垣の向こうでグラウンドキーパーが芝を刈っていた。
刈った芝の匂いが隙間から流れてくる。
圭は息を一つ吸って駅の方へ歩き出した。
俺はもう一度だけ隙間の向こうのコートを見た。
小さなコートだった。けれど、ここもウィンブルドンだった。
この人はここまでは来たのだ。
翌週、ウィンブルドンが始まった。俺は試合には出ない。
ジュニアの部に入れたかどうかは確かめなかった。大阪のあと、国際大会には出ていない。
「ジュニアのタイトルは、要らない」
成田の出発ロビーで圭はそれだけ言った。
この二週間は芝のためにある。
試合に出れば日程に縛られて、芝の上で打てる時間が減る。
圭はSTATUSを知らない。
けれど、この人はずっと前から俺と同じ計算をしている。
ある日の午後、センターコートの上の方の席に座った。
当日券の列に朝の四時から並んで取った席だ。
圭は並ぶのを嫌がらず、寝袋を二つ、どこからか借りてきた。
センターコートは思っていたよりも小さかった。
テレビで見るときは世界の真ん中に見えたのに、上の方の席から見下ろすと、緑の四角が手のひらに載りそうだった。
その四角の上で知らない二人の選手が打ち合っていた。
ボールが跳ねない。一週間、自分の脛で知った低さだ。
丹羽家の居間の柱を思い出した。
一九八五年の夏、十七歳の選手がこの芝の上で優勝した記事が今も画鋲で留めたまま残っている。
赤ん坊の俺はその決勝を、深夜の居間で父の膝の上から見ていた。
今の俺は十七歳で、同じ芝の上の方の席にいる。
隣で圭がコートを見たまま言った。
「……出ないのか、とは聞かないのか」
珍しかった。この人から問いが来ることは、めったにない。
「聞かなくても、分かるので」
圭は口の端をわずかに動かした。笑ったのかもしれない。
コートの上をボールが低く滑っていく。
いつか、あの四角の中に立つ。次に来るときは、朝の四時に並ばなくて済む側で。
帰りに敷地の端の練習コートの脇を通った。
金網の向こうで同じ年ごろの選手たちが打っている。来週からのジュニアの部に出る子たちだ。
一番奥のコートの一人に目が止まった。
フォアハンドを打ち終えると、ラケットが頭の後ろまで抜けて、そこで一拍止まる。止まったまま次の球を見ている。
前の人生で夜のスポーツニュースが何度も流していた形だ。
顔に覚えはない。コーチらしい男が呼んだ名前にも、覚えはなかった。
それでも、あの一拍は知っている。四人のうちの誰かだ。
古新聞の写真の誰かは俺より三つ上で、海の向こうでもう勝っていた。
この一人は同い年で、金網一枚向こうにいる。四人はいつか現れるのではなく、もうこの芝の上で打っている。
少し先で圭が振り返った。
俺は金網の前を動かなかった。圭はしばらく待ってから戻ってきて、黙って隣に立った。
練習が終わるまでその一人を見ていた。
何球打っても同じところで一拍止まる。脛の高さで滑ってくる球でも、止まる場所は変わらない。
俺が一日かけてまだ追いつけない低さを、この一人はもう構えの中に入れていた。
クラブハウスの掲示板でジュニアの部のドロー表を探した。
あの一人の名前は、読み方の分からない綴りだった。指でなぞって口の中で二回言ってみたが、やはり覚えはない。
綴りだけをノートの一番後ろのページに写した。
同じ紙のどこにも俺の名前はない。
向こうから見れば、日本人が一人、金網の外から覗いていただけだ。
町の宿は狭かった。
ベッドが二つと小さな机が一つ。窓の外は隣の建物の煉瓦の壁。
英国の食事は二日目で圭の口に合わなくなっていた。
朝は焼いたトマトと豆と揚げたパン、昼は何かを挟んだパン、夜は揚げた魚と揚げた芋。
「……米が、硬い」
ロンドンまで出た夜のレストランで圭が言った。
付け合わせに少し出てきた米は、パサパサで、粒がばらばらだった。
圭はそれを一口食べてフォークを置いた。
この二週間で、圭が食事について口にしたのはそれだけだ。
宿に戻ると机の上に布の袋が一つ置いてあった。
成田の出発ロビーで千夏が渡したものだ。
中には日持ちのする補食が日付ごとに小分けにして入っている。
乾燥させた梅、小さな干し芋、ナッツ、粉末のスポーツ飲料。
袋の一つ一つに千夏の字で日付が書いてあった。
一番上の紙には「向こうの材料で作れるもの」と題が付いていて、スーパーで買えるものの名前が英語と日本語で並んでいた。
今日の日付の袋を取り出そうとすると、先に圭の手が伸びた。
圭は袋を開けて干し芋を一枚出し、黙って食べた。
「……これは、俺の分もあるのか」
食べてから聞いた。
「たぶん、ないです」
圭は袋の中を覗いた。日付が書いてあって、量も一人分。
しばらく袋を見ていたが、それから二枚目の干し芋を出した。
「明日の分を、今日食べれば、同じだ」
「同じじゃないです」
「同じだ」
圭は二枚目も食べた。
千夏の父は娘の補食を、本来の受取人より先に食べていた。
その夜、柏へ国際電話をかけた。千夏が出た。
「脚は?」
「軽い」
「そう。……干し芋、足りてる?」
「……お父さんが、食べてる」
受話器の向こうで千夏が何か言いかけて黙った。
それから小さな声で言った。
「……次から、二人分入れる」
ノートに何か書く音がした。
金網の向こうで見た一拍のことは言わなかった。
電話を切ってから自分のノートの一番後ろのページを開いた。
写した綴りの下に「卒業したら」と書いた。その先は、まだ書かなかった。
隣のベッドで袋の口を開ける音がした。
「……明日の分だ」
「それ、明後日の分です」




