↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
思春期・千夏と美咲

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
63/146

第63話 スポーツ栄養

 二〇〇〇年の一月、冬休みの終わりに、千夏がセンターのベンチで一冊の本を差し出した。


 背表紙に柏の市立図書館のシールが貼ってあった。表紙には、スポーツ栄養、と書いてある。


「これ」


 千夏はそれだけ言った。


 受け取って開くと、運動の前と後に何をいつどれくらい食べるかが書いてあった。

 汗で失われるもの。筋肉を回復させるもの。試合の前の日に食べるもの。ページの端には付箋が何枚も貼ってある。


 付箋のところを開くと、千夏のノートと同じ字で、小さく書き込みがしてあった。

 鮭。梅干し。塩の量。練習のすぐあと。


 千夏がこの四か月ノートに書いてきたことの答えが、もう何ページかにわたって書いてあった。


「冬休み、ずっと図書館にいた」


「冬休み、全部?」


「全部。宿題も向こうでやった」


 千夏は膝の上で手を握っていた。


「スポーツ栄養、っていうんだって。こういうのを勉強するところが、高校にも大学にもあるんだって」


「それも本に書いてあったのか」


「司書の人に聞いた」


 千夏はセンターのコートの方を見ていた。

 それから俺の手の中の本の、付箋の一枚を指で押さえた。


「これ、やりたい」


 センターの端のコートで泣いた千夏は、去年の五月には、何になるんだろ、と空を見ていた。

 あのとき俺が渡しかけてやめた答えは、これではなかった。渡していたら外していたことになる。


「そうか」


 俺は本を閉じて千夏に返した。付け足す言葉は探さなかった。


 その日の帰りに千夏は図書館に本を返しに行くと言った。


「延長しないの」


「する。一回返して、また借りる」


「それを延長って言うんじゃないのか」


「……二週間しか借りられないから」


 千夏は自転車のかごに本を大事そうに入れた。

 かごの中には、もう半分以上埋まった二冊目のノートも一緒に入っていた。


「三冊目、買わなきゃ」


 千夏はそう言って自転車に乗り、土手の方ではなく、図書館の方へペダルを踏んでいった。


 二月、千夏は進路を書き直した。


 同じ高校だった。俺が第一志望に書いた柏の高校に、スポーツ科学を学べる学科があった。

 俺は国際系の学科で、千夏はスポーツ科学系の学科。同じ敷地の別の棟になる。


「たまたまだから」


 願書を出した帰り道に千夏は言った。


「たまたま、同じ高校にあっただけだから」


「司書の人に聞いたんじゃなかったのか」


「……聞いたけど。聞いたら、たまたまあったの」


「……通学路だし」


 千夏はそれ以上は言わずに、自転車を押す足を速めた。


 三月の初めの合格発表の日、高校の昇降口の前に白い板が並んで、受験番号がずらりと貼り出されていた。

 俺の番号は国際系の板の上の方にあって、千夏の番号はスポーツ科学系の板の真ん中あたりにあった。


 千夏は自分の番号を見つけて、しばらく黙って立っていた。それから小さくうなずいた。


 後ろで誰かが泣き出した。振り返ると美咲だった。

 小学校を休んでついてきていて、両手で顔を覆って肩を震わせている。


「受かったあ……!」


「美咲ちゃんが受けたんじゃないでしょ」


 千夏が苦笑しながら美咲の頭を撫でた。


「だって、千夏ちゃんもおにいちゃんも、二人とも受かったんだもん……!」


 周りの受験生とその家族が美咲の方を見ていた。どの子よりも大きな声で泣いていた。


 母がハンカチを出して美咲の顔を拭いた。


「美咲、それじゃあ自分の番号を見つけた人みたいですよ」


「だって……!」


 十二歳の美咲は、三年後の自分の合格発表では今日ほど泣かないだろう。今日の分を先に泣いてしまったから。


 三月の初めの夜、家の電話が鳴った。母が出て少し話してから俺を呼んだ。


「琢真。お義兄さんからですよ」


 受話器を受け取った。


「もしもし」


「ちび一号」


「はい、ちび一号です」


「二月、降りたよ」


 悠蔵の声はいつもと同じだった。ゆるく伸ばす語尾も、笑っているような息づかいも。


「全部?」


「全部。線を越えたからねえ」


 去年の元日に縁側で手帳に引いた線だ。


「まだ上がってるけどね。降りた次の週も上がったし、今週も上がってる。周りの人はみんな、なんで降りたのって顔してるよ」


 日本の株のときも、売ったあと、年が明けるまではまだ上がっていた。

 崖がいつ来るのか俺は知らない。知らないまま、この人の線を信じた。


「それでいい」


 それだけ答えた。


「で、降りた金は赤い土と芝ね」


「赤い土と芝」


「まあ、いいんじゃない」


 受話器の向こうで悠蔵がくっくっと笑った。


「じゃあね。高校、受かったんでしょ。おめでとう」


 電話は切れた。


 赤い土と芝。センターの横にそれができたとして、高校の三年間でどこまで間に合わせられるのか。

 プロになるまでに残っているのはその三年だけだ。


 居間のテレビでは、夜のニュースがアメリカの株価の最高値を伝えていた。

 インターネット、ハイテク、新しい経済。アナウンサーの声は明るかった。


 ニュースが終わると、父が新聞を広げながら言った。


「兄貴、降りたって?」


「二月に、全部」


「……まだ上がってるのにな」


 父は銀行員の顔で新聞の株価欄を見ていたが、少しして、新聞を畳んだ。


「兄貴が降りたなら、降りるところなんだろう」


 疑り深い銀行員が根拠を聞かずに納得するのを、初めて見た。


 三月、あさひ台中学の卒業式だった。


 入学式の朝に袖が長すぎた詰め襟は、二年生の秋に一回り大きいものに買い直していたが、それももう手首がすっかり出ていた。

 明日は高校の制服の採寸がある。母は今度こそ三年もつ大きさを選ぶと言っている。


 体育館の入口で、父は今回は廊下を曲がらなかった。

 小学校の卒業式で曲がった話を朝から母に三回された。三回目で、父はしおりの地図に赤いペンで矢印を書いていた。


 式が終わると、校門の前で千夏が待っていた。

 セーラー服の袖は、千夏の方は丈が追いついていた。


 その手にアルミホイルの包みがあった。


「今日の」


「卒業式の日も?」


「今日もセンター行くでしょ」


「行く」


「じゃあ、今日の」


 受け取った包みはまだ温かかった。開けると塩むすびだった。

 式の前に握ってきたのだろう。ひと口目から、米がまだやわらかかった。


 千夏は卒業証書の筒を手の中で回していた。

 あの四月の日曜日から千夏は大会に一度も出ていない。代わりにノートが二冊と半分になった。


「高校でも作るから」


 千夏が言った。


「頼む」


「スポーツ科学科、栄養の授業があるんだって」


「三冊目が足りなくなるな」


「四冊目も買った。だから、たくまで試す」


「実験台か」


「一番分かりやすいから。次の日が軽いとか、重いとか」


 千夏は筒を回すのをやめた。


「……たくまの次の日の脚、あたしが一番よく知ってるし」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。