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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
高校・世界への準備

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第69話 一位

 二〇〇一年の七月、センターのベンチで美咲が千夏に紙を渡していた。

 前とは向きが逆だった。


 ノートを破った一枚で、名前が五つ並んでいる。

 八月の全日本ジュニア、十四歳以下の女子で、美咲が当たりそうな相手の名前だ。

 字は千夏のより大きく、ところどころに消しゴムの跡がある。


 名前の横に短い言葉が書いてあった。

 バック、高い球で崩れる。二本目のサーブ、必ずセンター。

 負けそうになると、ネットに出てくる。


「関東の予選、全部見てきた」


 美咲は言った。


「千夏ちゃん、合ってるか見て」


 千夏は紙を受け取って上から順に読んだ。一人目の名前のところで指が止まった。


「長いラリーでバックが上がる、って書いてあるけど」


「上がるの。十本を超えると」


「上がったら、どうするの」


「内緒」


 千夏はペンを出さなかった。線の一本も足さずに紙を返した。


「字、もう少しきれいに書きなよ」


「読めればいいの」


 中学二年生になっていた。背が伸びて千夏の肩のあたりまで来ている。

 ボール拾い係の丸い頬はもうなく、ラケットを握る手の甲に筋が浮いている。


 俺は少し離れたベンチでラケットのガットを直していた。

 美咲は俺の方を見なかった。


 四年前の秋、美咲は俺の言ったことをそのまま全部やろうとして負けた。

 おにいちゃんの、いうとおりに、したのに。

 あれから美咲は俺に何も聞かなくなった。


 美咲は紙を丁寧にたたんでラケットバッグの内ポケットにしまった。

 それから、ようやく俺の方を見た。


「おにいちゃん、見に来るの?」


「行く」


「黙って見ててね」


「黙って見てる」


「絶対だよ。うなずくのも、なし」


「……なし?」


「なし。おにいちゃん、うなずくとき、ちょっとだけ顎が横にずれるから。あれ見ると、正解かどうか分かっちゃう」


 知らなかった。顎が横にずれるらしい。


 八月の全日本ジュニアはコートの上の空気が揺れていた。


 十四歳以下の女子、決勝。

 俺が全部バックハンドで勝った大会の、女子の決勝だ。


 美咲の相手は美咲の紙の一人目の子。

 背が高くストロークが重い。

 準決勝を六対一、六対一で勝ち上がってきた、今年の優勝候補だ。


 試合は三セット目までもつれた。


 三セット目、ゲームカウント五対五。美咲のサービスゲームで、四十―三十。

 取れば六対五になる。


 長いラリーになった。


 十本。十五本。


 相手のバックハンドが、少しずつ上がっていく。

 美咲の紙に書いてあったとおりだった。


 俺なら打つ。

 上がった球を踏み込んで、オープンコートへ一番速いフォアハンドで叩く。

 俺が教えた美咲も昔ならそう打った。


 相手のバックが、また上がった。


 美咲が踏み込んだ。


 ラケットを、大きく引いた。


「……あ」


 隣で千夏が小さく言った。


 相手が下がった。速い球が来ると思って、ベースラインの後ろへ二歩。


 美咲のラケットが止まった。


 止まったラケットの面がボールの下にそっと入った。


 ドロップショットだった。


 ボールはネットの白帯のすぐ上を越えて、相手のコートの、ネットのすぐ手前に落ちた。

 一度跳ねて、二度目はほとんど跳ねなかった。


 相手は走った。二歩下がったぶん、二歩遠かった。


 届かなかった。


 六対五。


 俺なら、あの場面でドロップショットは打たない。

 叩けば入る球をわざわざ短く落とす理由がない。

 美咲の紙にも、あの一球は書いていなかった。上がったらどうするか。内緒の方だ。


 次のゲーム、美咲は相手のサービスをブレークした。


 七対五。


 最後のポイントのあと、美咲は空を見上げてから客席の俺を見た。


 俺はうなずかなかった。約束だったから。


 美咲は小さく笑ってネットの方へ歩いていった。

 顎がずれていないかを確かめられた気がした。


「さっきの、なんで分かった」


 小声で聞くと、千夏はネットで握手をする美咲から目を離さずに答えた。


「引くとき、肘が低かった。叩くときの肘じゃない」


 表彰式のあと、会場の端で美咲が記者に囲まれていた。

 腕には銀色の優勝カップを抱えている。

 俺のときと同じくらいの人数で、テニス雑誌の人と、新聞の人と、地元紙の人がいた。


「優勝、おめでとう。今の気持ちは?」


「うれしいです」


「五対五からの、ドロップショット。あれは狙っていたの?」


「はい。相手が下がると思ったので」


「誰かに教わった?」


「いいえ。自分で決めました」


 記者たちが手帳に書いた。それから新聞の人が少し身を乗り出した。


「お兄さんも、この大会で優勝しているよね。丹羽琢真くん」


「はい」


「お兄さんのように、なりたいですか」


 美咲は一秒も考えなかった。


「兄より、からあげが好きです」


 記者たちの手が止まった。


「……からあげ?」


「はい。からあげです」


 美咲はにこにこしていた。


 後ろで父が吹き出した。口を手で押さえて肩を震わせている。

 五年前、全国小学生の表彰式のあとで俺が「けいけん……からあげ、です」と答えたときも父は同じように吹き出した。

 あのとき美咲は客席にいた。


 地元紙の記者が手帳に、からあげ、と書いていた。

 あのときと同じ人かどうかは分からなかった。


 母が隣で小さな声で言った。


「今夜は、からあげにしないといけませんねえ」


「……兄の分も」


 からあげより下の兄として、一応言っておいた。


「お兄ちゃんの分は、どうでしょうねえ」


 母は美咲の方を見て笑っていた。


 その夜、丹羽家の食卓にからあげが山になっていた。

 母が会場から戻る前に柏の肉屋に電話で頼んでおいたらしい。


 美咲は優勝のカップを椅子の横に置いてからあげを食べていた。

 父はビールを一本だけ開けていて、二本目を開けようとしたところで母に見られて、やめた。


 食べ終わったあとで美咲が食卓に肘をついて俺を見た。


「おにいちゃん」


「うん」


「プロになるの?」


 父の手が止まった。母が台所で水を止めた。


 家族の誰にもまだ言っていなかった。

 言うのは来年の秋、高校を出る前にきちんと数字を揃えてからだと決めていた。


「なる」


 言ってしまった。

 来年の秋の予定が、からあげの夜に前倒しになった。


 美咲はうなずいた。


「そっか」


「うん」


「美咲も、なる」


 今度は俺の手が止まった。美咲はカップの縁を指でなぞっていた。


「今日、決めた。からあげ食べながら」


「からあげで決めるな」


「おにいちゃんは、けいけんで決めたんでしょ」


 父がまた吹き出して、ビールの泡が少し食卓にこぼれた。


 俺は何か言おうとした。プロは大変だ、とか。

 女子の世界はまた別だ、とか。言いかけてやめた。


 あの秋から、美咲はずっと自分で決める練習をしてきた。

 ここで俺が答えを一つ増やすわけにはいかない。


「……そう」


 美咲は俺の顔をじっと見た。

 それから自分の皿の最後のからあげを、俺の皿に移した。


「今の、顎ずれてた」

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