第65話 赤い土と芝
「ハイテク株を中心とするナスダック市場は、先月つけた最高値から、下落が続いています」
春休みの最後の週の、夕方のニュース。
居間のテレビで、アナウンサーの後ろの画面に右肩下がりの線が映っている。
父が新聞から顔を上げた。銀行員の顔だ。
家の父はネクタイを外した途端に三つくらい若くなるのに、数字の線を見るときだけは職場の顔に戻る。
「……来たか」
父はそれだけ言ってまた新聞に目を落とした。
経済面にも同じ線が載っていた。
画面が切り替わって日本の会社の名前がいくつか並び、その横に下向きの矢印がついた。
インターネット、携帯電話。
去年の暮れまでは名前の後ろに何をつけても株が上がった会社たちだ。
母が台所から顔を出した。
「あら、また下がってるんですか?」
「下がってる」
「お義兄さんは、大丈夫なんでしょうか」
「兄貴は二月に降りてる」
父は新聞をたたんだ。
「降りといて、正解だったな」
俺はソファの端で画面の線を見ていた。
天井は三月で、四月の今は線が崖を転がっている。
その日付を俺は知らなかった。
上がることも崖が来ることも知っていて、いつ来るのかだけが分からなかった。
だから去年の正月、縁側で悠蔵に「来年の春、降りて」とだけ頼んだ。
悠蔵は自分の線を守って、天井の一か月前の二月に降りた。
一か月分を取り損ねた代わりに、崖は一段も転がらずに済んだ。
テレビの中では線がまだ下がっていた。
「琢真」
父が新聞の端から俺を見た。
「お前、あのとき、兄貴に何か言ったのか」
「何も」
「……そうか」
父はそれ以上は聞かなかった。
この人はときどき妙に鋭いのに、鋭いところでいつも止まる。
止まってくれる人でよかった。
融資の審査でもここで止まるなら、銀行としては少し心配だが。
日曜日、本家の縁側に悠蔵が寝転んでいた。
胸に載せた新聞は、株価欄が上になっている。
春の日が縁側の板の半分まで差していた。
この人がここで寝転んでいない日曜日を、俺はあまり知らない。
「ちび」
目を閉じたまま悠蔵が言った。
「ね。降りといてよかったでしょ」
「うん」
「言ったの、僕だっけ。ちびだっけ」
「線を決めたのは、おじさん」
「そうだね。線を決めたのは、僕だ」
悠蔵は目を開けて新聞を胸からずらし、株価欄の端の余白を見せた。
白いところに鉛筆の数字がびっしり並んでいた。
九年前も、この人は同じ縁側にいた。
六歳の甥の「アメリカ、パソコン」を、理由を聞かずに余白に書きつけた。
あのときの余白には数字が一行しかなかったが、今日の余白は一行では足りていない。
俺は桁を数えかけてやめた。俺の金ではない。
悠蔵の口座の、悠蔵の線で守られた金だ。
お年玉から始まった数字がどこまで膨らんだのか、知っているのはこの人と、この人の手帳だけだ。
「で」
悠蔵がいつもの調子で言いかけた。
その先は分かっている。で、いくら損するの。で、いくらかかるの。
この人はいつもそこから始める。だから今日は先に言った。
「で、赤い土と芝は、いくらかかるの?」
悠蔵が黙った。口を半分開けたまま俺を見ている。
指が一本、新聞の上で動いた。
「そう来るか」
「今度は、使う方だから」
「使う方ね」
悠蔵は起き上がって上着の内ポケットから黒い革の手帳を出した。
ハードコートの値段を調べてきたときと同じ手帳で、角がすっかり丸くなっている。
「調べたよ」
「いつ」
「去年の一月。ちびが、赤い土と芝って言った日の、次の日から」
ページをめくる。
「赤い土はね、日本にはほとんどないんだって。本物は、煉瓦を砕いた粉。向こうから取り寄せる。下の層は、うちの会社がもう作ってる。水はけが命らしい」
「芝は?」
「芝はね」
悠蔵は手帳を閉じた。
「分からない」
「分からない?」
「値段は分かる。種の値段も、土の値段も、水をまく機械の値段も。分からないのは、根づくかどうか。日本の夏に、あの芝が生きていられるかどうか」
悠蔵は塀の向こうを見た。
「それだけは、どこにも値段がついてない」
縁側の奥の座敷で祖父の咳払いが聞こえた。
聞いていたらしい。
春休みのうちに、祖父が庭師を連れてきた。
センターの横の、雑草の土地の残りだった。
ハードコート三面の並びのすぐ隣に、冬から作っている赤い土の一面がある。
丹羽建設の重機が入って雑草はもう剥がされていた。
平らにならされた土の上に、コート一面とその周りの余白の分だけ縄が張ってある。
庭師は本家の松を四十年見てきた人だった。
小柄で日に焼けていて地下足袋を履いている。
祖父よりいくらか年上で、祖父を「おめえ」と呼ぶ。
この町で祖父をそう呼ぶ人を、俺はほかに知らない。
「おい。これが、芝か」
「そうだ。外国の芝だ!」
祖父は胸を張っていた。
庭師は手のひらに芝の種を少し出した。細長い、薄茶色の種。
指先で転がしてにおいを嗅ぎ、また転がす。
「……こいつは、日本の夏を知らねえ芝だ」
「知らなきゃ、教えろ」
祖父は即答した。庭師は祖父の顔を見て、それから種を見てため息をついた。
それから縄の張られた土地を端から端まで歩いた。
ときどき立ち止まってしゃがみ、土をつまんで首をかしげてはまた歩く。
赤い土の向こうに、センターのハードコートがあった。
庭師はフェンスの前で足を止めてネットを見ていた。
腕を組んで目を細め、一歩下がってまた一歩下がる。
首を右に傾け、左に傾ける。
本家の縁側から松の枝ぶりを見るときと同じ目つきだった。
「……おい」
「なんだ」
「あの網、右が下がってる」
祖父がネットを見た。俺も見た。
センターストラップで真ん中を下げた、普通のネットだった。
真ん中が一番低い。それが規則だ。
「あれは、ああいうもんだ」
「そうか。気持ち悪いな」
庭師は腰の剪定ばさみに手をかけた。
「真ん中、詰めていいか」
「だめだ」
「端を、もう少し」
「だめだ!」
祖父の声が珍しく一段上ずった。
後ろで祖母が小さく咳払いをした。
「庭の芝には、触らせませんよ」
祖母の声は低かった。
庭師は剪定ばさみから手を離し、祖母の方を向いて帽子を取り、頭を下げた。
「奥さんの芝には、触りません。三十年、触ったことがない」
「知っています」
祖母はそれだけ言って本家の方へ戻っていった。
祖父が小声で言った。
「……あれに勝てるやつは、この町にいねえ」
庭師はまた種を手のひらに出した。
「おい。こいつを育てるなら、夏は毎朝来るぞ」
「来い」
「金は取るぞ」
「悠蔵に言え!」
縁側の方で、百円玉が一度光った気がした。
冬のあいだに下の層から作っていた赤い土のコートが、春休みの最後の日に先にできあがった。
ハードコートの並びの端に、一面だけ赤い四角がある。
遠くから見ると絵の具を塗ったようだった。
近くで見ると細かい煉瓦の粉で、踏み固めた層の上に薄く撒いてある。
白いラインはテープを釘で留めてある。
千夏がコートの端にしゃがんで粉を指でつまんでいた。
「……赤い」
「赤いね」
「靴、白いのやめとけばよかった」
打ってみた。ボールはハードコートより高く跳ねて、そして遅い。
弾んだあとに一拍、空中にとどまる。
その一拍で足が滑った。
止まろうとした右足が粉の上をそのまま横に流れていき、体がボールから離れていく。
ハードコートなら止まれた場所だった。
もう一球。今度は滑らないように細かく足を刻んだ。
刻んでいるうちにボールが横を抜けていった。
STATUSを開くと、クレー適性はハードよりずっと低い数字のままだった。初めての床なのだから当たり前だ。
コートの外で圭が見ていた。
腕を組み、俺が止まろうとしては流されるのを黙って見ている。五球目のあとで口を開いた。
「……滑れ」
止まろうとするから流される。それは分かった。
分かったからといって、足がすぐに言うことを聞くわけではない。
六球目、右足を自分から粉の上に投げ出した。滑りすぎてボールを追い越した。
七球目は滑り出す前に球が来た。
八球目でようやく滑った先にボールがあったが、面が上を向いて球は高く浮いた。
背中の方で悲鳴が聞こえた。
振り返ると、美咲がコートの真ん中で尻もちをついていた。
おろしたての白いウェアのまま真似をして、自分から滑ってみたらしい。
尻のところが真っ赤になっている。
「うわ、真っ赤」
美咲は首をひねって自分の尻を見ていた。
「これ、洗って落ちるの?」
「落ちないと思う」
千夏がしゃがんだまま答えた。
「落ちないの?」
「煉瓦だもん」
美咲はしばらく尻を見ていたが、それから、もう一度自分から滑った。
「どうせ落ちないなら、同じだし」
もうすぐ中学生の理屈は、ときどきまっすぐすぎる。
圭は何も言わなかったが、少し肩が揺れていた気がした。
その日、初めの十球でまともに返ったのは一球だった。
滑り出す足を一歩早くし、流れている途中で膝を沈める。止まってから打つのではなく、滑り終わりで打つ。
日が傾く頃に十球で三球になった。そのあいだ圭は一度も口を開かなかった。
三球では試合にならない。滑りながら打てるようになるのは、まだ先だ。
その夕方、隣の土地に芝の種が撒かれた。
庭師が一人で腰を落として手のひらから少しずつ撒いた。
撒き終わると細いホースで霧のような水をやった。土の上にはまだ何も見えない。
赤い土は粉を撒けばできるが、芝はそうはいかない。
日本の夏を知らない種が、この国の夏を越えられるかどうか。
「根づくかね」
庭師が独り言のように言った。答えたのは、尻の赤い美咲だけだった。
「根づくよ。美咲、毎日見に来るから」




