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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
高校・世界への準備

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第70話 台所の研究

 十月の夕方、千夏がセンターに体重計を持ってきた。

 家の洗面所にあるような白い四角い体重計だった。


 スポーツバッグから出してベンチの前のコンクリートの上に置く。


「乗って」


「ここで?」


「ここで」


 コートでは美咲がまだ打っていた。

 屋根のある練習場からボールの音が響いてくる。


 乗った。千夏は針が止まるのを待って、ノートに数字を書いた。


 ノートは四冊目になっていた。表紙の裏に表が貼ってある。

 日付、体重、練習の時間、練習の中身。朝、昼、夜に食べたもの。


 補食の中身と食べた時刻。そして一番右の欄に次の日の脚。

 軽い、普通、重い。その三つの言葉は、俺が毎日言っているものだった。


「今日から、朝と夜も書く」


「朝と夜?」


「補食だけじゃ、分かんないの。一日の、全部」


 千夏はノートを閉じた。


「お母さんにも、言ってある」


「うちの?」


「うん。献立、一緒に考えてる」


 初耳だった。

 週に二度、母と千夏が丹羽家の台所に並んで立っていると美咲から聞いたのは、その夜のことだ。


 母はおっとりしていて細かいことを気にしない人だが、台所のことだけは自分のやり方がある。

 その台所に千夏が入っている。


「お母さん、千夏ちゃんのノート見て、字がきれいって褒めてた」


 美咲はそう報告した。


「で、お母さんの煮物の砂糖が多いって、千夏ちゃんに言われてた」


「母さん、怒った?」


「ううん。『千夏ちゃんの言うとおりですねえ』って。次の日から、砂糖、半分になってた」


 丹羽家の台所が二つになったらしかった。


 十一月になった。

 朝、目が覚めるとすぐSTATUSを開くのが、癖になっていた。


 基礎能力の欄を上から順に見ていく。

 練習をした次の朝は、今の値が疲れているぶん下がっている。


 それがどれくらいの速さで元に戻るかは、日によって違った。

 昼までに戻る日もあれば、夕方になっても一つ下がったままの日もある。


 戻り方が違う日の、前の晩に何を食べたか。

 千夏のノートと同じことをしているわけだが、俺の方には数字がある。


 火曜と木曜は千夏の献立の日だった。

 火曜の次の朝は戻りが早く、木曜の次の朝は火曜ほどではない。

 違うのは夜の米の量くらいだ。火曜は茶碗に一杯半、木曜は一杯。


 夕方のベンチで先に言い出したのは千夏の方だった。


「火曜と木曜、どっちが軽い?」


「……なんで」


「あたしのノートだと、火曜。米が半杯多い日」


 千夏はノートの二つの列を指で押さえていた。

 俺が数字で見ているものを、千夏は三つの言葉で見ていた。


「火曜」


「どのくらい?」


 詰まった。昼までに戻る、とは言えない。


「……けっこう」


「けっこう、は三つの中にない」


「軽い」


「分かった。木曜、一杯半にする」


 千夏はノートに線を一本引いた。


 次の週の金曜の朝、STATUSを開くと戻りが早かった。

 その日の夕方にベンチで言った。


「木曜も、軽い」


「米だ」


 千夏はノートに丸を一つ書いて、その丸をもう一周なぞった。


 数字を見ている俺と、数字を知らない千夏が同じ答えにたどり着く。しかも先に口にしたのは千夏の方だった。

 こっちは反則の目盛りを持っているのに、だ。正直、ちょっと怖い。


 十二月の日曜日、丹羽家の台所で千夏が試作をしていた。

 鶏むね肉を薄く切って何かに漬けている。


 ボウルが三つ並んでいた。醤油と生姜、味噌と酒、塩とレモン。


「どれが脚に一番いいかは、まだ分かんない」


 千夏はそう言いながら、三つを順番に焼いた。

 焼けた順に皿に並べて食卓の前に置く。食卓の前には美咲が座っていた。


「これも、じっけん?」


「実験」


 美咲は一切れずつ三つとも食べた。


「これ、おいしい。これも、おいしい。これは、すっぱい」


 千夏がノートに書く。美咲は次の皿を待っていた。


 この秋、千夏が丹羽家の台所に立つ日は、美咲が必ず食卓の前に座っていた。

 試作はまず美咲の皿に来て、美咲が食べてうなずいたものが、俺の包みに入る。


 母が台所の入口から美咲をじっと見ていた。


「美咲」


「なに?」


「それは、琢真の分ですよ」


「知ってる。美咲は、毒見係」


「……美咲、体重計に乗ってみましょうか」


 美咲の箸が止まった。


 洗面所から、母が白い体重計を持ってきた。

 美咲はしぶしぶ乗った。


 針が止まった。

 母が黙って針を見て、千夏がノートを開いて、どこかのページと見比べた。


 美咲の顔が少しずつ赤くなった。


「……成長期だもん」


「そうですね」


 母はうなずいた。


「成長期は、横にも来るんですねえ」


 千夏がノートで顔を隠した。肩が震えていた。


「千夏ちゃん、笑ってる」


「……美咲ちゃんで、試してないから」


「試してた!」


「試してない。試食してもらってただけ」


「同じだよ!」


 この秋、千夏の試作で一番体重が増えたのは、毒見係だった。


 その日から、試作の皿は美咲の前に半分だけ置かれるようになった。

 美咲は半分になった皿を、倍の時間をかけて食べていた。


 年が明けた一月、センターのベンチは夕方になるとすぐに冷えた。


 千夏がマフラーを口元まで巻いて、ノートを膝に乗せていた。

 ノートは五冊目。角が風にめくれる。


「大学、栄養の学科にする」


 千夏は前を向いたまま言った。


「決めたの?」


「決めた。三月の進路の面談で、先生に言う」


 千夏はノートの角を指で押さえた。


「スポーツの栄養をやってる先生がいる大学、見つけた。東京だから、ここから通える」


「うん」


「四年、ちゃんと勉強する」


 中三の春、進路調査票を白紙で出した千夏が、今は大学の名前まで決めていた。

 あたし、何になるんだろ。あのときの千夏に、俺は答えを渡さなかった。


「たくまは?」


「俺は」


「高校出たら、プロでしょ」


「……なんで分かる」


「分かるよ」


 千夏はマフラーの中で笑った。


「美咲ちゃんが、からあげの夜のこと、次の日にあたしに全部言ったもん」


 千夏はしばらく黙ってコートの方を見ていた。

 照明の下で美咲がサーブの練習をしている。


 圭がベンチの反対側で腕を組んで見ていた。


「来年の春には、同じ町にいないね」


 千夏の声はきれいに平らだった。


「……たぶん」


 それしか言えなかった。


 来年の春、俺はこの町を出る。

 その前に今年の六月の英国があって、出てしまえば柏にいられるのは一年に数週間がいいところだろう。

 千夏は東京の大学へ通う。同じ町から別々の方向へ。


「ノート、どうするの」


 聞いたのは俺の方だった。千夏は膝の上のノートを見た。


「続けるよ」


「どうやって」


「電話で聞く。次の日の脚」


 千夏はノートを閉じた。


「軽いか、重いか。それだけなら、国際電話でも言えるでしょ」


 言える。それしか言えない。

 それ以上のことは、この国の中にいても言えないのだから。


 照明の下で美咲のサーブがフェンスを揺らした。ベンチの反対側で圭が小さくうなずく。

 こっちの話にうなずいたのか、サーブにうなずいたのか。聞いても一つしか答えないだろう。


 千夏が立ち上がって、マフラーを巻き直した。


「重い日も、ちゃんと言ってね。軽いばっかりだと、ノートが嘘になるから」

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