第68話 国際大会に出場する
九月の最後の土曜日、練習のあとのセンターのベンチでミッション一覧を開いた。
■ミッション一覧▽
・国際大会に出場する▽
・プロの大会に出場する▽
・プロの大会で初勝利する▽
国際大会に出場する。
この一行は小五の夏から一番上にあって、一度も動かしていない。
十二歳以下の国際大会の話が来たときも断った。
同世代の世界に今出ていけば、向こうにも自分が見える。
見られる前に伸びる、とあのときは考えた。
十六歳になった。
基礎能力は六つともCに入っていて、いくつかはCの後半まで来ている。
この国の同年代とは、もう比べる意味がない。
比べる相手のいない場所で練習だけを積んできた。
そろそろ測らなければならない。世界の同世代の中で自分がどこにいるのか。
プロになる前に一度だけ。
十月の初めに大阪で国際ジュニアの大会がある。
ITFの十八歳以下の大会で、海外からも何十人かのジュニアが来る。
国内で開かれる大会なら、世界の全部に見られるわけではない。
見に来るのは、海外のジュニアたちとそのコーチたち、それに日本のテニス雑誌の記者くらいだ。
見られてもいい頃だった。
ベンチの反対の端では圭が手帳を開いていた。
「十月の大阪に、出たい」
圭はしばらく黙っていた。
全日本ジュニアの帰りの新幹線で「もう出なくていい」と言った人だった。
圭は黒い手帳に何かを書きつけた。
「……枠は、取ってくる」
どの大会にも出ていない十六歳に、国際大会の枠はない。
その枠をこの人が取ってくると言った。大会までもう日がなかった。
次の日の日曜、本家の縁側で悠蔵が新聞を顔に載せて寝ていた。
寝ているように見えて、新聞の端から目が出ている。
「おじさん」
「うん」
「十月の初め、大阪の大会に出る」
悠蔵は新聞を顔からずらした。
「何が要るの」
「新幹線と、参加費」
「それだけ?」
「それと、宿」
「安いね」
悠蔵は新聞を顔に戻した。
「ちびの注文にしては、安い」
赤い土と芝のあとでは、何を言っても安く聞こえるらしかった。
大阪の会場は街の真ん中の公園の中にあって、コートの向こうにビルが並んでいた。
受付の前に見たことのない色のジャージが並んでいた。
赤と白、青と黄色、緑と白。
背中に、ヨーロッパの国、南米の国、アジアの国の名前が縫い付けてある。
英語と英語ではない言葉が、ロビーのあちこちで混ざっていた。
国際科に半年通った耳はその半分くらいを拾えた。
試合の前の晩、ホテルの部屋で縛りを決めた。
一番低い項目はスマッシュとボレーだった。
ずっとベースラインから打ってきた。
ネットに出たのは小五の一年間に縛りで詰め続けたときくらいで、ネットの前の項目が一番遅れているのも当然だった。
一回戦から準々決勝までは、ネットに出て、ボレーとスマッシュでポイントを取る。
コートに入ったところで視界の端に表示が浮かんだ。
【MISSION】
・国際大会に出場する 達成
レスポンス +18
スピード +16
全国で一番になったときより多い。出ただけで、だ。
大会が大きいほどご褒美も大きいのは知っていたが、国の外の子が混ざるだけでここまで変わるとは思わなかった。
一回戦の相手はヨーロッパの子だった。
背が高く腕が長く、サーブの音が大きい。
鼻の頭が日焼けで剥けていて、ポイントを取るたびに自分の国の言葉で短く何か叫ぶ。
俺がネットに出るたびに足元へ沈むパスを打ってきた。
ボレーが浮いた。
浮いた球を叩かれた。
それでも勝った。
勝ったあと相手の顔を見た。下を向いていなかった。
握手をしながら相手は英語で何か言った。
「Next time」
次は。その一言だけはっきり聞こえた。
二回戦の相手も、三回戦の相手も、準々決勝の相手も同じだった。
負けそうになっても崩れず、ボールを追うのをやめない。
スコアが開いても、最後のポイントまで同じ速さで走ってくる。
この国の小学生は途中で顔を覆った。中学生は途中で首をかしげて笑った。
世界の同世代は最後まで向かってきた。
準々決勝のあと、相手の南米の子がネット越しに英語で冗談を言った。
「Your volley is like my grandmother」
あなたのボレーは、うちのおばあちゃんのようだ。
褒めているのか、けなしているのか。
おばあちゃんの腕前を知らないので判断がつかない。
国際科の成果を試すときが来た。
ヘイズ先生の授業で習った表現を頭の中で組み立てる。
「Thank you. Your grandmother must be very strong」
あなたのおばあさんは、とても強いに違いない。
南米の子は三秒くらい黙った。
それから困ったように肩をすくめて自分のコーチの方へ歩いていった。
滑った。教科書の例文は、ビルのあいだの風の中で少しも温まらなかった。
準決勝の朝、縛りを外した。
ホテルの部屋でSTATUSの全部の欄を開いた。
一番低いものではなく、一番高いもので戦う。
全力で試合をするのは、中二の四月に千夏と打って以来だった。公式戦では初めてになる。
準決勝の相手はヨーロッパの第一シード。
この年代では世界の上の方にいる子で、勝って帰るつもりの顔をしていた。
赤毛を短く刈っていて、ポイントの合間にガットを一本ずつ指でまっすぐに直す。
最初のサーブを全力で打った。
ばん、と音がした。
相手のラケットが少し遅れた。
ボールはそのままフェンスまで飛んでいった。
客席で日本の雑誌の記者らしい人がペンを止めた。
二本目は相手のラケットに当たり、そのままネットにかかった。
三本目から、相手はベースラインの一歩後ろに下がった。
下がったぶん、角度が開いた。
開いた角度にフォアハンドを打ち込んだ。
相手は走った。
届かなかった。
それでも次のポイントも同じ速さで走った。
崩れない。顔を覆わない。首もかしげない。
ただ、届かない。
第一セットは六対一。
第二セットに入ると、俺のサービスゲームで、相手が前に出てきた。
ベースラインの一歩後ろから一歩前へ。俺のサーブを跳ね上がりきる前に叩いてくる。
速い球には、早く当てればいい。
赤毛は一セットでそれを見つけていた。
ブレークされた。
全力のサービスゲームを落としたのは初めてだった。
一対三。相手はガットを直さなくなっていた。
次の俺のサービスゲームは、十五―四十になった。
このゲームを落とせば一対四。
第三セットに入れば、答えを先に持っているのは向こうだ。
グリップを握り直すと、手のひらの汗でラケットが少し回った。
前に出てくるなら後ろが空く。
詰めてきた赤毛の頭の上へロブを上げた。
ビルのあいだから風が来た。
ボールは風に押されて伸び、ベースラインの外に落ちた。
一対四。
負けるかもしれない、と試合の中で思ったのは初めてだった。
次のリターンゲームで、もう一度上げた。
今度は風に向かって低く、回転を強くかけて。赤毛が振り返って走った。
届いて浅く返ってきた球を空いたコートへ打った。
そこからゲームが一つずつ戻ってきた。四対四。
赤毛はまたガットを直し始めた。五対五で、前に出るのをやめた。
今度はベースラインの後ろから、俺のバックの高いところへ球を集めてくる。
高い球は、上がりきる前に叩けばいい。
赤毛が一セット目に見つけたやり方をそのまま返した。
六対一。七対五。
握手のとき、相手は俺の目を見た。
何も言わないまま、長いあいだ手を握っていた。
決勝の相手はアジアの子で、準決勝を見ていたらしく最初から前に立っていた。
頭の上は最初から空いていた。
第二セットの四対三で一度だけ、その子は前に出るふりをして下がった。上げたロブがコートの真ん中で待たれていて、叩かれた球が足元を抜けた。
そのあとその子はもう下がらなかった。
六対二。六対三。
最後のポイントのあと客席を見ると、圭が膝の上の黒い手帳を閉じるところだった。
試合のあいだずっと何かを書いていた手帳だった。
表彰式で優勝のカップを受け取ってから、ミッションの一覧を開いた。
■ミッション一覧▽
・プロの大会に出場する▽
・プロの大会で初勝利する▽
・プロの大会で優勝する▽
プロ。
一番上の行に、その二文字が来ていた。
帰りの新幹線で窓の外を見ていた。夕方の光が田んぼの上を流れていく。
勝った。世界の同世代にも本気なら勝てた。
怖かったのは、一対四の一ゲームだけだった。
答えは風に一度流されたあとで見つかった。
前の人生の記憶の中に四人いる。後にBIG4と呼ばれる四人。
この大会にはいなかった。
一人だけ、新聞の切手ほどの写真で見たことがある。その切り抜きは今も英語の辞書に挟んである。ほかの三人がどこで何をしているのかは知らない。
知っているのは、いつか必ず同じコートに立つということだけだ。
隣の席で圭が目を閉じていた。寝ているのかと思った。
「……次は、向こうだ」
目を閉じたまま圭が言った。
「向こうって、英国?」
「全部だ」
全部。英国も、フランスも、オーストラリアも、アメリカも。
ミッション一覧の一番上の、プロの大会に出場する、が頭に浮かんだ。
国内にもプロの一番下の大会はある。
ただ、平日は学校がある。一番上の行は、卒業して向こうへ出てから消す。
圭はそれきり寝息を立て始めた。
膝の上で手帳が開きかけていた。
最後のページに一行だけ書いてあった。
読むつもりはなかったが、字が大きかった。
足りない。
何が足りないのかは書いていなかった。相手か、俺か。両方かもしれない。
寝息が止まった。目を閉じたまま、圭の指が手帳を閉じた。
「……読んだな」
「字が大きかった」
「大きく書いた」




