第67話 根づかない
八月の芝は朝の六時にはもう熱かった。
四月の終わりに芽を出した芝は、六月には緑の絨毯になった。
梅雨のあいだ芝はよく伸びた。庭師が三日に一度刈り、祖父が三日に一度それを見に来た。
七月の二週目に梅雨が明けると、その週のうちに芝の端が黄色くなった。
八月に入ると黄色は茶色になり、茶色はコートの端から真ん中へ、少しずつ広がっていった。
センターの横で水の音がしていた。祖父がホースを握っている。
社長の椅子を上の伯父に譲って会長に収まった丹羽建設の先代が、早朝の芝生の前でホースの口を指でつぶして水を扇のように広げている。
「負けるな!」
祖父は芝に向かって言っていた。
「負けるな、この野郎!」
隣では庭師が細いノズルの付いたホースで、別の場所に霧のような水をやっていた。
祖父の水が足元まで飛んでくるのを、庭師は避けようともしなかった。
「おい」
「なんだ」
「芝に、根性はねえよ」
祖父は聞こえないふりをしてまた芝を怒鳴った。
俺はその横の、まだ緑が残っている部分でサーブを打っていた。
芝の上のボールは跳ねない。
ハードなら胸の高さまで来る球が、膝の高さで滑ってくる。
速いのではなく、低いのだ。低いままこちらへ這ってくる。
打つたびに足元の芝がちぎれた。
ちぎれた芝の下は白っぽく乾いた土だった。
九月になる頃には、芝コートの半分が使えなくなっていた。
残った半分も昼の間は熱すぎて打てず、芝の上で打てるのは朝の二時間と夕方の一時間、一日に三時間だけだった。
そのうち一時間は祖父と庭師の水やりの時間と重なる。
祖父のホースの水はときどきコートの中まで飛んできた。
打った球は水の扇を抜け、濡れた芝の上でさらに低く速く滑る。
それはそれで練習にはなった。
ずぶ濡れになって何の足しにもならなかったのは、祖父の作業着だけだった。
その夜は子ども部屋の布団の上でSTATUSを開き、コート適性の欄まで下りていった。
■コート適性▽
グラス G 13 / 15▽
クレー F 29 / 32▽
ハード C 63 / 65▽
ハードだけが高い。
本家のコートができてから、ずっとハードの上でしか打ってこなかったのだから、当然だ。
本家のコートも、センターの三面も、屋根のある練習場も、全部ハードだ。
クレーは春休みから打ち始めた。伸びてはいるが遅い。
赤い土は雨に弱い。降れば次の日の昼まで使えない。梅雨の六月は半分以上ブルーシートの下だった。
グラスはほとんど動いていなかった。
打てる時間が短いうえに、打てる芝が日に日に減っていく。
そもそも柏の芝は本物の芝ではない。
半分枯れた土と一緒に跳ねるボールが、ウィンブルドンの芝と同じだとは思えない。
違う床で打った経験点は、違う床の分にしかならない。
ハードの大会は二つあり、赤い土はここで時間をかければ伸びる。
芝だけが残る。
三十歳までに、四つ。一つでも欠ければ、心停止。
画面を閉じて天井の木目をしばらく見ていた。
思い出したのはあの正月の祖父だ。座敷から空き地をあごで指して、「あそこを全部、芝にしろ」と言った。
祖父は正しかったのかもしれない。そう思うとちょっと笑えた。
芝から始めていれば、今になって芝だけが残ることはなかった。
代わりにハードが残っていただろうけれど。
九月の半ば、芝コートの前に大人が三人並んでいた。
祖父と、庭師と、悠蔵。
芝はもう半分以上が茶色だった。
残りの緑もまだらに薄く、遠くから見ると古い畳のような色をしている。
「お前の腕が悪い!」
祖父が庭師に言った。
「おめえの水のやりすぎだ」
庭師が祖父に言った。
「水をやらなきゃ、枯れるだろうが!」
「やりすぎても、腐る」
「毎朝、ちょうどいい量だった」
「おめえのちょうどいいは、池の量だ」
「池は関係ねえ!」
「本家の池、おめえが掘らせたんだろう。庭の真ん中に。あれを見てから四十年、おめえのちょうどいいは信じねえことにしてる」
祖父が口を開けて閉じた。祖母に言い負かされるときと同じ顔だった。
この町で祖父を言い負かせる人は、もう一人いたらしい。
悠蔵は二人の後ろで手帳を開いて、鉛筆で何かを書いていた。
書き終わると手帳を閉じて胸ポケットにしまった。
「で、いくら損したの?」
祖父と庭師が同時に振り向いた。
「損じゃねえ」
祖父が言った。
「芝は、勉強だ」
「勉強ね」
悠蔵はしまったばかりの手帳をもう一度出して、一行書き足した。
「来年は、もっとうまくやる」
「来年も、やるの?」
「やる」
祖父は胸を張った。庭師が横でため息をついた。
「おい。来年も、夏は来るぞ」
「来たら、また負けるなと言う!」
「芝に根性はねえって」
コートの向こうで赤い土が跳ね上がった。
美咲だった。クレーコートの上で、ボールに向かって足から滑り込んでいる。
春休みに尻もちをついたときとはまるで違う。
右足を伸ばして左膝を折り、赤い土の上をすうっと滑って、滑った先でボールを打ち返していた。
白いウェアの右半分が赤かった。
「今の、わざと」
美咲は立ち上がってこちらに手を振った。
「スライディングの練習」
「……ウェア、赤いぞ」
「もう、赤いのしか着てない」
確かに美咲のウェアは、この夏のあいだにだんだん赤くなっていた。
母はとっくに洗うのを諦めていた。
九月の終わりの夕方、練習のあとでセンターのベンチに圭が座っていた。
茶色くなった芝のコートを見ている。
夏のあいだ、圭は何も言わなかった。
祖父が怒鳴り、庭師がため息をつき、俺が一日三時間だけ芝の上で打つのを、ベンチから黙って見ていた。
隣に座った。夕方の風が枯れた芝の匂いを運んでくる。
刈った草の匂いではなく、乾いた藁のような匂いだった。
圭が口を開いた。
「一つだけ言う」
それから、いつもより長い間があった。
「……芝は、向こうで覚えるしかない」
「向こう」
「英国だ」
英国。ウィンブルドンの国。
圭はそれ以上は言わなかった。いつもならそこで終わる。
一つ言って、立ち上がって帰っていく。
今日は立ち上がらずに、ベンチに座ったまま茶色い芝を見ていた。
この人は向こうの芝を知っている。
世界の百十八位まで上がった人なら、ウィンブルドンの予選には出ていたはずだ。
圭の口からウィンブルドンの話を聞いたことは一度もなかった。
聞かなかったのだ。この人は一つしか言わない。
聞けば一つが二つになる。二つ目はきっと、何回戦で何対何で負けたか、だ。
「いつ」
聞いたのはそれだけだった。
「再来年の夏」
二年も先だ。顔に出たらしい。
「……膝が、できてからだ」
俺の膝のことだ。芝は低く構えて打つ。
背が伸びている途中の膝で一日中しゃがめば、膝の方が先に音を上げる。
それでも目は圭の右膝に行った。サポーターは、もうしていない。
圭は立ち上がった。
「高三の夏だ。学校に、届けを出しておけ」
一つだけ、のはずだった。
膝の話が出てから、この人の言葉は一つで止まらなくなっていた。
二年後か。
日本の夏を知らない種が、生まれた国でどんな顔をしているのか。それは見てみたい。
圭は駐車場の方へ歩いていった。歩く速さがいつもより遅かった。
フェンスの切れ目で、一度だけ振り返った。
「……刈った芝の匂いは、向こうも同じだ」




