第63話 スポーツ栄養
二〇〇〇年の一月、冬休みの終わりに、千夏がセンターのベンチで一冊の本を差し出した。
背表紙に柏の市立図書館のシールが貼ってあった。表紙には、スポーツ栄養、と書いてある。
「これ」
千夏はそれだけ言った。
受け取って開くと、運動の前と後に何をいつどれくらい食べるかが書いてあった。
汗で失われるもの。筋肉を回復させるもの。試合の前の日に食べるもの。ページの端には付箋が何枚も貼ってある。
付箋のところを開くと、千夏のノートと同じ字で、小さく書き込みがしてあった。
鮭。梅干し。塩の量。練習のすぐあと。
千夏がこの四か月ノートに書いてきたことの答えが、もう何ページかにわたって書いてあった。
「冬休み、ずっと図書館にいた」
「冬休み、全部?」
「全部。宿題も向こうでやった」
千夏は膝の上で手を握っていた。
「スポーツ栄養、っていうんだって。こういうのを勉強するところが、高校にも大学にもあるんだって」
「それも本に書いてあったのか」
「司書の人に聞いた」
千夏はセンターのコートの方を見ていた。
それから俺の手の中の本の、付箋の一枚を指で押さえた。
「これ、やりたい」
センターの端のコートで泣いた千夏は、去年の五月には、何になるんだろ、と空を見ていた。
あのとき俺が渡しかけてやめた答えは、これではなかった。渡していたら外していたことになる。
「そうか」
俺は本を閉じて千夏に返した。付け足す言葉は探さなかった。
その日の帰りに千夏は図書館に本を返しに行くと言った。
「延長しないの」
「する。一回返して、また借りる」
「それを延長って言うんじゃないのか」
「……二週間しか借りられないから」
千夏は自転車のかごに本を大事そうに入れた。
かごの中には、もう半分以上埋まった二冊目のノートも一緒に入っていた。
「三冊目、買わなきゃ」
千夏はそう言って自転車に乗り、土手の方ではなく、図書館の方へペダルを踏んでいった。
二月、千夏は進路を書き直した。
同じ高校だった。俺が第一志望に書いた柏の高校に、スポーツ科学を学べる学科があった。
俺は国際系の学科で、千夏はスポーツ科学系の学科。同じ敷地の別の棟になる。
「たまたまだから」
願書を出した帰り道に千夏は言った。
「たまたま、同じ高校にあっただけだから」
「司書の人に聞いたんじゃなかったのか」
「……聞いたけど。聞いたら、たまたまあったの」
「……通学路だし」
千夏はそれ以上は言わずに、自転車を押す足を速めた。
三月の初めの合格発表の日、高校の昇降口の前に白い板が並んで、受験番号がずらりと貼り出されていた。
俺の番号は国際系の板の上の方にあって、千夏の番号はスポーツ科学系の板の真ん中あたりにあった。
千夏は自分の番号を見つけて、しばらく黙って立っていた。それから小さくうなずいた。
後ろで誰かが泣き出した。振り返ると美咲だった。
小学校を休んでついてきていて、両手で顔を覆って肩を震わせている。
「受かったあ……!」
「美咲ちゃんが受けたんじゃないでしょ」
千夏が苦笑しながら美咲の頭を撫でた。
「だって、千夏ちゃんもおにいちゃんも、二人とも受かったんだもん……!」
周りの受験生とその家族が美咲の方を見ていた。どの子よりも大きな声で泣いていた。
母がハンカチを出して美咲の顔を拭いた。
「美咲、それじゃあ自分の番号を見つけた人みたいですよ」
「だって……!」
十二歳の美咲は、三年後の自分の合格発表では今日ほど泣かないだろう。今日の分を先に泣いてしまったから。
三月の初めの夜、家の電話が鳴った。母が出て少し話してから俺を呼んだ。
「琢真。お義兄さんからですよ」
受話器を受け取った。
「もしもし」
「ちび一号」
「はい、ちび一号です」
「二月、降りたよ」
悠蔵の声はいつもと同じだった。ゆるく伸ばす語尾も、笑っているような息づかいも。
「全部?」
「全部。線を越えたからねえ」
去年の元日に縁側で手帳に引いた線だ。
「まだ上がってるけどね。降りた次の週も上がったし、今週も上がってる。周りの人はみんな、なんで降りたのって顔してるよ」
日本の株のときも、売ったあと、年が明けるまではまだ上がっていた。
崖がいつ来るのか俺は知らない。知らないまま、この人の線を信じた。
「それでいい」
それだけ答えた。
「で、降りた金は赤い土と芝ね」
「赤い土と芝」
「まあ、いいんじゃない」
受話器の向こうで悠蔵がくっくっと笑った。
「じゃあね。高校、受かったんでしょ。おめでとう」
電話は切れた。
赤い土と芝。センターの横にそれができたとして、高校の三年間でどこまで間に合わせられるのか。
プロになるまでに残っているのはその三年だけだ。
居間のテレビでは、夜のニュースがアメリカの株価の最高値を伝えていた。
インターネット、ハイテク、新しい経済。アナウンサーの声は明るかった。
ニュースが終わると、父が新聞を広げながら言った。
「兄貴、降りたって?」
「二月に、全部」
「……まだ上がってるのにな」
父は銀行員の顔で新聞の株価欄を見ていたが、少しして、新聞を畳んだ。
「兄貴が降りたなら、降りるところなんだろう」
疑り深い銀行員が根拠を聞かずに納得するのを、初めて見た。
三月、あさひ台中学の卒業式だった。
入学式の朝に袖が長すぎた詰め襟は、二年生の秋に一回り大きいものに買い直していたが、それももう手首がすっかり出ていた。
明日は高校の制服の採寸がある。母は今度こそ三年もつ大きさを選ぶと言っている。
体育館の入口で、父は今回は廊下を曲がらなかった。
小学校の卒業式で曲がった話を朝から母に三回された。三回目で、父はしおりの地図に赤いペンで矢印を書いていた。
式が終わると、校門の前で千夏が待っていた。
セーラー服の袖は、千夏の方は丈が追いついていた。
その手にアルミホイルの包みがあった。
「今日の」
「卒業式の日も?」
「今日もセンター行くでしょ」
「行く」
「じゃあ、今日の」
受け取った包みはまだ温かかった。開けると塩むすびだった。
式の前に握ってきたのだろう。ひと口目から、米がまだやわらかかった。
千夏は卒業証書の筒を手の中で回していた。
あの四月の日曜日から千夏は大会に一度も出ていない。代わりにノートが二冊と半分になった。
「高校でも作るから」
千夏が言った。
「頼む」
「スポーツ科学科、栄養の授業があるんだって」
「三冊目が足りなくなるな」
「四冊目も買った。だから、たくまで試す」
「実験台か」
「一番分かりやすいから。次の日が軽いとか、重いとか」
千夏は筒を回すのをやめた。
「……たくまの次の日の脚、あたしが一番よく知ってるし」




