第60話 崖の手前
一九九九年の元日の朝、本家へ向かう車の中で、美咲が窓の外を見ながら言った。
「おにいちゃん、今年はおじさんに何頼むの?」
「まだ決めてない」
「美咲はもう決めてる!」
「何」
「コートをもう一面!」
父がハンドルを握ったままため息をついた。
「お前ら兄妹は、正月の伯父さんを何だと思ってるんだ」
正月の縁側は、ずっと前からそういう場所だった。
今年も悠蔵は縁側にいた。
ただし寝転んではおらず、腰かけて塀の向こうのセンターの屋根を見ていた。顔の上にあるはずの新聞は膝の上にたたんで置いてある。
「おめでとう、ちび一号」
「おめでとう」
十四歳で身長は悠蔵とほとんど変わらなくなった。
ちびと呼ばれる理由はもうどこにもないが、悠蔵に変える気はないようだ。
隣に座ると悠蔵は膝の新聞に手を置いたまま言った。
「アメリカのやつね」
「うん」
「今年は、すごいよ」
それだけだった。数字を言わないのは毎年同じだ。
ただ今年の「すごい」は、これまでの「ちょっと違う」とも「もっと違う」とも声の温度が違った。
センターを建てた金はまだ坂の途中で作った金だった。坂は今が一番急なところだ。
前世の記憶の中では、この年と次の年の始めあたりが坂のてっぺんだった。
パソコンとインターネットと、名前に「ドットコム」がつく会社。
上がる理由を誰も説明できないまま、何でも上がる。そして崖になる。
日付は覚えていない。二〇〇〇年のどこか、としか。
「おじさん」
「なに」
「来年の春、降りて」
悠蔵は目だけをこちらに向けた。
少しのあいだ何も言わずに、新聞の上に置いていた手の指を一本だけ動かした。
「……へえ。そう来るか」
日本の株のときも、うちの小さな庭のベンチの前で俺は同じようなことを言った。
天井に向かっていた年の暮れに、年が明ける前に全部売って、と。
悠蔵は理由を聞かなかった。お年玉を株にしてくれと言ったときから、一度も聞いたことがない。
聞く代わりに上着の内ポケットから黒い革の手帳を出した。
十三年分の数字がびっしり書いてある手帳だ。
「来年の春、ね」
「うん」
「日付は?」
「分からない」
「分からない、か」
悠蔵は繰り返した。数字を確かめる声だった。
「じゃあ、日付じゃなくて上がり方で決めようかねえ」
何の、と聞く前に悠蔵は続けた。
「一か月でこれだけ上がったらおかしい、二か月でこれだけならもっとおかしい。そういう線を先に引いとくんだよ」
悠蔵は手帳の新しいページに数字を書き始めた。
覗き込んでも、俺には意味が分からなかった。この人の数字は、この人のものだ。
「線を越えたら全部降りる。来年の春より早くても遅くても。それでいい?」
うなずいた。
あのときは違った。
この人は百円玉を弾かずにポケットに戻して、数字ではなく俺の言葉で降りた。そのあとで崖が来た。
今度は、天井のありかを言うところまでが俺の役で、降りる線はこの人が自分の数字で引く。
俺の知識は粗い。
悠蔵は手帳を閉じて、いつものように聞いた。
「で、降りたら何に使う?」
答えは決まっていた。世界の四つの大会は床が違う。
ハードが二つ、赤い土が一つ、芝が一つ。センターにはハードしかない。
「赤い土と、芝」
悠蔵は塀の向こうの、センターの横のまだ空いている土地を見た。祖父の雑草の土地の残りの部分だ。
「……赤い土と芝ね」
「うん」
「高いよ、芝は。たぶん」
「たぶん」
「まあ、いいんじゃない」
悠蔵はくっくっと喉の奥で笑った。
「降りた金は、崖の下には落ちないからねえ」
手帳を内ポケットにしまうと、悠蔵は縁側に寝転んで新聞を顔の上に載せた。今年初めての、いつもの姿勢だった。
座敷に戻ると、祖父が上座で酒を飲んでいた。縁側の話が聞こえていたようだ。
「琢真」
「はい」
「芝が欲しいのか」
祖父は上機嫌だった。
「芝なら庭にあるぞ」
祖父は障子の向こうの庭をあごで指した。
本家の庭には確かに芝生がある。縁側から土蔵まで、祖母が毎年手入れをしている、きれいな芝生だ。
「あれを剥がしてコートに――」
「庭の芝は、わたしの芝です」
祖母の声だった。
台所からお雑煮のお椀を運んできたところで、そのお椀を祖父の前に静かに置いた。
「三十年手入れをしてきた芝です」
「……いや、例えばの話で」
「例えばでも、わたしの芝です」
祖父はお雑煮の餅を黙って箸でつまみ、しばらく噛んでいた。
それから塀の方をあごで指し直した。
「……なら、向こうの残りだ。あそこは雑草だろう」
「雑草なら、どうぞ」
祖母はあっさり言って台所へ戻っていった。
縁側から戻ってきた悠蔵が座布団に座りながら祖父の顔を見た。
「で、いくらかかるの?」
「知らん。お前が調べろ」
「調べるけどね。芝の値段は、僕も知らないよ」
美咲が座敷の隅でお年玉袋を数えていた。
「いち、に、さん、ご」
「よん」
祖母が台所から振り向きもせずに言った。
美咲がこちらを見て小さく舌を出した。十一歳の四は、わざと抜けるらしい。
その夜は布団の中で天井を見ていた。
一九八七年の十月に世界中の株が一日だけ崖から落ちた日を、俺は覚えていなかった。
あのとき慌てて売らせようとした俺を悠蔵は聞き流した。先に引いた線に届いていない、と。相場はそのあと戻った。
知っていることの粗さより、あのとき慌てたことの方が今は引っかかる。
来年の春のどこかで線の前に立つのはまたあの人で、慌てるのはたぶんまた俺の方だ。
美咲の部屋の明かりが、まだ廊下に漏れていた。
寝言ではない。起きていて、何かをぶつぶつ言っている。
「……コート、もう一面……おじさん、いいって、言うかな……」
美咲も正月の縁側で悠蔵に頼んだらしい。
答えは聞かなくても分かる。「で、いくらかかるの?」だ。
表示は開かずに、目を閉じた。
STATUSには、悠蔵のことは何も書いていない。




