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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
高校・世界への準備

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第66話 国際科

 春休みが明けた。

 入学式の朝、高校の昇降口は新しい靴のにおいがした。


 制服はブレザーになった。三年間着た詰め襟は、最後には手首がすっかり出ていた。

 だから母は今度こそ三年もつように、もう一回り大きいものを選んだ。


 袖が指の付け根まで来ているのは、中学の入学式と同じ光景だった。


「三年もつように、ですねえ」


 母はあのときと同じことを言った。

 違うのは、隣にいる千夏の制服も同じブレザーだということだった。


 同じ高校で別の学科。

 国際科の教室は本校舎の二階にあり、スポーツ科学科は渡り廊下の向こうの別の棟だ。


 昇降口を出たところで道が二つに分かれていた。

 右に行けば本校舎、左に行けば渡り廊下。


 千夏は分かれ道で立ち止まらなかった。


「じゃ、昼休み」


 左に曲がりながら言った。


「昼休み?」


「持ってくから」


 千夏は振り返らなかった。

 紺のブレザーの背中が渡り廊下の向こうへ遠ざかっていく。

 スポーツバッグの横に、もう一つ、小さな布の包みが提げてあった。


 五歳の公園から十年近く。

 中学で教室が別になったときは、休み時間に廊下へ出れば、向こうの端に千夏の頭が見えた。

 今度は棟が違うから、それも見えない。

 それが思っていたより面白くなかった。


 面白くない理由は、考えないことにした。

 考えれば、いつも同じ数字の前で行き止まりになる。


 本校舎の階段を上がると、二階の窓から渡り廊下が見えた。千夏の姿はもうなかった。

 昼休みまでの時間を数えかけてやめた。数えるのも、考えるうちに入る。


 国際科の英語は一日に二時間あった。

 一時間は日本人の先生の文法で、もう一時間はネイティブの先生の会話だ。


 ヘイズ先生はオーストラリアの人だった。

 背が高く、よく日に焼けていて、笑うと目尻に皺が寄る。


 黒板の前に立つより教室の中を歩き回っている時間の方が長い。

 初日の自己紹介で好きなスポーツはクリケットだと言ったが、誰もルールを知らなかった。


 最初の授業で一人ずつ自己紹介をさせられた。

 名前、好きなもの、将来の夢。俺の番が来た。


 英語は読める。

 前の人生の受験とそのあとの暮らしで、文字の英語だけは身についた。


 話せるかどうかは別の話だった。

 耳と口は一度も鍛えていない。


「My name is Takuma Niwa」


 口から出た音は自分で聞いても平らだった。

 カタカナを並べたような音で、「ネーム」の「ネ」が重く、「タクマ」の「ク」には余計な「ウ」がついている。


「I like tennis. My dream is……」


 夢、の先で詰まった。

 本当の夢は三十歳を越えることだが、それは英語でも日本語でも言えない。


「……to be a professional tennis player」


 座った。


 ヘイズ先生はしばらく俺を見ていた。何かを探している顔をしていた。

 褒めるところを、だ。この先生は生徒を必ず一か所は褒める。


 前の三人も、発音と笑顔と「勇気」をそれぞれ褒められていた。


 ヘイズ先生の目が一度泳いで、それからにっこり笑った。


「……Nice voice」


 声。発音でも文法でも、夢でもなかった。


 後ろの席で誰かが小さく吹き出した。


 声はSTATUSのどの欄にもないし、経験点も入らない。

 何の努力もしていないところを褒められたわけだ。


 それでもヘイズ先生の笑顔は本物だった。


 俺はノートの端に小さく書いた。


 三年。


 四つの大会は全豪も全仏も全英も全米も、全部日本の外にある。

 勝ったあとにはインタビューがあって、中継で見ていた外国の選手たちは、みんな自分の言葉で笑って話していた。


 いつか俺もあそこで話す。三年で話せるようになっておく。

 褒められるのが声だけでは、優勝スピーチで困る。


 五月の半ば、昼休みの廊下が少し騒がしくなった。

 国際科の教室の前に、スポーツ科学科のジャージが三人立っていた。


 真ん中が千夏で手に布の包みを提げている。

 両脇の二人は千夏の新しい友だちらしかった。


 一人は背が高く、髪を後ろで一つに結んでいる。

 もう一人は小柄で目がやたらと大きい。


 二人とも教室の中を遠慮なく覗き込んでいた。


「たくま」


 千夏が戸口で呼ぶと、教室の何人かがこちらを見た。

 立ち上がって廊下に出た。


 千夏が包みを差し出した。


「今日の分」


「ありがとう」


 受け取った包みは、いつもの重さ。

 塩むすびが二つと、たぶん何か一つ。


 背の高い方の友だちが、千夏の肩越しに俺の顔を覗き込んだ。


「千夏、それ、彼氏?」


 廊下の空気が一瞬止まった。千夏の答えは速かった。


「ち、違う。実験台」


「……何の?」


 小柄な方の友だちが目をさらに大きくした。


「スポーツ栄養の。補食の効果を見てるの」


 千夏は授業の答えを言うような声で言った。

 それから包みの結び目を一度だけ直した。


 背の高い方が俺を見た。

 俺は包みを少し持ち上げた。


「実験台です」


 背の高い方がゆっくりうなずいた。


「……それ、自分で言う人、初めて見た」


「毎日、食べてるので」


「毎日?」


「中三から」


 二人が同時に千夏を見た。千夏は俺の方を見ないまま言った。


「データは、多い方がいいから」


「行くよ」


 千夏は二人の袖を引っぱって渡り廊下の方へ歩き出した。

 小柄な方が引っぱられながら振り返った。


「感想、あとで千夏に言ってあげてね」


「言ってます」


「毎日?」


「毎日」


 千夏の背中がもう一段速くなった。


 教室に戻ると、隣の席の男子が腕を組んで待っていた。


「……あれ、彼女?」


「実験台」


「お前が?」


「俺が」


 隣の席の男子はしばらく考えてから言った。


「国際科に来て、一番分からない単語が、日本語だった」


 夕方、センターのベンチで千夏がノートを開いていた。三冊目になる。


 一冊目の後ろ半分は中三の秋で、塩むすびの塩の量と次の日の俺の脚が日付と一緒に並んでいた。

 二冊目は受験の冬。三冊目は年が明けてからで、表紙にスポーツ科学科の教科書と同じ色のシールが貼ってある。


 中身を千夏は俺に見せない。見せないまま聞いてくる。


「今日の授業で、糖質のタイミング習った。練習のすぐあと」


「去年、千夏が見つけたやつだ」


「うん。教科書が、やっと追いついてきた」


 千夏は少しだけ得意そうだった。


「でもね、先生に言われた。一度にいくつも変えたら、どれが効いたか分からないって」


 千夏はノートの新しいページに線を一本引いた。


「だから、これからは一回に一つしか変えない。塩むすびはずっと同じ。変えるのは、もう一つの方だけ」


「去年は全部いっぺんに変えてたな」


「だから今年は変えないの」


 線の下に三つの言葉が並んだ。軽い、普通、重い。


「言い方も決める。毎日、この三つのどれかで言って。昨日は『まあまあ』で、その前は『悪くない』だった。それじゃ比べられない」


 俺の方には数字がある。

 練習の次の朝、STATUSの今の値がどこまで追いついているか。目盛りでいえば百ある物差しだ。

 それを三つに丸めて渡せと言われている。

 丸めすぎだと言えば、なぜ分かるのかを言わなければならない。言える分だけ言う、と決めたのは俺の方だ。


「……三つで」


「三つで」


 千夏はノートを閉じた。


「明日の包み、もう一つの方を変える。何に変えたかは言わない。実験だから」


 千夏は立ち上がり、スポーツバッグを肩にかけて美咲のいるコートの方へ歩いていった。今日は美咲の練習相手の日だ。

 ベンチには包みの受取人が一人残された。


 コートの手前で千夏が一度だけ振り返った。


「明日『まあまあ』って言ったら、包み、なしだから」

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