第59話 線香花火
一九九八年の八月、夏休みの最後の土曜日に、本家の庭で花火をした。
丹羽家と藤代家と、祖父母と悠蔵。圭も今年は来ていた。
夕方に本家に着くと、庭にはもう縁台が出ていて、祖母がその上に蚊取り線香を三つ並べていた。
千夏は紺地に白い朝顔の浴衣を着ていた。
着付けたのは千夏の母親で、帯が斜めになっていた。
「……なに」
目が合うと千夏はそう言った。
「何も」
「見てたでしょ」
「帯が斜めだった」
千夏は慌てて帯に手をやり、直そうとして余計に斜めにした。千夏の母親が笑いながら直しに来た。
縁側には祖母の用意したスイカと麦茶が並んでいた。
庭の真ん中には祖父の用意したものが並んでいた。打ち上げ花火の筒が十本以上。
「どうだ!」
祖父が最初の一本に火をつけた。
ひゅう、と音がして、本家の屋根の上で光が開き、ぱん、と鳴った。
美咲が手を叩き、千夏の母親も声を上げた。
二本目、三本目と、祖父は次々に火をつけていった。
八本目のあたりで、座敷の電話が鳴った。祖母が出て、しばらくして戻ってきた。
「お隣から」
九本目の導火線に火をつけようとしていた祖父が、手を止めた。
「なんだ」
「犬が、怯えて、小屋から出てこないそうです」
祖父は九本目をそっと地面に置いた。
「……明日、お菓子を持っていきます」
祖母はそれだけ言って縁側に座り直した。祖父は残りの筒を一本ずつ黙って箱に戻した。
悠蔵が縁側でスイカの種を皿に出しながらつぶやいた。
「で、いくら損したの?」
「……聞くな」
祖父の声は珍しく小さかった。
圭は縁側の端で麦茶のコップを持ったまま、少しだけ口の端を動かしていた。千夏がそれに気づいて父親と反対の方を向いた。
手持ちの花火が配られる前に、縁側にケーキが出てきた。
千夏の十四歳の誕生日は昨日の金曜日だった。
母と千夏の母親が二人で買ってきたケーキに、ろうそくが十四本立っていた。
美咲が立ち上がった。
「歌います!」
誰も頼んでいなかった。
「はっぴばーすでー、とぅー、ゆー」
大人たちがつられて手を叩いた。
「はっぴばーすでー、とぅー、ゆー。はっぴばーすでー、でぃあ、千夏ちゃーん……」
美咲はそこで少し考えた。
「……と、おにいちゃーん」
俺の誕生日は七月の終わりで、千夏とは一か月違う。美咲はついでに俺も祝うことにしたようだった。
「はっぴばーすでー、とぅー、ゆー」
最後だけはみんなで歌った。
千夏がろうそくを吹いた。一回では消えきらず、二回目で残りの三本が消えた。
千夏の母親が拍手をして、圭は縁側の端で何も言わずに拍手を二回だけした。
千夏は父親の方をちらりと見てからケーキを切り始めた。
一切れ目を美咲に、二切れ目を祖母に。三切れ目を、俺の皿に置いた。
「……ついでだから」
ケーキを食べ終わった頃に悠蔵が縁側の端から線香花火の束を持ってきた。
「はい、これ。打ち上げの代わりね」
祖父が恨めしそうにその束を見た。
「線香花火なんぞ、音もしねえ」
「音がしないから、お隣から電話も来ないよ」
悠蔵は束を子どもたちの人数分に分け始めた。美咲に三本、俺に二本、千夏に二本。
千夏の母親が数を見て笑った。
「あら、美咲ちゃんだけ三本?」
「一番早く落とすからねえ」
美咲は三本を握りしめて真剣な顔でうなずいた。自分が一番早く落とすことは、否定しなかった。
手持ちの花火が終わりかけた頃、庭の隅で千夏と二人になった。
大人たちは縁側でスイカを食べていて、美咲は祖父の膝の上で、打ち上げられなかった花火の筒を数えていた。
千夏が線香花火を二本持ってきて、一本を俺に渡した。
しゃがんでろうそくの火で先を焦がすと、小さな玉がぷつりとできて、細い火花が散り始めた。
あの四月の日曜日から、五か月近くになる。センターでは毎日会っている。
ただ、あの日のことは二人とも話していない。
千夏は火の玉をじっと見ていた。
「……これ、最後まで落ちないと願いがかなうんだって」
小さな声だった。返事はしなかった。願いの話には、今は乗れない。
勝負のあとから、千夏が俺を見る目は勝ちたい相手を見る目ではなくなった。
では、何を見る目なのか。
それに名前を付けることはできるが、付けないことにしている。
二つの火の玉が震えていた。火花がだんだん細くなっていく。
千夏の玉が先に落ちた。地面の上で一度だけ小さく光って消えた。
「あ」
千夏は落ちた場所を見ていた。俺の玉はまだついていて、少しして落ちた。
千夏は立ち上がって燃えかすを水の入ったバケツに入れた。
「……たくまの方が長かった」
「線香花火に勝ち負けがあるとは知らなかった」
「あるの。願い、何にしたの」
「何も」
嘘ではなかった。願いを決めていなかった。
決めていない願いなら、玉が落ちても落ちなくても関係がない。
千夏はバケツの水面を見ていた。
「ふうん」
それだけ言って縁側の方へ歩いていった。
縁側の方から美咲の声がした。
「あー! 落ちた!」
三本目も落ちたようだった。悠蔵の予想はまた当たった。
その夜、布団の中で久しぶりにミッションの一番下を開いた。
一覧のずっと下の、ほかの行から少し離れたところだ。
■最終ミッション▽
達成条件
四大大会全制覇
達成期限
三十歳
成功報酬
失敗ペナルティ
心停止
赤子のときに見たのと何も変わっていなかった。
成功報酬の欄には、今も何も表示されていない。
枕元に新聞の切れ端が一枚ある。
本家の縁側でスイカの皿の下に敷いてあった古新聞で、帰りに一枚だけもらってきた。
七月の初めのスポーツ面の、隅の小さな記事だ。
ヨーロッパのジュニアの大会で十七歳が優勝した。名前のカタカナには覚えがない。
写真は切手ほどの大きさで、打ち終えた少年が写っていた。
振り抜いたラケットの高さと、傾いた首。前世のテレビで何度も見た形だった。
呼び名しか知らない四人の誰かだ。
俺より三つ上で、もう海の向こうで勝っている。
三十歳まで、あと十六年。
俺は去年の夏、日本の中学生を相手に、縛りを付けて一セット落とした。
あの四人がこれから十年のうちに世界の頂点に並ぶ。
その間に割り込んで四つ全部を取る。取れなければ心停止だ。
線香花火の火の玉を思い出した。最後まで落ちなければ願いがかなう。
千夏が何を願ったのかは聞かなかった。
聞けば千夏は答えるかもしれない。
答えを聞いたら、俺は何かを言わなければならなくなる。三十歳の先のことを何一つ約束できない男が。
先のことは言わない。四つ取って、期限が消えるまでは。
切れ端を折りたたんで、枕元の英語の辞書に挟んだ。
表示を閉じると、九時五十八分だった。
今夜だけは十時を少し過ぎてもいい気がした。
過ぎないように、目を閉じた。
隣の部屋から、美咲の寝言が聞こえた。
「……おちない……おちない……」
三本とも最初に落としたらしい。




