第61話 何になる
一九九九年の四月、中学三年の最初の週に、進路調査票が配られた。
第一志望、第二志望、第三志望と並んで、その下に将来の夢という欄があった。
第一志望の欄には、英語と国際的なことを学べる学科のある県内の高校を書いた。
世界の四つの大会は全部日本の外にある。言葉が要る。
前世の英語は、読むことはできても話すことはほとんどできず、中継で聞いた選手のインタビューも半分くらいしか分からなかった。
三十歳までに四つ取るなら、プロになるのは高校を出てすぐだ。
高校の三年間で話せるようになっておく必要がある。
第二と第三にも同じような学科を書いて、将来の夢の欄をしばらく見ていた。
テニス選手と書けば一番すんなり通るだろう。ただ、それは夢ではない。四つ取らなければ死ぬ。
テニス選手になるのは死なないための手段だ。夢と言われると別のものになる。
ペンを動かして三文字だけ書いた。
翌週の面談で担任の先生が調査票を机の上に広げた。
四十代の数学の先生で、眼鏡の奥で何度か紙の上下を見比べていた。
「丹羽」
「はい」
「将来の夢……長生き?」
「はい」
先生は眼鏡を外して目をこすった。
「……中三で?」
「はい」
先生は何か言いかけてやめた。それから下に重なっていた次の生徒の調査票に目をやった。
「……藤代は白紙か」
先生は二枚の紙を並べてため息をついた。
「お前ら、テニスやってる子はみんなこうなのか」
面談のあと、廊下で次の順番を待っていた千夏とすれ違った。
「……長生き、って書いたんだって?」
「なんで知ってる」
「先生の声、大きいから。廊下まで聞こえた」
千夏は少しだけ笑って、それから面談の部屋の扉を見た。
「あたしの白紙も聞こえた?」
「聞こえた。先生が俺のと並べてた」
「……そっか」
千夏はそれだけ言って扉を開けて入っていった。
中から先生のさっきより少し優しい声が聞こえた。
五月の夕方、センターのベンチで千夏が隣に座った。
あの日から一年、千夏は大会に一度も出ていなかった。
美咲の相手をして美咲に「どうする?」と聞き、それから一人で壁打ちをして帰る。テニスはやめていないが、どこにも向かっていない。
コートの照明がついたところだった。真ん中のコートで圭が美咲に球出しをしている。
美咲にも圭は一つだけしか言わないが、ときどきは言う。千夏には今も言わない。
千夏は父親の球出しをぼんやり見ていた。
「あたし、何になるんだろ」
独り言に近い声だった。
「テニスの選手にはならない。それは決めた」
「知ってる」
「でも、じゃあ何って聞かれると分かんない。白紙で出したら、ちゃんと考えなさいって言われた」
「長生きよりはましだとは言われなかったか」
「言われた」
千夏は少し笑ってすぐに前を向き直した。
答えを渡すことはできた。
千夏がこの一年、美咲の相手をしながら見せてきたもの。人のテニスを見て癖を見つけ、何を変えればいいかを自分では言わずに、相手に考えさせる。
渡さなかった。一つだけ言う人は、俺に「言うな」と言った。
あれは美咲の話だったが、千夏に当てはめても話は変わらない。自分で選ばないと意味がない。
千夏は空を見ていた。夕方の空はまだ少し明るかったが、答えはそこにも書いていなかったらしい。
照明の下で美咲のサーブがネットにかかった。
圭は何も言わず、美咲はボールを拾って、また打った。千夏はその様子をしばらく見ていた。
「美咲ちゃん、最近は自分で直すのが上手くなった」
「千夏のおかげ」
「……そういうこと、言わないで」
千夏はそう言ってベンチから立ち上がった。
顔は見えなかったが、耳の先が赤かった。
七月の終わり、美咲は全国小学生で連覇した。小学六年生だった。
決勝は去年よりずっと短かった。
兄の四つの言葉はまだ全部持っていて、その上に、千夏の「どうする?」で見つけたものがいくつも積み重なっている。
跳ねるボールには前に出る。低いボールには膝を落とす。相手がネットに出てきたら足もとに沈める。
どれも俺は言っていない。
決勝の前、客席で千夏が美咲にノートを破った紙を一枚渡していた。
準決勝を客席の一番前で見ながら、千夏が書いた相手の癖だ。
「バックの高いボール、嫌がる」
「はい!」
「でも、どうするかは美咲ちゃんが決めて」
「決めます!」
美咲は紙をラケットケースのポケットにしまい、試合のあいだ一度もそれを見なかった。
見なくても覚えていたのか、それとも見る必要がなかったのか。
俺は客席で千夏の隣に座っていた。
千夏は一ポイントごとにノートに何か書いた。美咲がバックの高いところを狙ったときも狙わなかったときも、ペンは同じ速さで動いた。
当たったかどうかではなく、美咲が何を選んだかを書いているのだと思う。
美咲は相手のバックの高いところに、三回ボールを集めた。
四回目は、集めなかった。
相手がバックの高いところに備えて下がったのを見て、反対側の低いところに沈めた。
紙にはそこまでは書いていなかった。
マッチポイントで千夏のペンが止まった。最後の一球だけは書かずに見ていた。
六対一。
圭は今年も協会の仕事で会場に来ていて、関係者の席で手帳に何かを書いていた。
父と娘で、同じ試合を別々の紙に書いていた。
帰りの車の中で、千夏は窓の外を見ていた。
今年も美咲が千夏と一緒に帰りたいと言い張って、千夏は丹羽家の車に乗っている。
その美咲は後ろの席で優勝カップを抱えて眠っていた。今年は祖父より先にカップを確保したのだ。
真ん中の席で千夏が膝の上のノートを開いていた。
準決勝と決勝の相手の癖と、美咲の打ったボールと、それがどこに落ちたか。何が効いて何が効かなかったか。びっしり書いてあった。
「それ、いつから書いてるの」
「去年の秋」
一年分の美咲の試合だった。
千夏はノートを閉じて、窓の方を向いたまま言った。
「隣にいて何の役に立てるのか、分かんない」
前の席の父と母には届かないくらいの声だった。
「美咲ちゃんには、できる。紙を渡して、どうするって聞けばいい」
「最後の一球、書いてなかったな」
「……見なくていいから、そういうの」
千夏はノートの表紙を指でなぞっていた。
「でも、たくまには何もできない。紙は要らないし、どうするって聞いても答えはもう持ってるし」
千夏は小さく息を吸った。
「でも、何かしたい」
それだけ言って千夏は目を閉じた。眠ったふりをしているのは分かった。
何を、とは言わなかった。聞いても、分かんない、が返ってくる気がした。
分からないまま言った「したい」の方が、四月の調査票のどの欄の字よりもはっきりしていた。




