第62話 補食
九月の終わり、夏の暑さがようやく緩んできた頃だった。
その日も圭の球出しで脚が棒のようになっていた。
ベンチで千夏が包みを差し出した。
手のひらに乗るくらいの、少しいびつな三角をしたアルミホイルの包みだった。
「……余ったから」
受け取って開けると、おにぎりが一つ入っていた。
海苔も具もない、白いご飯をぎゅっと握っただけの塩むすびだ。握り方が硬くて、持っただけで指に力が要る。
「なんで、余るの」
「……炊きすぎたから」
千夏の家の台所は千夏の母親のものだ。
千夏が何かを作っているところは、九年の付き合いで一度も見たことがない。
食べた。一口目で口の中がしょっぱくなった。
二口目もしょっぱくて、三口目あたりでしょっぱさにも少し慣れた。
千夏はベンチの反対側の端でコートの方を見ていた。
「……どう」
見ないまま聞いてきた。
味の感想を言おうとして頭の中で言葉を探した。
しょっぱい。硬い。ただ、練習のあとの身体にはちょうどいい塩分かもしれない。汗で出ていった分を補う量で、経験点の、回復の――。
「けいけ……」
「え?」
「……いや。うまい」
千夏はようやくこちらを向いた。眉を寄せていた。
言い直した方の言葉を、最初から信じていない顔だった。
「……ほんとは、しょっぱかったでしょ」
「しょっぱかった」
「塩、どれくらい入れればいいか分かんなかったの」
千夏はラケットのグリップテープの端を爪でいじりながら、また前を向いた。
塩むすびは最後の一口までしょっぱかった。全部、食べた。
次の朝は、目が覚めたときからいつもの朝より少し身体が軽かった。
昨日は圭の球出しでフットワークの練習を二時間やった。
いつもなら次の朝は、脚の奥に重さが残っている。今朝はそれが少ない。
朝ご飯のとき、母が俺の顔を見た。
「今日は顔色がいいですねえ」
「そう?」
「昨日、何か食べたんですか?」
答えに迷った。
「……塩むすび」
「塩むすび?」
「千夏の」
母はしばらく俺の顔を見ていたが、何も聞かずに味噌汁のおかわりをよそった。口の端が少し上がっていた。
夕飯の席で、琢真は公園の女の子のことをずっと見ている、と言った人だった。あのときの誤訳は、まだ訂正されていない。
違いが数字に出たのは、その日の練習の途中だった。
休憩のベンチで【STATUS】を開いた。昨日の練習で入った経験点はいつもと変わらなかった。
変わっていたのは、広げた上限までの、実際の数字の追いつき方だった。
同じ球出しの同じ二時間の半分で、いつもの日より少し先まで追いついている。
全国小学生に初めて出た年から、ときどき前の日に食べたものと次の日のSTATUSを見比べている。
はっきりした違いは、これまでほとんどなかった。朝ご飯と昼の給食と母の晩ご飯を、毎日だいたい同じ時間に食べているのだから、違いが出ようがない。
昨日違ったのは一つだけだった。練習のすぐあとに、しょっぱすぎる硬い塩むすびを一つ。
身体の作り方の順番は圭に教わった。
食べるものと食べる時間は、まだ誰にも教わっていない。
次の練習日、千夏は何も持ってこなかった。
ベンチに座って水筒のお茶を飲んでいた。
隣に座った。
「千夏」
「なに」
「この前の、塩むすび」
千夏の肩が固くなった。
「……もう作らない。しょっぱかったんでしょ」
「これ、効いてる」
千夏は水筒を口から離した。
「……何が?」
答えに詰まった。STATUSのことは言えない。
言えることだけを言った。
「次の日が、軽い」
千夏は眉を寄せた。
「身体が。練習のあとに食べたら、次の日の朝に脚が軽かった」
千夏はしばらく俺の顔を見ていた。国際遠征を断った理由を聞かれたときと同じ顔だった。
ただ今日は、ずるい、とは言わなかった。千夏の目が俺の顔から脚の方へ下りた。
「……しょっぱかったのに?」
「しょっぱかったけど」
「塩、少なくしても効く?」
「分からない」
「ご飯の量は? 具は? 食べるの、練習のすぐあとじゃないとだめ?」
「分からない」
千夏は水筒をベンチに置いて鞄からノートを出した。
美咲の相手の癖を書いている、あのノートだった。
最後の方の白いページを開いて日付を書き、その下に、塩むすび、一個、と書いた。
「……じゃあ、試す」
ペンを持つ手がいつもより速かった。
千夏はその日、センターの練習が終わるまでずっとノートを見ていて、美咲に「どうする?」と聞くのも一回しかしなかった。
帰り際、自転車に乗る前に千夏が言った。
「明日、鮭」
返事をする前に千夏は続けた。
「鮭の方が、次の日軽いかもしれないから」
「なんで、そう思う」
「……なんとなく」
千夏はそのままペダルを踏んでいった。
十月から千夏の包みの中身が毎回変わるようになった。
月曜日は梅干し、火曜日は鮭、水曜日は塩を半分にした塩むすび。
木曜日はおにぎりではなく、バナナが一本だった。
「おにぎりじゃない」
「試してるの」
千夏はノートにペンを走らせていた。ページの左に日付と渡したものが書いてあって、右側は空いている。
次の練習日になると千夏は毎回聞いてきた。俺はSTATUSを見て言える分だけ答えた。
「鮭の方が軽かった」
「梅干しより?」
「梅干しより」
「バナナは?」
「あんまり変わらなかった」
千夏は右側に書き込むと、前のページに戻って左右を指でなぞった。
「……鮭の日と、ご飯が多い日が軽い。塩だけ減らした日は、あんまり変わらない」
「そう読めるな」
「じゃあ、効いてるのは塩じゃなくてご飯の方。塩は汗で出た分」
千夏は自分で言って、自分でうなずいた。
千夏の試作品のうち、俺が食べきれなかった分は、全部美咲の胃に入っていた。
「千夏ちゃん、これももらっていい?」
鮭のおにぎりの余りを美咲が両手で持っていた。
「いいよ」
「やった。今日、三つ目!」
美咲は十二歳になっていた。
小学六年生にしてはよく食べるのは、新幹線で駅弁を三つ食べた頃から変わっていない。
十一月に入った頃、千夏のノートは一冊目の最後のページになった。
表紙に二冊目と書かれた新しいノートが、もう鞄の中に入っていた。
千夏が包みを差し出した。
「今日の」
開けると塩むすびだった。最初の日と同じ形で、握り方が少し柔らかくなっていた。
食べた。しょっぱくはなかった。ちょうどよかった。
「……どう」
「次の日に聞いてくれ」
千夏は少しむっとした顔をして、それから二冊目のノートの最初のページを開いた。
「じゃあ、明日聞く」




